春
春は終わりが始まる季節です。
しばらく返信が来なかったと思ったら、何の脈絡もなく、朝早くからそんなメールを送ってくる。言われてみれば、って考えさせられてしまう僕は僕で、だからきっと彼女には一生敵わない気がする。
それにしても、いわゆる記念日。僕たちが交際を始めて1年が経ったという日に、そんな皮肉めいたことを、流石にどうかしていると思う。
「今日もいつものところで。」続けて送られて来たメールに、意地になって返事はしなかった。
空が少しずつ赤みを帯びていく頃、家から5分ほどの公園で、いつものように彼女を待つ。
僕たちの記念日は決まってこうだった。お洒落なレストランも、夜のドライブ、綺麗な夜景もない。ただ公園で、気の済むまで話をして、彼女を家に送り届ける。半年経とうが1年経とうが、2年経ってもきっとこの日だけは変わらず、これだけ。彼女のこだわりという側面が強いが、深く理由を聞くわけでもなく、何度目かの日に言われた、「思い出すため」という一言に僕も頷いていた。
彼女と初めて出会った公園。バイト帰りになんとなく立ち寄ったら、彼女を見つけた。ブランコに揺られた綺麗な短い髪、少しうつむいた様子と、携帯の画面が照らした表情は、まるでこの星が覆ってしまった隠し事そのものみたいに、悲しい目をしていた。側に停められた彼女のものであろうただの赤い自転車に対しても、これは彼女をどこに連れて行くんだろう。なんて、考えてしまった。多分この先、知らない人に、ましてや女の人に、自ら進んで話しかけることなんて、二度と無いと思う。それでもあのとき、そうせずにはいられなかった。というより、気づいたらそうしていた。彼女の声は、見た目よりずっと低かった。
それからは週に2、3回程度、あの公園で話をするようになった。大した話じゃない。でも、今日もどこかで何かが起こるから、今日も何も起きないこの退屈さが、何よりも綺麗な時間に思えた。
そのうち彼女を家に送るようになって、僕たちの家が思っていたよりも近かったことが分かると、僕たちは公園以外でもなにかと理由をつけて会うようになった。
そういうときは必ず彼女が僕の家まで来て、それから2人で出かける。もう見慣れた彼女の赤い自転車。後ろに乗った彼女の重みと、腰に当てられた手の温もりが、なんだかくすぐったい。少しの緊張と向かい風で、彼女の声は全然聞こえなかった。
そんなこんなで、彼女と出会って2ヶ月くらいが過ぎたころに、僕が抱えた大きな悩み。僕たちの関係。僕たちの終点はどこなのか。そんな自問自答を繰り返した。
いかんせん、こういったことに関して初心者丸出しの僕は、そもそも好きってなんなんだとか、そんなとこまで立ち返ってしまって、きりがなさそうだった。
でもそんなことも、彼女にかかればあっさりと解決することだったみたいで、今までの僕との会話や、最近の様子を見兼ねてか、何かを悟ったように、彼女の方から関係を切り出して、その勢いと、彼女が持ってる引力みたいなものに、僕は改めて惹かれた気がして、二つ返事で、はいと答えた。何かが変わるわけでもなかったけど、僕たちはこうやって、ふたりになった。
時間をかけて出来上がった1日の輪郭が、終わりに向けて青くぼやけていく。
腰掛けたベンチの軋む音、走り去って行く子供たち、揺れたままの誰もいないブランコ。
目の前に広がった懐かしい匂いが、鼻の奥を突いて、胸の内側を強く握りしめた。
懐かしいものを美しいと感じるのはそこに僕がいないからだろうか。なんて柄にもないことを考えてみるけど、答えてくれるものなんて当然なかった。
辺りが完全に静まり返ると、ポケットの振動が彼女からのメールの着信を知らせた。彼女を考えて待つ時間は、嫌いじゃなかった。
でも、交際が始まって1年が経って、僕らなりの祝い方で今日もこうして2人で過ごそうとしているのだけど、あの頃の僕の悩みが払拭されたわけではなかった。
好きって言葉の境界線はどこか。そんなことが小さなしこりになって、時々僕を試すように覗き込んでるような気がしていた。こんなことに悩む僕なんかに、少なくともこの1年、色んな言葉をくれた彼女の存在も、僕のそんな後ろめたさを一層強くさせた。
だから今日は決めていた。変なかっこつけも取り繕いも必要ない。こんなしこりはもっと早く吐き出すべきだった。
しばらくすると、一面に漂う静寂の合間を縫って、甲高いブレーキ音が彼女を連れてきた。相変わらず綺麗な髪が、風に煽られて少し乱れて、無性に可愛らしい。
待たせてごめんね。と一言、僕の横に腰掛けた拍子に弾んだ彼女の匂いが心地いい。
普段と変わらない会話も、なんだか特別な気がしてしまった。
会話の合間合間に微妙な緊張が走る。どのタイミングで切り出すべきか、探り探りの僕の様子に、彼女ならもう勘付いているだろうか。今更そんなことに躊躇するのも嫌だったし、先延ばしにするのは居心地が悪かったので、不慣れで不器用な勢いで、彼女の声を押し切った。
見開かれた大きな目が僕を見つめる。伝えたいことは明らかでも、そこに当てはめる言葉がなかなか見つからなかった。
すっかり行き止まってしまって、目が回りそうなほどに沸騰した頭に、今朝彼女から送られてきたメールがふと浮かび上がってきた。
春は終わりが始まる季節です。
完全に停止した思考に書き出されたその一言は、無意識に僕の口から言葉を引っ張り出した。
夏が楽しみですね。
一体何を言っているのか。
僕はこれほど自分を情けないと思ったことは無かった。彼女は拍子抜けして呆れただろうか。
恥を通り越して寒気が催した。
思わず溜め息を吐いたところに、それを搔き消すように、黙っていた彼女が急に話をはじめた。
「相手の気持ちを黙って汲み取るとか、見えないことまで分かろうとするなんて、絶対無理なんだよ。それが家族でも恋人でも。
でも、分からないってことをちゃんと分かってあげて、それでも一緒にいられたら、きっともう何も要らないよね。」
ちょっとした衝撃だった。彼女が放つ的を得たような言葉に、考えさせられることはこれまでにもあったけど、この言葉は僕の理解のフィルターの上を通り越して、直感として身体中に染み渡った。
考えてもみなかった。分からないままではいけないと思っていたから。目に見えないものに、だからこそ、意味と理由をつけて、象る必要があると、そう思っていた。
でも違った。少なくとも彼女には。
今こうして僕たちふたりがここにいることが、全てだったんだ。
思わず泣きそうになるのを、必死に堪えた。吐き出したと思ったしこりは、僕の中に溶けていった。
永遠なんてどこにも無いこの世の中で僕と彼女が交わした言葉。
「ずっと続けばいいのに。」
そう言うと彼女は、「異常だね。」って笑って、僕の手を強く握った。