走る怪物
おそらく居合抜きだ。
恐ろしい程の速度で近づき抜刀し、一瞬で大駒の首筋を切ったのだ。
大駒はそれを理解する前に、力なく地面へと倒れ込んだ。
首から滝のように血を流し、一気に意識が遠のいていく。それを見て伊子が言葉にならない悲鳴をあげて尻餅をついた。
「いくら怪物染みた腕力があろうとも、弱い急所を気付かぬ間に切れれば、為す術なかろう。不意を突くなどというのは侍にとってあるまじき行為ではあるが、しかしされとて拙者は雇われの身。託された仕事は確実に成し遂げる。そのためには礼節すら掃き捨てよう」
「……どう、じで……」
「ほう、まだ喋るか。報告の通り、驚くべき体力だ」
山南は少し驚いたように眉を上げる。
「昨夜の《ワルキューレ》の少女の半覚醒を機に、御上らの割れていた意見が一致した。あの神仏の如き力を、このまま様子見で放置するわけにはいかない、と。それ故あの少女を回収することと相成った……が、お主がいると、少女はお主から離れぬ。無理矢理離そうとすれば、三度怒り今度はどれだけの被害が出るか予想もつかぬ。それ故ひとまず先に、当初の予定通りお主を処分する事になった」
「……」
「しかしあの少女の目の前でお主を切れば、必然、あの少女は怒る。下手をすればそのまま〈逢魔ヶ時〉を迎え、暴れ出すやもしれん。そうなればお主の時とは比べものにならない被害が出る。そしてそれを拙者らも止められぬだろう。それ故、あの少女が見ておらぬところで、ひっそりとお主を処分しようと言うことになった。お主が帰らず寂しい思いをするだろうが、少女は徐々にお主への依存を解いていく。聞けば宝華殿にも懐いておられるようだからな、少女は自然と宝華殿に心を委ねていく。そうなれば、もう危険は取り払われる」
大駒は今にも途切れそうになる意識の中、それを聞いていた。
だが意識が朦朧とする。あまりに血が出過ぎた。即死していないのが不思議なくらいだ。
「拙者のモットーは一振一殺。宝華殿のような情けはかけぬ。しかしまさかこれでも生きているとはな……やはり〈逢魔ヶ時〉を迎えずとも、《怪物》としての才がお主には溢れていると言うことか」
そう言って山南は刀を抜き、それを逆手に持って大駒の頭の上にかざした。
最後の詰めをしようと。
そしてその目に先ほどまでの緩い男の瞳は無い。
大駒を殺すことを何一つ迷っていない、冷酷な瞳をしていた。
この男は泣き言を言ったところで、目の前に大駒の家族がいたところで、その刃を止めはしないだろう。
躊躇なく、振り下ろす――
「やめてッ!」
その時、声もあげられず震えるように状況を見つめることしかできなかった伊子が、叫んだ。それは彼女なりに精一杯の叫びだったのだろう。
顔は涙と恐怖で満ちている。
「せ、んぱい……殺さない、で……」
「すまぬな。正義のためでござる。辛ければ、目を閉じていろ」
「や、めて……そうだ、先生、警察……!」
自分では止められない。
そう思った伊子が、混乱の末、人を呼ぼうと決めて立ち上がった。そしておぼつかない足取りで部室棟の方へと走っていく。
「ふむ。今から呼びに行ったところで間に合わぬというのに……余程混乱しているか。しかし人を呼ばれても面倒だ」
そうぼやくように言って、山南はその逆手に持った刀を、投擲するように伊子の背中に向けた。
やめろ――声の出せない大駒が、それでも心の中でそう叫んだ。
だが山南は躊躇うこと無くその刀を走り去る伊子へと投げた。
ゴッ――と鈍い音がして、刀は見事伊子に命中し、彼女はその場に倒れ込んだ。
ばたりと、力なく、死んだように。
「ふむ。さすが拙者。今度、流派でも開こうかな」
特に思うところもなさそうに、山南はそう言って投げた刀の方へと歩いて行く。
そして落ちた刀を拾い上げ、それを持って再び大駒の方を振り返った。
「う……ぐ……ぁ……」
その時、瀕死状態だったはずの大駒から、声が漏れた。
そしてさらに、その身体が微かに震え始める。
「怒ったでござるか。だがどれだけ怒ろうとも、お主の神経を切ったから身体は動かせまい。感情の問題ではござらん。人体の構造の問題でござる。そのためにそこを狙ったのだ」
「う、お、ぉ、おおおおおォォォォッッッ!!」
「ッ!?」
だが人体構造上、もう動けないはずの大駒の身体が、持ち上がった。
ぐらりと立ち上がり、そしてその顔を正面へと向ける。
「首が……治ってる……?」
大駒のそのぱっくり切られたはずの首は、何故かもう塞がりかけていた。
血は既に止まり、大駒の首の筋肉が膨れあがるように肥大していく。
「まさか、〈逢魔ヶ時〉か!?」
大駒の着ていたジャージが破け飛ぶ。
それほどに彼の身体が膨らんでいく。筋肉が、肥大していく。
髪の色素が抜け白くなり、逆立つ。
身体は不自然に黒くなっていって、真っ白な髪と奇妙なコントラストをつくり出す。
顔はライオンのように雄々しくなり、八重歯が鋭く長くなっていく。
そしてその瞳には、人の心は宿っていなかった。
もはやそれは黄磊大駒ではない。
黄磊大駒だった、何かだ。
そして見るからに、それはただただ、《怪物》である。
「まさか、致命傷をも修復する快復力を持ち合わせているというのか……? ということは肉体変化タイプではなく、肉体強化タイプか。しかしこれほどとは……」
もはや侍語を使う余裕も無くなったのか、山南は慌てたように刀を鞘にしまい込んだ。
「ウガアアァァァァァッッ!!」
怒り狂った獣が叫んだ。
それはまるで世界中に轟かん程に、大気を揺らす。
あまりの大声に、山南は顔をしかめる。
そして何事かと、部室棟から次々と学生たちの顔が出てくる。
「これ以上騒ぎが大きくなる前に、処分させてもらう!」
刀を鞘に収めた状態で、山南は深く腰を落とした。
そして目の前の標的に向かって、《怪物》になった大駒が地面を揺らして駆けてくるのを見据えた。
大駒の重い身体が間合いに入った瞬間、山南は先ほどと同じように刹那の速さで踏み込み、大駒の首を、今度は切り落とそうと狙った。
――が、その刀が大駒の首を通さない。
少し切れた程度で、それ以上刃が通らない。
「しまっ――」
ドゴォ! ――と、大駒はその巨大な手で、山南を横から平手打ちに吹き飛ばす。
林の方へと飛んでいった山南は、ぶち当たった木々を何本もへし折って進み、ようやく一際太い木に当たって止まり、地面へと崩れ落ちた。
たったその一撃で、彼は動かなくなってしまった。
標的を見据えていた大駒は、蚊でも潰すように首に刺さったままの刀を摘まみ抜いた。そしてそれを親指と人差し指とでぐにゃりとへし折る。もはやマッチ棒だ。
そのまま再び山南の飛んでいった方向へと視線を戻し、あの男をぐちゃぐちゃに破壊しようと、林の方に向かって歩き出した。
「お、おいあれ、何だよ?」
だが、大駒が背を向けた部室棟から、声が聞こえてくる。
大駒はその声に足を止めた。
「女の子が倒れてる」
「てかあれ人……じゃないよね?」
「なんだよあれ……化け物じゃねえか!」
その声は部室棟から騒ぎを聞いて顔を出した、学生たち。その中にはもちろん、演劇部の仲間もいる。
ぐるり、と大駒が半身を返してそちらを睨み付けると、生徒達は一斉に声を止めて黙り込んだ。まるで蛇に睨まれたカエルのように。
その怪物の行動を、見定めるように。
「ウ、ガアアアァァァッッ!」
大駒は叫んだ。
そして反転し、まるでゴリラのように数歩駆けた後、なんとその巨体からは考えられない程に、跳び上がった。それは二階建ての部室棟を軽く飛び越える。
そうしてそのまま落下する勢いで、大駒は拳を振るった。
ドゴォン!! ――と、激しい音がして、部室棟の屋根の一部が吹き飛んだ。
それと同時、生徒達は一斉に声をあげて逃げ始める。
阿鼻叫喚に逃げまどう生徒達の声に苛立つように、大駒は暴れ回る。目の前にあるものから順に、その重機のような腕で破壊していく。
理性も何も無い、怪物のように。
その時、崩れた足場に飲まれ、大駒の身体は屋根から室内へと落ちていった。
悲鳴が上がる。そこは普通の部室よりも数倍広い部屋。
何十人もの生徒がまだそこに残っていて、落ちてきた怪物に怯えるように涙を浮かべて縮んでいる。
そこは大駒も見覚えのある、演劇部だった。
おそらく二階で上手く逃げる事ができず、タイミングを失って部室内に隠れていたのだろう。
大駒はまだ心が残っているのか、その部屋を見た瞬間、破壊行動を止めた。
何かを思い出すように、周囲を見渡している。
「……お前、ブランカか……?」
その時、誰かが言った。
それは主役だった。誰もが縮まって身を守ろうとしている中、一人立ち上がって大駒に歩み寄ってくる。その顔は珍しく焦りに満ちていて、彼は自信が無いと言った感じでその怪物に尋ねた。
お前は黄磊大駒か――と。
怪物はじっと主役を見つめた。
「……ヴウ……」
怪物が、痛そうに頭を抱えた。
何かを思い出そうと。何かに抵抗しようと。
そして苦しそうに涎を垂らして、その場で上半身を揺らしだした。
白かった髪が徐々に黒くなっていき、獣染みていた顔は、人間味を取り戻してくる。
「そう、なんだな? お前は、やっぱりブランカなんだな?」
大駒の側まで寄った主役が、周囲に聞こえないように小さな声で言った。
大駒はそのわずかに人に戻った瞳で主役を捉え、
「ぜ、先ぱ……俺……グ、ガアアアァァッ!!」
痛みに耐えきれないかのように、大駒はそう叫んだ。
そしてそのまま逃げるように跳び上がり、穴の空いた天井から抜け出た。
「待って! 待ってくれ!」
背後からまだ声がしてくる。
だが大駒は走った。理性が戻っている内に、自分が自分でいられる内に、早くこの場を去ろうと。
誰も傷つけないように。誰も悲しませないように。
それがもう、手遅れだと知りながら。
大駒は走った。




