zfじぇ♯kあsdっ!?
九鳴高校から徒歩二十分くらいの場所に、今にも崩壊してしまいそうな、木造建築アパート〝本斗荘〟がある。敷金礼金無し。六畳一間のユニットバス。家賃は二万五千円。駅からも街からも遠いその不便なアパートの二階、二〇一号室に、黄磊大駒は住んでいる。
「なぁノラ。何食いたい?」
六畳一間の台所に立つ大駒が言った。彼が立っただけで台所はぱんぱんだった。
全身が包帯と絆創膏だらけで、見るからに痛々しい。だが本人はどこか元気そうだ。
「かれー!」
大駒に肩車された状態のノラが言った。
彼女の外見には特に怪我などはなく、しかしいつもより元気そうだ。
「ん~カレーかぁ。俺、カレーは作った事ないんだよなァ……まぁでもお前もうちに来たことだし、憶えるか!」
「おー!」
二人はすっかり意気投合した様子だった。しかし小さな部屋だ。大駒が動くたびに、肩の上のノラが天井や壁に頭をぶつける。その度にノラは「ぐえっ」とうめき声を鳴らした。
「ん……」
その時、彼らの声に反応して、後ろの布団の上で眠っていた人物が目を覚ました。
大駒はそれに敏感に気付き、手に取った包丁を置いて駆け寄った。
そこに眠っていたのは昨夜大駒を殺そうとした女、宝華比美だった。
彼女は布団から出たその小さな顔に付いている大きな眼を、ゆっくりと開いた。
「え、ここ、は……ひぃッ!?」
しかし目を開けた先にいた、こちらをジッと見下ろしている馬鹿でかい大駒の顔を見て、悲鳴を上げた。
「あ、貴方は――っつ!」
「あー動かない方がいいぞ。結構怪我していたみたいだから」
床に着いた手首に痛みが走り、宝華は顔を歪める。
遅れて全身の痛みも感じて、宝華は仕方が無く布団に身体を戻した。
「あ、貴方たち、どうしてここに……?」
「どうしてってお前、ここは俺んちだかんな」
「え?」
言われてようやく宝華は周囲を見渡した。
見るからに見窄らしい内装。雨漏りを直す気もなさそうな天井。そして決して心地良いとは言い難い木の腐ったような香り。
「私が、どうしてこんなところに?」
「まあまあ、難しい話は後にしようぜ。それより今から昼飯作ろうと思うんだけど、リクエストあるか?」
「ひ、昼飯? 貴方そんな暢気な事言ってる場合? 私は貴方を殺そうとしてるのよ?」
「どうせできないだろ、この身体じゃ」
「ひゃうっ!」
大駒はその図太い指で、布団の上から宝華の身体をつついた。
それだけで電流が走ったような痛みが彼女を襲う。
確かにそれではまともに動けそうにもない。
「貴方は……良く動けるわね。私、殺したつもりだったのだけど。というか、死にかけてたわよね」
「いやあ、俺も正直意識飛んでたんだけど、生きてたわ」
大駒は申し訳ないと言わんばかりに、舌を出した。
「異常なまでの快復力……それももしかしたら《怪物》故、なのでしょうね」
「またその話か……わかんねえや」
大駒はぼりぼり、と頭を掻いてそう言った。
怪物という単語を酷く嫌うはずの大駒を挑発したつもりだった宝華は、拍子抜けしたような顔を見せる。
「まあいいじゃねえかそんな事。それよりも昼飯、リクエストないならカレーにするぞ」
言って大駒は立ち上がり、台所横に置いてある段ボールへと近づいた。彼はがさごそとそこを漁り、にんじんなどの野菜類を取り出した。
「そんな所に野菜を置いておくなんて信じられない。腐るわよ」
「これくらいじゃ腐んねえよ。うちの野菜を舐めんなよ」
「……それ、貴方の実家で作ってるの?」
「ああそうさ。父ちゃんと母ちゃんが汗水流してつきっきりで育てた自慢の無農薬野菜! これさえあれば後は何もいらねえよ!」
「野蛮人」
聞こえない程度に、宝華は小さく愚痴をこぼした。
鼻歌を歌いながら調理を始める大駒。まず始めに野菜を豪快にぶつ切りにし始めた。
その際、野菜に付いていた芋虫を見つける。
「お、お前もうちの野菜の大ファンか? でも悪いな、今からこれは俺たちが食うんだ」
「ちょっと、貴方、誰と喋ってるの?」
「ん? 何だ、お前も喋りたいか? 寂しがり屋だなァ」
そう言って、大駒は後ろ向きに手に掴んだ芋虫を投げた。それは宝華の布団の上へ、ぼとりと着地する。
「むっ、むむむむむ、虫ッ!!」
それを見た宝華は発狂したように暴れた。
「なんだようるせえなァ」
「待って! 取って! お願い! 取ってよ!」
「あ~うるさいうるさい……ノラ、頼んでいいか?」
「ん!」
ノラは大駒の肩から勢いよく飛び降り、そして宝華の布団の上の芋虫を、摘まみ上げた。
「あ、ありがとう……」
礼をしてみても、ノラは感情の読めない無表情でしばし宝華を見つめ、その後反転して大駒の元へと駆けていった。
「おう、ありがとな。じゃあそいつ、外に返してきてやってくれ」
タタタタタ、と小さな歩幅でノラは玄関の外へと消えていく。
「あの子、虫平気なんだ」
「まあ昨日までホームレスだったからな。ていうか虫くらい普通大丈夫だろ」
「そんなことないわ。どんな田舎よ。ていうか虫ついてた野菜使わないわよね?」
「はぁ、これだから都会人は……俺なんか食ったことあるぜ、芋虫」
「おえっ」
どうしてそのような事をにこやかに話せるのか、宝華は露骨に拒絶反応を示した。
「でもお前、虫苦手なくせによォ」
「な、何よ?」
「枕元のゴキブリは平気なんだな」
「zfじぇ♯kあsdっ!?」
宝華は訳のわからない言葉を叫んだ。
本当にいた。宝華の反対の枕元に、一匹のゴキブリがカサカサと蠢いていた。
「はっはっはっ! おもしれぇ!」
「わわわ笑い事じゃないわッ!! ご、ゴキ、ゴキ……助けてよッ!?」
「はっはっはっ!」
何がツボにはまったのか、大駒はずっと笑っている。
「むむむむ、無理ッ!!」
限界に達し、宝華は悲鳴を上げる身体をおして、自力で布団を抜け出した。
そしてハイハイするようにゴキブリと距離を取る。
すると、そのゴキブリが何ものかによって摘まみ上げられる。
「……ノ、ノラちゃん」
部屋に戻ってきていたノラは躊躇う事無くそのゴキブリを手に持ち、窓の外へと放り投げた。宝華はほっと胸を撫で下ろす。彼女にはノラが天使に見えた。
「はぁ……ん?」
やっと落ち着いた宝華の後ろから、何やら鼻息のようなものが聞こえてくる。
あまりの大きさに振り返ると、そこには宝華を見て目を見開き、興奮したように鼻息を荒くする大駒だった。
その時、その視線に、ようやく彼女は気付いた。
布団から出た自分が、下着以外の何ものも身につけていない事を――。
「ど――どうして!?」
慌てて手で身体を隠し、布団の中に潜り込む。
肌に触れるシーツが冷たい。
「かかか、勘違いすんなよ!? お、俺はただ、お前が着てた制服がボロボロの穴だらけだったから、脱がしただけで……」
「脱がしたの……?」
宝華は大駒を侮蔑の目で睨み付ける。
その視線に大駒は困ったように視線を泳がせた。
「す、すまねぇ! でもやましいことは何もしてねぇんだ!」
両手を合わせ、懇願するように大駒は叫んだ。
それでも殴られるくらいは覚悟していた大駒だったが、しかし意外や意外、宝華は何も言わず布団の中へと潜り込んだ。顔を真っ赤にして。
「お、怒ってないのか?」
「怒ってるわよ! うるさいわね!」
見られた事がよほど恥ずかしいのだろう、宝華は布団の中から出てこない。
ノラが布団の上から触ってみても、一向に出てくる気配はない。
その時コンロから聞こえた湯の煮える音に、大駒は調理に戻った。




