ワルキューレ
動かない。
その人並み外れた巨躯は、重石のように横たわり、静まりかえっている。
ようやく川沿いの公園に、静けさが戻ってくる。
「……これで、良かったのよ」
その動かない大駒を見下ろしながら、宝華は呟いた。
誰にでもない、自分に言い聞かせるように。
彼女は乱れた髪を手櫛で元に戻した。そうしてその場を去ろうと、反転した。
「ビッグマン」
だがそのか細い声に、足を止める。
再度振り返れば、横たわる大駒の側に、白いニット帽を被った子供がいて、大駒の身体を揺すっている。
少女は何が起こっているかわかっていない様子で、大駒を起こそうとしているようだ。
「貴方、ホームレスなんだっけ?」
宝華が少し声のトーンを落として尋ねると、ノラはゆっくりと頷いた。
「そう。大変ね。こんな子供が親に捨てられて、一人で生活しなきゃいけない時代だなんて……ごめんね、本当に」
宝華は優しく少女の頭を撫でた。
「ビッグマンは?」
「ビッグマン……? ああ、この男のことね?」
少女は随分と大駒に懐いているようだった。
宝華は何と伝えようかと思って、しかし自分には気の利いた言い回しが思いつかない事を悟る。そして少し酷だとは思いながらも、彼女は言った。
「彼はね……死んだの」
「しん、だ?」
「そう。えーっと、なんて言えばいいのかな。そうね、遠くに行っちゃったの。ずーっとずーっと遠くに」
「とおく、に……?」
その言葉に、無表情だったノラが、反応を示した。
「もう、あえない?」
「ええ。そうね。もう会えない」
「もう、あそべない?」
「……ええ」
少女の瞳から、じわりと涙が浮かんでくる。
それを見て、宝華は胸を締め付けられる思いになった。
宝華がせめてもの償いと、彼女を警察へと連れて行こうかと思い至ったその時だった。
「やだ…………やだぁ!」
少女が、感情を爆発させた。
そしてそれと共に、少女からとてつもない波動が発せられる。
「ッ……な、何!?」
大気が震えている。
少女の泣き声に呼応して、まるで世界も泣いているようだ。
これは明らかにおかしい。
こんな現象は、普通の人間には起こせない。
その瞬間、泣きじゃくるノラの背中から、二本の翼が飛び出てくる。
人外を示すかのようなその生々しい翼に、宝華はつい見取れてしまう。
「これは……まさかこの子も、〝異端者〟……?」
だがその翼をずっと眺めていることはできなかった。
何故ならその翼から、確かな殺気を感じたからだ。
ノラは意識的か無意識的か、自身に生えた翼を大きく横に開いた。ただそれだけで、けたたましい音と共に風圧で地面が、周囲の木々が、吹き飛ぶ。
まるで台風の最中にいる気分だ。
宝華は慌ててノラと距離をとり、一度閉じた本を開きなおし、構えた。
「こんな……こんな……」
ノラの翼が激しく光った。
するとノラの周囲に数え切れない程の光の弾が出現する。
「こんなもの……私には止められない!」
そしてその光の弾が、一斉に宝華に向かって光線を放った。
宝華は全力を込めて氷の盾を何重にも生成して防御をはかったが、その壁よりも分厚い分厚い氷の盾が、まるで障子のように、突き破られた。
気がつけば宝華は仰向けに転がっていた。
周囲はそこが公園だったと思えない程に荒れ果て、状況の深刻さを物語っている。
宝華は唯一動く首を動かし、翼の生えた少女を見上げた。
そこにはまだそれがいた。
神々しく光る翼を持った、異形の存在が。
彼女にはそれが見覚えがあった。いや、正確には聞き覚えだ。
それは〝異端者〟の中でも異端。
異端の中の異端。
〝異端者〟の中でも、《善なる者》にも《悪しき者》にも属さない、《超越者》に属する完全な特異存在――《ワルキューレ》。
神々しいまでの翼を持ち、自然物理を超越した光の技を使用する、圧倒的な存在。宝華も本でしか見たことないような、奇跡のような存在だと言える。
でもそんな神のような役割が、まさか目の前の言葉も禄に話せない少女が担っている。
どうしてこんなところに? この少女は誰だ?
そんな思考を、しかし神は許してはくれなかった。
激昂した神は、トドメを刺そうとさらに翼を大きく広げる。
だがその時だった、宝華の目の前に、一人の男が背を向けて立ちはだかった。
その仰がんばかりの巨体は――
「貴方……」
大駒はよろよろの身体で、しかししっかりとノラを見つめていた。
「やめ、ろ……ノラ……俺は、大丈夫、だから……」
力なく大駒は笑ってみせる。
それが明らかな強がりであるのは聞くまでもなかったが、それでも彼は、暴走するノラにいつものように話し掛けた。
するとノラは一瞬固まっていたが、しかし見開いていた瞳をゆっくりと閉じ、それと同時に大きな人外の翼は、彼女の背中に吸い込まれるようにして消えていった。
ふ――と、辺りを覆っていた大気の揺れも収まり、静かな公園に戻る。
それを確認して、宝華の意識もそこで途絶えた。




