日本童貞救済委員会
彼女がいない。
中年オヤジの皮下脂肪のように存在感を年々濃くするこの残酷な事実は、私の心を着実に蝕んでいた。
そんな私のメタボリックな心とは対照的に、キラキラとした爽快な空気に満ちた五月半ば。思いのほか退屈な大学を捨てて校舎から飛び出していく新入生と入れ替わりで、遅い新学期を迎えた上回生たちが教室に姿を現し始めた。大学は捨てても単位は捨てられない。
知らぬ間に二回生になっていた私は、昨年フられたアラビア語初級の授業にこの日初めて出席した。
授業後、未だに判読不能の糸ミミズをノートに書き写していると、爽やかな匂いが鼻についた。
「あれ、伊藤じゃん」
読モ風、という安っぽい言葉では表現しきれないルックス。カルピスの似合う涼しげな微笑み。同じサークルに所属する東だった。
「この授業取ってたっけ? 僕見たことないんだけど」
「出てなかっただけだ。お前こそ去年フランス語の単位を取ってたじゃないか。第二外国語は一つでいいだろ」
「だってフランス語できたらカッコいいじゃん。別に単位はいらないんだけどね。ノート貸そうか?」
顔も性格も授業態度も男前な東は真面目一直線で授業をサボったところを見たことがない。単位がいらないなどという恐ろしいことも平気で言う。いらないなら欲しい。でも制度的に無理だからノートだけ貰う。
「サークルばっかり行ってても卒業できないよ。ちゃんと授業でなきゃ」
「授業は今日から出る。と思う。ノートはまた部室で返すよ、ありがとう」
母親の様な小言を言う東からありがたくノートを奪い取ると、早足で教室から抜け出した。あいつの爽やかな空気はいまいち合わない。
久しぶりに九十分も椅子に座り続けたせいで体調を崩した私は心の薬を求めてサークルの部室に向かった。私と東が所属しているのは天体観測サークル。表向きは月数回の天体観測と年数回の観測合宿を活動の中心とするアカデミックなサークルだが、機材管理用に大学から与えられた部室の居心地が良すぎたために、星と電球の区別もつかない有象無象が集まるサークルになってしまっている。私は有象無象と仲が良く、東は全員と仲が良い。
ウキウキ気分で部室のドアを開けた私の体調はあろうことか悪化してしまった。部室のパソコンに向かって黙々と天体写真を編集している髭面がいたのだ。どう見ても助教授にしか見えないその老け顔は大和先輩。星が大好きな急進的アカデミック派であり、口には出さないが我々有象無象を毛嫌いしているのは明らかだ。
「こんにちは。こんな朝早くから学校に来るなんて珍しいですねえ」
大和先輩は私より三つ年上だが、なぜかいつも敬語を使う。私も当然敬語を使う。心の距離は開く一方だ。
「先輩こそ、朝から部室にいて大丈夫なんですか? 研究とか」
「農作物には時期がありますからね。冬は比較的暇なんですよ」
大和先輩は大学院の農学研究科で大豆の研究をしている。もっさりとした顔と農作業で鍛え上げられたムキムキの肉体とのアンバランスさが醸し出す卑猥さも非常に苦手だ。
密室で苦手な先輩と二人きりというこの状況は非常に気まずい。今すぐ出て行っても良いが、それもあからさま過ぎて気まずい。しかし、これ以上沈黙が続くと生死に関わる。気まずい。こういう時、東ならどんな話をするんだろうか。
「そういえば……先輩の髭って魅力的ですよね」
「はい?」
私の脳のコミュニケーション野がウンコの様な解答を捻り出したその時、二人きりの個室で大和先輩に複雑な感情を抱かせてしまったその時、私を救うノックの音が気まずい空気を打ち破った。
「こんにちは。あ、良かった、二人もいる」
その瞬間、私の神経は聴覚に集中し、首は即座に後ろに回り、意識から大和先輩が消えて、部室には良い匂いがした。
そこに立っていたのは私のウキウキ気分の源である村瀬さんだった。
色の白いは七難隠すということわざがあるが、元々顔の造形が美しい女性が色白だった場合、何が起こるのか。隠すべき難を見失った色白という名の怪物はその暴力的なパワーを外に向ける。その結果、見ただけで気を失ってしまうような驚異的美人が誕生する。そうして生まれたのが村瀬さんだった。
「二人ともこんな時間から部室にいるんですね。誰もいないんじゃないかと心配してたんですよ」
村瀬さん固有の丸みを帯びた幼い声が耳から入って私の心を癒してくれる。小型レコーダーで自家製ヒーリング音源を作って家宝にしたい。
「いやあ、写真を編集していたんですよ。そしたら彼も来てね。村瀬さんは何か用事ですか?」
突然の来訪に不覚にも声帯が麻痺してしまった私は更に不覚を重ねて会話の主導権を大和先輩に握られてしまった。
「今週末の飲み会に参加しようかと思って名前を書きに来たんですよ」
「ああ、そうなんですか。どうぞどうぞ」
大和先輩から出欠確認用の紙を渡された村瀬さんは私の座るコタツ机の上で名前を書き始めた。余談ではあるが村瀬さんは乳も魅力的である。華奢な体に不釣り合いな程大きい。まさに鬼に金棒、村瀬に乳。そんな乳が今なんとコタツ机に乗っているではないか。
「あ、伊藤君まだ名前書いてないね。行かないの?」
コタツ机として生を受けなかった自分を呪っていた私の声帯は突然の出来事に機能回復の機会を逃し、気を利かせた首の筋肉が代わりに否定してくれた。
「そうなんだ。代わりに書いとくよ」
「あ、ありがとう」
なんとか謝礼を述べる。コミュニケーションの要である声帯の面目躍如である。
流れに流されて名前を書いてもらってしまった。その日はたしかバイトだったが急病ということでいいだろう。それにしても字まで可愛いとはどういうことだ。私は私の名字を紙に記す村瀬さんの姿を見て、いずれ彼女がそれを自らの名字として書く未来を想像し、その妄想のあまりの気持ち悪さに我に返った。
「じゃあまたね。お疲れさまでした」
白い手をヒラヒラとさせて、村瀬さんはどこかへ行ってしまった。去り際に名残惜しそうな顔をして私を見たのは気のせいだろうか。気のせいではあるまい。
アラビア語と大和先輩のせいで傷ついた心が十分に回復したことを確認した私は、出口に村瀬さんの残り香がある内にそそくさと家に帰った。
叡山電鉄元田中駅。近くに通るたびに「じゃあ今は誰なんだ」という疑問を生む意味深な名前の駅の近くにあるすき焼き屋が、うちのサークル御用達の飲み屋さんとなっている。いつも通り夕方過ぎに起きた私は飲み会の存在と村瀬さんの存在とその乳を思い出し、ウキウキ気分でそのすき焼き屋に向かった。
結果的にこの日は生涯忘れられない地獄の一日となったのだが、この時の私は肉と乳のことしか頭になかった。
「あ、伊藤だ。良かった、知らない人ばっかりだったらどうしようかと思った」
席に座ると向かいに東がいた。老若男女問わず一気に距離を詰めていく天才的インファイターのくせに白々しい。東は時々適当なことを言う。
サークルの飲み会の席はくじで決まる。私のテーブルには一回生らしき見知らぬ顔の男女が一組と東がいた。そういえば今日の飲み会は新入生歓迎会という名目だったはずだ。座布団の数を見るとこれで満席だろう。残念ながら私の祈りは届かず、村瀬さんとは別のテーブルになってしまった。
幹事による乾杯の音頭で飲み会が始まる。いかにも大学生といった感じの小ボケを挟んだやや長めの音頭を聞くと体調不良を起こす危険があるので、私はいつも音頭直前にトイレに立ち、音頭直後に席に戻る。トイレから戻り、襖を開けて、ガヤガヤした室内をぐるっと見回した時、嫌なものを見てしまった。村瀬さんと大和先輩が隣同士で座っている。席は私の机の丁度反対側の端にある。私は自分のくじ運を呪った。
飲み会開始早々気分を害した私は、黙ってウーロン茶を牛飲した。私は酒がほとんど飲めない。村瀬さんを失った今、残ったのは食欲だけだ。私は食品サンプルのように綺麗なすき焼き屋の肉をひたすら食べた。
新入生二人との会話は東が担当してくれている。初対面の人間とこんなにすぐにフレンドリーになれるのは果たして酒の力なのか、東の力なのか。そういえば私は東が酔っているところを見たことがない。
「東先輩ってモテそうですよね」
東の隣にいる量産型女子大生だ。私は今日こいつと一度も目が合っていない。
「え、そんなことないよ。全然全然」
全然モテるくせに何を言っているんだ。
「そんなこと言って、絶対モテるでしょ。いいなあ。俺も東さんくらいかっこよかったらな」
「いやいや、このサークルには良い先輩がたくさんいるからね。僕なんか霞んじゃって霞んじゃって」
確かこいつは法学部。中高一貫男子校で純粋培養された逸材、といった感じだ。初めて見た大海原にいきなり投げ込まれた彼は、捕まるべき船は東であると認識したようだ。しかし、慣れない飲み会にアクセル全開の田舎少年は本場の女子大学生になす術もなく会話の主導権をひったくられた。
「サークル内で付き合ったりって結構あるんですか?」
「まあまあじゃないかな。どこのサークルも似たようなもんだと思うよ」
「へえ、そうなんですね」
量産型の目が光った、ような気がした。やはり女の子は皆イケメンに目がない。世知辛い世の中だ。まあ美人に目がない私がとやかく言えたものでもないが。
「じゃあ俺も彼女できるかな」
「例えば誰と誰が付き合ってるんですか?」
果敢にインターセプトを試みた法学部だったが、量産型の豪速球をカットすることはできなかった。
「うーん、まあ、サークルに入ってくれればおいおいわかるんじゃないかなあ」
その時、東と目が合った。初めて出たゴールデンで結果を残そうと奮闘する一発屋芸人を見るような悲しい目だった。そんな目をされる筋合いのない私は気のせいだったことにして、引き続き美味しいお肉をむさぼり続けた。
その後きっかり二時間、新入生の歓迎を口実にした飲み会は続けられた。お酒の飲めない私は飲み放題三千円の元を取るために必死に肉を搔き込んだ。周りの人がどんどん気持ちよくなっていき、男女の物理的距離が縮まっていく中で冷静に食欲を満たし続ける行為は、USJに一人でいるような孤独感を生む。私は遠くに座る村瀬さんを適宜盗み見ることで孤独を癒し、虚しくも美味しい時間を過ごした。店員さんの帰ってくれオーラが部屋に充満した頃、酔っぱらった幹事の長いのに無意味な挨拶で飲み会は締められた。
外に出るとジメッとした空気が顔にまとわりついた。空を見上げても星は見えない。飲み会の間に雨でも降ったのだろうか。二次会に行かない私は自転車を止めてある部室に向かって一人、歩き出した。歩きながら村瀬さんの姿を探した。同じくいつも二次会に行かない彼女とあわよくば一緒に帰ろうと思っていたのだが、気づいた時にはいなかった。先に帰ったとは思うのだが、合流できるならそれに越したことはない。そう思った私はいつもよりかなり早足で東大路通を北上した。なぜかエロ本の品揃えが異常に良い本屋を通り過ぎた頃、前方に村瀬さんらしき人影を発見した。愛の力は偉大だ。しかし偉大なる愛の力は私の視野を著しく狭めてしまっていた。
「あれ、伊藤君じゃないですか」
私が意を決して村瀬さんに話しかけようとしたその時、村瀬さんの隣の空間から突然声が聞こえてきた。そこには大和先輩がいた。よく見ると村瀬さんの影と大和先輩の影が接しているように見える。もしかしてこれは手を繋いでいると言えるのではないだろうか。嫌な予感がする予感がしたが、来たるべき嫌な予感に対応するための準備時間は少な過ぎた。祈るように迎えたその嫌な予感に私の心は飲み込まれ、想像した別のあらゆる可能性は浮かぶたびに消えていった。状況を飲み込むことを懸命に拒否しながら呆然として村瀬さんの苦笑いを見つめていると、後ろから助け舟がやってきた。
「あ、お待たせ伊藤。じゃあお疲れさまでした」
そう言って東は私の肩を軽く叩くと、さっさと先へ行ってしまった。私は軽く会釈をして、反射的に東の後を追った。
二人が付き合い始めてまだ一ヶ月だそうだ。私には理解できないが、村瀬さんの熱烈なアタックによって二人は結ばれたのだそうだ。私には理解できないが、大和先輩の顔と肉体のアンバランスさが生み出す卑猥さは捉えようによってはセクシーさなのだそうだ。月に数回行われる天体観測活動での大和先輩のリーダーシップに惚れたのだそうだ。ちなみに私が村瀬さんに好意を持っているのはサークル内ではバレバレで、みんな気を遣ってそっとしてくれているそうだ。東の話を要約するとこういうことになる。天体観測にほとんど参加しない私は二人の関係の変化に全く気づかず、そっと集団から抜け出して秘密の二次会に向かう二人に驚異的な早足で追いついてしまい、それに気づいて慌てて追ってきてくれた東がそこに追いついた、ということらしい。東の説明は私の頭の中の組み立てなくて良いパズルを着実に組み上げ、完成した絵柄にショックを受けた私はそのまま走り出した。
その後のことはあまり覚えていない。いつもは歩いてでも十五分で帰れる下宿になぜか一時間半かけて帰った私は、まとわりつく湿気やら何やらをシャワーで流そうとして着替えを用意した後、何もかもがどうでも良くなってベッドの上に倒れ込んだ。もっと積極的に話しかけていれば結果は変わっただろうか。もっと天体観測に参加していれば結果は変わっただろうか。あんな髭面のおっさんに付き合えたのなら、私にも可能性があったんじゃないだろうか。嫉妬と後悔が頭の中でグルグルと渦を巻き、その渦に巻き込まれて私は眠りの底に沈んでいった。
起きては寝て、起きては寝てを繰り返し、私は不快な情報を記憶の底に沈めようと苦心したが、何度沈めてもしつこく浮かび上がってきた。今頃二人でご飯でも食べているのかな、と思うと食事も喉を通らず、そういえば最近村瀬さんを部室でよく見るようになったのはそういうことなのかな、と思うと家から出る気になれなかった。もちろんサークルにも参加しなかった。もしかしたら村瀬さんが心配して連絡をくれるかもしれない、という希望もチラチラ頭に浮かんだが、当然そんな連絡は全く来なかった。引きこもり始めて五日程経った頃、部屋に携帯の着信音が鳴り響いた。何かの間違いでもいいから村瀬さんであってくれと祈りながら電話に出た私の耳に飛び込んできたのは、残念ながら東の声だった。
「あ、元気?」
久しぶりに聞く東の声はやっぱり爽やかで、なんだか少し腹が立った。
「まあ普通」
元気なわけはないが、元気でないことを伝える筋合いはない。
「最近授業にもサークルにも来ないから心配しちゃった。まあ元気ならいいんだけどね」
「おう、ありがとう。じゃあ」
誰かと話す気分ではなかったし、ましてサークルの誰かと話す気分では全くなかったので、さっさと電話を切ろうとした時、東の神妙な声が受話器から聞こえてきた。
「あのね、まあ、無理にとは言わないんだけどね。もし良かったら、もし良かったらでいいんだけど、今日の夕方六時半に祇園四条駅の改札前まで来てくれない?」
東のくせに歯切れが悪い。目的も意味もわからない。もちろんまだ家から出たくない。しかし東の声は明らかにいつもと違っていて、なんだか行かなければいけない気がした私は、つい「わかった」と言ってしまった。
祇園四条駅へは歩いて向かった。たった三、四キロの距離で電車を使える程裕福ではないし、自転車は部室の前に置きっぱなしだ。しかし、鴨川沿いに座るカップルたちから受けるダメージは思いの外深く、しばらくひきこもっていた体に三、四キロのウォーキングは思いの外キツく、駅に着いたころには身も心もボロボロだった。週末の祇園四条駅は飲み会と合コンの雰囲気に溢れていた。改札前には既に東がいた。構内にはびこる量産型大学生とは明らかに違う雰囲気を醸し出している東は私を見つけるとにこやかに近づいてきた。
「ごめんね、急に呼び出しちゃって。じゃあ、行こうか」
私が女子大生だったらホテルでもどこでもついて行っちゃいそうな笑顔で東は言うと、さっさと階段を上っていってしまった。仕事終わりのサラリーマンやら大学生やら観光客やらを避けながら、東と私は四条通りを東へ進む。目的はまだ知らない。そのまま花見小路通に入って南へ進み、しばらく行くと東は急に立ち止まった。
「変わりたいって、思わない?」
振り返った東の声は受話器越しに聞いたあの神妙な声だった。
「あんなに好きだった村瀬ちゃんを大和先輩に取られて、ショックで家にひきこもって。自分がもっと積極的だったらってずっと後悔してたんじゃないの? でも多分、伊藤が思ってるより伊藤は変わらないといけない。もっと根本的に変わらないと、また同じことを繰り返すだけだよ」
突然話し始めた東に何か言い返そうとするが、声が出ない。言われていることは正しかった。
「同じ過ちを繰り返さないために、同じ後悔を繰り返さないために、変わる覚悟が伊藤にある?」
着物を着た外国人観光客が怪訝な顔をしながら私と東の横を通り過ぎた。沈みかけの太陽に照らされて、おそらく私はすごい顔をしていたのだろう。ここ数日、どうすれば違う結果になったのかを考えていた。もっと話しかけていたら。もっと天体観測に参加していたら。色々と考えていたが、おそらくどれも結果を変えられなかっただろう。話しかけても面白い話はできなかった。参加したところで輪に入れたとは思えない。そういったところを含めて全部変わらないと、おそらく同じことを繰り返すだけなんだろう。
「俺だって、できるものなら変わりたいよ」
こぼれた本音に東はいつもの爽やかな笑顔で応えて、通りの西に面した扉を開けた。
日本的な外見に似合わず、中は綺麗なバーだった。四人がけのボックス席が三つにカウンターが六席。ふかふかした臙脂色のカーペットはシミ一つなかった。カウンターの中には六十歳くらいのおばあさんがいた。いかにもマダムといった品のある佇まい。こんなところにこんな綺麗なお店を持っているのだからおそらく金持ちなのだろうが、金持ちっぽさが一切感じられない。
「いらっしゃい。待ってたわよ。とりあえず座ってちょうだい」
マダムに促されてカウンターに座る。
「お待たせ。この人が今回の患者さん」
「あらあら、いかにもって感じね。東ちゃんもよくこんなの見つけてくるわね」
おそらく無礼なことを言っているであろうマダムは、新鮮なカツオを前に腕を鳴らす板前のような目で私を見た。これから料理されるのだとしても不思議はない。
「紹介するね。このもっさりしたのが伊藤君。大学二回生の二十歳。二年以上彼女がいないっていってるけど、多分もっとずっといないと思う。そして、こちらがこのお店、みすずのご主人でもあり、日本童貞救済委員会京都支部支部長でもあるみすずさん。呼ぶ時はみすずママ、書くときはひらがなにしないと怒られちゃうから気をつけてね」
またしても無礼なことを言われた気がしたが、聞き慣れない単語の前で私の思考は立ち止まった。にほんどうていきゅうさいいいんかい? 漢字がわからない。私は高村光太郎の詩の朗読でクラス全体が変な空気になった中学時代を思い出した。状況と漢字と私の処遇の説明を求めようと口を開きかけたその時、私の意識はマダムの後ろにある棚に掛けられた額縁に釘付けになった。
「脱童貞」
なんだか異様な達筆で、卑猥な単語が格言面して偉そうにふんぞり返っていた。一瞬私の性欲がついに幻覚まで見せてきたのかと悲しくなったが、何度見ても額縁の文字は変わらなかった。高級感と品に溢れた店内で、そこだけ明らかに浮いていた。
「これは時間がかかりそうね。人格のひねくれ具合が顔に出てるわ。どこから手を付けようかしら。そうねえまずは……」
「ちょ、ちょっと待ってください。一体ここはどこで、童貞なんとかは何で、私はこれからどうなるんでしょうか」
このままだとされるがままになる予感がした私は、お上品な雰囲気で結構ひどいことをズバズバ言うみすずママを一旦遮って説明を求めた。
「あら、東ちゃん、何も言ってないの?」
「ああ、ごめんごめん。説明してなかったね。ここは日本童貞救済委員会京都支部。こちらが支部長のみすずさん。呼ぶときはみすずママで、書く時はひらがなね」
爽やかな笑顔で東は同じ説明をほぼ同じ文言で繰り返した。こういうちょっと抜けているところが女の子にはモテるらしい。抜けている方がモテて足りている方がモテないなんて理屈は甚だおかしいが、世の中は甚だおかしいことだらけだ。
「それは聞いた。それでその怪し過ぎる委員会はどういう組織で、私はこれからどう料理されるんだ」
「日本童貞救済委員会はあなたのような童貞を全うな好青年にしたてあげ、女の子とお付き合いできるようにすることで、日本の少子化問題の解決を図る真面目な組織よ」
要領を得ない東のあとをみすずママが引き継いだ。どうやら委員会は全国各地で活動を繰り広げていて、たくさんの童貞を救っているらしい。表向きにはされていないが経済産業省の外郭団体らしい。そんな馬鹿な。
「久しぶりにあった高校の友達がなんか急に恋愛してます感出してくることってない? あれ、ママみたいな人が更生させてるんだよね」
得意気に語る東の顔を見ながら、高校の同窓会を思い出した。あいつらはそんな怪しげな団体のお世話になっていたのか。
「で、今回はあなたが更生するってわけ。絶対に好青年にしてあげるから心配いらないわ。ただし条件が一つだけ。私に絶対逆らわないこと。それさえ守ればあなたも幸せな恋をつかむことができるわ」
「ちょっと待ってくれ。私はそんな怪しい団体に好き勝手されるのか。あとでわけのわからん諸費用を請求されるんじゃないのか。大体何をやらされるんだ。整形でもさせられるのか。クスリは嫌だぞ」
「伊藤」
混乱してグルグル回る私の思考を東の声が止めた。東のあの声はまるで糸電話でもしているかのように直接耳に響く。大きな瞳が俺を見据えている。私もこれくらいかっこよかったら村瀬さんと付き合えたんだろうか。ああ、変わりたい。私だって恋愛というものをしてみたい。もう名もなき脇役としてみんなの周りで賑やかすだけの存在ではいたくない。
「よろしくお願いします」
東に引っ張られるようにして私は頭を下げた。気持ちは固まった。このまま暗い生活を送るのは嫌だ。私だって名前が欲しい。そのために必要ならなんだってやってやる。最悪お金も払う。
頭を上げた時、そこには相変わらず爽やかに微笑む東と老舗の板前のような鋭い視線で私を見定めるみすずママがいた。
怪しいバーで怪しい組織の怪しいママと怪しい約束をしてしまった次の日、私は眠い目をこすりながら自転車を漕いでいた。いつものように授業より睡眠を優先させていたところを東に電話で呼び出されたのだ。「一番自信のある格好で来て。お金は多めに持ってきて」という東の言葉に従い、私はお気に入りのパーカーとお気に入りのジーパンと一万八千円で出かけた。あいかわらず鴨川沿いにはカップルたちが綺麗な幾何学的図形を描いていたが、昨日程のダメージは受けなかった。
新京極につくとやはり東は先に来ていた。
「突然呼び出しちゃってごめんね」
相変わらずの爽やかさで微笑みかける東を見て、私はこいつの性別が男であることを呪った。
「別に寝てただけだから良いよ。それで、どこに行くんだよ」
「昨日の計画、早速始めようと思って」
東はわかりやすくニヤリと笑った。計画、というのは昨日の怪しい話のことだろう。何故話に乗ってしまったのか自分でもわからない。おそらく藁をも掴む思いというやつだったのだろう。しかしそれでも昨日久しぶりに安らかに眠ることができたのは確かだ。
「それで俺は何をやらされるんだ。念のため言っておくがお金はないぞ」
「そうだねえ。とりあえず聞くけど、俺、一番自信のある格好で来てって言ったよね?」
賞味期限切れのコンビニ弁当を見るような目で私の全身をジロジロ見ながら東は言った。
「ああ、だからこの格好で来たんだ」
「うん、まあ期待はしてなかったけど、いやむしろ期待通りって感じだね」
「どういうことかわからないな。いや、わかるけどわかりたくないような、そんな不思議な気分だ」
「じゃあはっきりと言わせてもらうね。僕たちはここから出発しないといけない。事実を受け止め、分析して、対策を練って、それを確実に実行しなければならない」
東なりに気を遣っているのか、大げさに前置きしてから改めて言うまでもない事実を申し訳なさそうに口にした。
「それは流石にダサ過ぎる」
ついに言ってしまったという顔をして東は目を伏せているが、おそらくこいつは何かを勘違いしている。確かに良い気分はしていない。しかしそこまでショックは受けていない。なぜなら私はダサくならないための努力を一切合切放棄しているからだ。自分がダサいことくらい薄々気づいていたし、ダサいことたに対してそこまで問題意識を持っていないからだ。ということを私は東に説明した。
「なるほどね。だからそんな格好で外に出られるんだね」
東は珍しい虫でも発見したような顔をしている。
「そこに対して問題意識を持てていない問題をまず解決しよう。お年頃の男の子ってそれなりに自分の見た目を気にすると思うんだけど、どうして伊藤はそうなってしまったの?」
「まあお前が失礼なのは置いておこう。お前たちイケイケ大学生に言いたかったことをこの際言わせてもらう。そもそも人間の価値というのは内面に依存するものであるはずだ。教養を高め、人間性に深みを持たせ、そうして自分を大きくしていくことこそが我々若人たちの使命なんじゃないのか。青春は短い。髪をゴチャゴチャしたり服をゴテゴテしたりする時間はないのだ」
自分の言葉に私は確かな手応えを感じた。人はこれを屁理屈と言うかもしれないが、屁理屈も理屈だ。屁理屈なんていうのは理屈を覆せない負け犬の遠吠えでしかないのだ。内面を磨くことに時間をかけた割には人間的魅力が薄いのではないかという批判は受け付けない。真の人間的魅力は真の人間的魅力を持つ人間にしか理解できないのだ。しかし、満足感に浸る私の論理の鎧を東の強烈な一撃が粉々に粉砕した。
「じゃあそのままでも良いよ。でも、美人の彼氏でダサい人って見たことある?」
面食いという致命的な弱点を突かれた私は東と問題意識を共有することになった。私はダサく、ダサいのはマズい。今日も修学旅行生でごった返す新京極通りを南へ下る。東に連れられて向かった先には明らかにオシャレな洋服屋があった。入り口に見えない番人の気配を感じる。拳銃を突きつけられた経験はないが、おそらくこのような感じなのだろう。冷や汗がにじむ、足が止まる、愛想笑いが顔に広がる。
「じゃあ、とりあえずここで」
東はそんな恐ろしい戦場にまるでコンビニにジャンプを立ち読みしに行くかのような軽々しさで入っていった。東の入店で見えない番人が気を良くした隙を突いて私も入店した。
明るくて爽やかでそれだけでモテそうな店内には確実にモテるであろう同年代の店員たちが爽やかないらっしゃいませと共に爽やかな営業スマイルを撃ち込んできた。私は東を盾に店内を進む。
「おい。俺はここで何をすればいいんだ。息がしずらい。めまいもする。おえっ」
「大丈夫。服買うだけだから」
私の不調を意に介さずに東は進む。どうやら私はここで三パターン程服を買うそうだ。それらを組み合わせることでとりあえず一般的な大学生に追いつこうというのが今回のテーマらしい。店内には店員を含めて十人程いた。みんなオシャレだ。「オシャレ」という単語でしか彼らを表現できないのが残念だが、オシャレだ。なんだか急に自分の格好が恥ずかしくなってきた。あっちで服を選ぶやつが着ているダボッとしたカーディガンのダボッと感と私のダボッとしたパーカーのダボッと感では同じダボッと感でも明らかに質が違う。なぜそっちで鞄を物色する男のジーパンの汚れはカッコいいのに私のジーパンの汚れは汚れなんだ。入店数分で洋服の奥深さを痛感した私に東は何着かのTシャツとシャツとズボンを持ってきた。
「とりあえず試着してきて。あ、Tシャツは着ちゃ駄目だからね。合わせるだけで」
そう言うと私を試着室に押し込んだ。全身鏡に映るダサい男が自分だと気づいた私は慌ててジーパンとパーカーを脱ぎ、ズボンをはいてシャツを着た。祈るように鏡を見ると、そこには普通の大学生が立っていた。嬉しさの表面を寂しさでコーティングしたような複雑な気持ちになった。ゴチャゴチャ言っていたが私が見た目の改善に力を入れなかったのは自分の限界を見たくなかったからだ。お金をかけて洋服を買って、自分のルックスを最大値に持っていって、それでも駄目だった時のことが怖かったからだ。今、鏡の前にいる普通の大学生は決してダサくはない。深緑色のズボンに白いシャツ。特別オシャレではないがダサくはない。しかし絶対カッコ良くはない。私はダサさと共に自分がもしかしたらカッコ良くなれるかもしれないという可能性も捨ててしまった。
「着た?」
鏡に映る大学生をぼんやりと見つめていた私の後ろでカーテンが開く音がした。振り返ると東がいた。
「うん、似合ってると思うよ」
東の言葉はお世辞だったのかもしれないが、記憶にある限り生まれて初めて見た目を褒められた私の寂しさのコーティングを爽やかな風で吹き飛ばした。
なんだか水槽が変わったような新鮮な気分になった私は段々服選びが楽しくなっていき、自分から積極的に試着室を利用するようになった。今までこの楽しみを自分から放棄していたのかと思うと惜しい。確かに私の顔や体が変わったわけではないが、それでも服が変わると雰囲気が変わり、その変化が面白かった。結局私はTシャツ三枚、シャツ二枚、ズボン三着、パーカー一着にカーディガン一着を選び、レジに持って行った。しかし、レジに映し出された数字は私を現実に引き戻した。高い。明らかに高い。その時私は遅ればせながらTシャツの値札を見た。そこには三千六百円と書かれていた。三百六十円ではない。多めのお金では半額を払うこともできず、私は諦めてカードを出した。一度レジに持って行ったものをキャンセルするような根性は私にはない。
嬉しくも肌寒い気持ちで店を出た私を東は笑顔で迎えてくれた。
「いやあ、買ってたねえ」
「おい、俺はぼったくられたのか? 服ってこんなに高いもんなのか?」
私はレシートを東に渡した。
「まあ、こんだけ買えばこんなもんだよ」
驚く様子もなくレシートを返す。私は大学生たちが来る日も来る日もバイトに励む理由がわかった。普通の大学生になるのも簡単ではない。
この日はこれでおしまいかと思ったらそうではなかった。買い物袋を抱えた私を東の後ろを付いて河原町通を南下していた。ここまで来たらどこへでも行ってやるという気持ちで私は黙って付いていった。連れて行かれたのはなんだか読めない単語が看板に刻まれたガラス張りのお店だった。中にはたくさんの鏡とイスが並べられている。ここはおそらく美容院だ。
「おいまさか私はここに入るのか?」
行きつけの散髪屋が醸し出す実家のような空気とは明らかに違う。赤青白の意図不明くるくるオブジェもない。先ほど服屋の前にいた番人よりも確実に屈強かつ巨大な番人が私に銃器を突きつけるのを感じた。その時、先を行く東が振り向いた。東は笑っていなかった。
「まだそんなことを言ってるの?」
意外な冷たさを帯びた東の声に私は少し身構えた。
「何をそんなに警戒してるのかわからないんだけど、さっき行ったのはただの服屋でこれから行くのはただの美容院。僕たちはただの客。それも何人も何人もいるただの客の内のたった一組。それだけ。世の中伊藤が思ってるほど伊藤のこと気にしてなんかないんだよ。いいから行くよ」
相変わらず失礼なやつだったが、何も言い返せない私は黙って白い照明が眩しい店内に足を踏み入れた。
小学生の時は女の子が行くのが美容院で男の子が行くのが散髪屋だと思っていた。中学生の時にイケてるクラスメイトが美容院に行っているという噂を聞いて、そいつのことを心の中で馬鹿にしていた。高校生の時にやっと、オシャレなやつが行くのが美容院でオシャレじゃないやつが行くのが散髪屋なのだと知った。そして大学生になった今、私はオシャレでもないのに美容院のイスに座っている。二人分予約していてくれたらしく、私と東は一つ開けて隣同士だ。真横に座られるとたまらないので店側の気遣いに感謝する。
「今日はどうされますか?」
イスに座ってソワソワしている私にはいかにも気の良い兄ちゃんといった感じの美容師さんがついてくれた。手にはさっき書いたアンケート用紙がある。色々な項目があったが、髪質なんて知らないし好きなファッション雑誌どころかそもそも雑誌はジャンプしか読まない私はほぼ白紙で提出していた。
「あ、切ってください」
「どんな感じにしますか?」
「短くしてください」
私は当たり前のことを言ったつもりだったが、変な間が生まれた。何かを察した美容師さんは後ろから雑誌らしきものを持ってきた。大量のイケメンの肩から上の写真が並んでいる。
「どんな感じにします?」
どうやら美容院というのは散髪屋と違ってより具体的なオーダーを求められるらしい。良いステーキ屋は焼き具合を細かく聞いてくるらしいが、それと同じなのかもしれない。そう思ってページをめくるがどの写真も男前過ぎて参考にならない。これだと思った髪型も「これが自分の頭に乗るのか」と思うと頭が痛い。
「お任せでお願いします」
さんざん迷った結果、良い寿司屋はお任せが一番美味しいらしいということを思い出した私は美容師さんの感性に全てを委ねることにした。
「わかりました。任せてください!」
めんどくさい客だと思われたらどうしようと思ったが、意外にもお兄さんは楽しそうだった。相手が強ければ強いほどワクワクするらしい少年漫画の主人公のようなものだろうか。さあこれから切られようと思ってドキドキしていたが、いきなり席を立たされた。帰らされるのかと焦って東を見たら、同じく席を立たされていた。移動した先にはリクライニングが最大まで倒されたイスとシャワーと洗面台。どうやら美容院では髪を切る前に頭を洗うらしい。安心して座った私はすぐに大きな不安に襲われた。なんと仰向けに寝かされたのだ。私の顔が思い切り晒されている。私のように顔面に不安を抱えている人間、平たく言うとブスにとってこれは非常に恥ずかしい。まだ股間を晒している方がいくらかましである。そんな私の羞恥心を察してか、お兄さんは顔にタオルを被せてくれた。死人のようで不快だったが顔が隠れるならそれに越したことはない。仰向けでお兄さんに髪を洗われながら、私は以前見たエロティック映像のことを思い出していた。その映像は女性美容師がヒロインだった。仰向けで髪を洗われる男優の顔面に美容師の魅力的な乳が押し付けられるシーンを見て、エロ演出のために真実を歪める監督のクリエイター精神に疑問を感じながらゴソゴソしていたのだが、あの仰向けは演出上の甘えではなくまぎれもない真実だったのだ。現場でしか学べないことは多い。
なぜか二回シャンプーをされてサッパリした後、ついにお兄さんはハサミを握った。期待と不安でこわばる私の髪を切り始める。髪型は服に比べてより私という土台に近いところにある。服がダサくても髪型によって私という人間自身がカッコよくなればそれはカッコいい私であるし、服がカッコよくても私の髪型がダサければそれはダサい私なのだ。ドラクエで言うと服はとくぎ、髪型はこうげきなのだ。そんなことを思いながら私は寝たふりを続けた。そこからの時間はとても長かった。目をつぶっているから頭の状況はわからない。しかし感覚的にいつもと違う切られ方をしているのは明らかだ。結局終わるまで目を開けられなかったのはお兄さんに話しかけられたくなかったからというよりも、自分の頭の状況を見るのが怖かったからだ。
「できましたー!」
お兄さんの明るい声に応えて目を開ける。恐る恐る鏡に映る自分の顔を見る。スッキリとした耳周り、消え去ったもったり感。よくいる大学生がそこにいた。これが美容院の力なのか。
「いつもセットはどんな感じですか?」
唖然とする私をお兄さんの難問が現実に引き戻した。セット?
「いや、特に何もしてないです」
素材そのものの良さを大事にしている私は髪をセットしたことがない。いや、より正確にはブスが調子に乗っていると思われたくなかったから髪をセットすることを避けてきた。しかし今、鏡に映る私は絶対にカッコよくはないがブスとは言いがたい。普通の大学生だ。普通の大学生なら普通に髪の毛をセットしても良いのではないだろうか。
「どんな感じにすれば良いか教えてください」
全国の男の子が中学生の時に通る道を二十歳にして通ってしまった。そんな私をお兄さんは気持ち悪がりはしないだろうかと不安だったが、そんな不安を吹き飛ばす程の優しい微笑みでお兄さんは応えてくれた。
「お、なんかいい感じじゃん」
近くのコンビニで立ち読みをしながら待っていた私に東は嬉しい言葉をかけてくれた。より私に近いところを褒められた分、服を褒められた時よりも嬉しい。
「まあ、あんな取られるとは思わなかったけどな」
照れ隠しで美容院の価格設定に苦言を呈してみたが、文句は一切ない。お兄さんに進められるままにワックスまで買ってしまった。これから私はこの店に通い続けるだろう。
「ね、良いところだったでしょ?」
そんな私の心を東はすっかりお見通しだ。
「まあ、そうだな。そんなに嫌なところじゃなかったな」
こんな私が美容院なんかに行って美容師さんに嫌がられないだろうか、急に美容院なんかに行きだして周りの人に笑われないだろうか。私の頭をグルグルしていたネバネバしてドロドロした思いはいつの間にか消え去ってしまっていた。私はただ美容院にいっただけ。ただ髪を切ってもらっただけ。ただそれだけのことだった。「世の中伊藤が思ってるほど伊藤のこと気にしてなんかないんだよ」という東の言葉が私の心にしみ込んでいた。
「じゃあとりあえず、ママのところに報告に行かなきゃね。お腹もすいたしついでにご飯も食べちゃおう」
そう言うと東は私の前をさっさと歩き出した。一瞬考えた後、私は慌てて付いて行った。そういえば私は日本童貞救済委員会とかいう怪しい団体の計画に参加していたんだった。
「みすずママはお店もあるからね。基本的には指示するだけで、実際に動くのは僕みたいな実行部隊の人間なんだ」
みすずさんの店へと向かって平日にも関わらずたくさんの人でごった返す四条通を進みながら、東は日本童貞救済委員会のシステムを教えてくれた。全国に支部がある日本童貞救済委員会は高校生、大学生、社会人の実行部隊を抱えていて、彼らが社会にとけ込みながら日々救うべき童貞を探しているらしい。そして、これだと思う人材を見つけ次第支部長に報告。それ以後は支部長の指示を実行部隊が実践することで担当童貞を好青年へと変貌させるらしい。そんな都市伝説みたいな話を聞きながら花見小路通に入った時、私は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「あらあら、奇遇ですねえ」
目の前から卑猥なオーラをまとって近づいてくるのは間違いなく大和先輩で、並んで歩いているのは天使かと思ったら村瀬さんだった。笑顔で会釈する姿がたまらなく可愛い。
「大和先輩と村瀬さんじゃないですか。どうもどうも。デートですか?」
おそらく満面の真顔で固まっている私の変わりに東が応対した。助けてくれたのかもしれないが、その質問は残念ながら追い打ちだ。
「いやあ、そうなんですよ。お恥ずかしい」
大和先輩の口がいびつに歪み、目尻は下がり、血色が良くなった。これはもしかしたら照れているのかもしれない。食事前に嫌なものを見てしまった私はお口直しに村瀬さんを見た。いつもと変わらぬ笑顔でやはり可愛い。
「伊藤君、髪切ったの? 良い感じだね」
誰の何のことを言っているのか最初はわからなかったが、どうやら私の髪のことを褒めているらしい。私は自分の血色が大和先輩の数倍良くなるのを感じた。
「あ、うん、きった」
前へ前へと出ようとする強烈な嬉しさを背中で必死に抑えながら、私はなんとか返事をした。
「すごく良いと思うよ。じゃあ、またサークルでね」
白い手をヒラヒラさせながら村瀬さんは四条通へ歩き出してしまった。
「じゃあ、大和先輩、さようなら」
東は東で爽やかな挨拶を残して花見小路通を南へ歩き始めてしまった。残された私と大和先輩は形式的な会釈を交わしてお互いのパートナーの後を追った。
店の中にはみすずさん一人しかいなかった。カウンターに座って文庫本を読んでいるだけで絵になるその姿を見て、私はタカラジェンヌを感じた。
「こんばんは。結構良い感じになったと思うんだけど、どうかな?」
東の問いかけにみすずさんはゆっくりと振り向き、私の顔をじっくりと眺めた。頭を中心に視線を感じる。
「まあ、良いんじゃないの。普通の大学生になれたって感じね。服はどんな感じかしら?」
みすずさんは紙袋を受け取ると、中の服を丁寧に取り出し、ボックス席のテーブルに並べた。
「これも良い感じね。オシャレすぎず、ダサくない。これでやっとスタートラインに立てたんじゃないかしら」
「じゃあ次の段階ですね。伊藤の場合はどうしましょう」
「そうねえ。やっぱりあれじゃないかしら。セッティングは任せたわ。お店は私が用意する。東ちゃんも参加して、フォローしてあげて」
「わかりました。よろしくお願いします。あと、実は僕たちまだ晩ご飯食べてないんですよ。ここで食べて行っていいですか?」
「良いわよ。ちょっと待っててちょうだい」
「ちょっと待ってください」
さっさと店の奥へ引っ込もうとしているみすずさんを呼び止める。
「ちょっと待ってください。あれってなんですか。セッティングってなんですか。私は一体どうされるんですか」
みすずさんは振り向き、思い出したように私を見た。
「あれっていうのはあれよ。合コンってやつよ」
合同コンパ、略して合コン。合唱コンクールではない。男女が同数ずつ集まって食事をしながらお互いがお互いの品定めをする会合が夜な夜な日本各地で行われているらしいということは知っていた。知っていたが、本当にやっているのか半信半疑だった。まさかそんな会合に自分が参加することになるとは夢にも思っていなかった。
みすずさんのお店でナポリタンをごちそうになった帰り道、私は合コンというものに思いを馳せていた。初対面の男女がたった数時間のお食事会兼飲み会で親交を深める会。参加するだけでも相当なコミュニケーションレベルを要求されるはずだし、ましてやそこで相手を見つけるなんていうことになれば、それこそ想像もできないようなイケイケ具合が必要になるのだろうか。
「大丈夫大丈夫。僕がフォローするし、付き合えるかどうかは別として、今の伊藤なら女の子の友達が一人くらいは作れるんじゃないかな」
東の能天気な声を思い出す。初対面の人間がパクチーよりも苦手な私がそんな集まりに参加して結果を残すことができるのか、甚だ疑問だ。しかし、以前までの私だったらそんな話は聞いた時点で断固拒絶していただろう。不安を抱えながらではあるが参加しようと思ってしまっている自分自身を、私は他人のように感じていた。これは成長なのだろうか、それとも退化なのだろうか。合コンに参加すれば答えが出るのだろうか。私は考えるのをやめることにした。
それから一週間、昔やっていた合コンの女王がヒロインのドラマを見返したり、インターネットで体験談を調べたりしながら不安と期待を行ったり来たり。私の頭は合コンに支配されていた。東に告げられた運命の日付は六月六日。その日に向けて洗濯のローテーションを整えていた私は、一番お気に入りの服で集合場所の祇園四条駅に向かった。
集合場所には相変わらず一番乗りの東がいた。
「お、伊藤だ。今日は頑張ろうね」
東は私の肩をポンポン叩いてそう言った。どうやら気合いを入れてくれているらしい。
「とりあえず説明すると、今日の合コンは三対三、男側の三人目は僕と同じ実行部隊のやつだから。二人で伊藤をフォローするから大船に乗った気持ちでいていいよ」
自信満々の東を見て私は不安を感じた。合コンというのはお互いに異性のパートナーを見つける場所であるはずだ。となると、隣にこんな魅力的な男がいるというのはそれだけでかなり大きなハンデなのではないだろうか。
大学の合格発表以来のソワソワを感じながら待っていると、改札口からえらくガタイの良い男が近づいてきた。
「東君! お待たせ!」
確実に体育会系のその男は登場から元気いっぱいだった。
「あ、お疲れ。紹介するね。この子が伊藤。今回の患者さんね。それで、こっちのムキムキなのが谷口。僕の高校の時の友達で、大学ではアメフトをやっているんだ」
「伊藤君、今日はよろしく!」
谷口と呼ばれた男は白い歯を輝かせながら握手を求めてきた。勢いに飲まれて手を差し出す。おそらく私とこいつが仲良くなることはないだろう。私の不安が加速し始めたその時、東の爽やかな声が構内を通り抜けた。
「柏木ちゃん、こっちこっち!」
東の視線を追うと、そこには三人の女の子がいた。こちらに気づくと小走りで近づいてくる。近づく程に私の心臓は鼓動を早めた。可愛い。先頭を歩く女の子に私の視線は固定された。おそらく柏木さんと呼ばれた女の子だろう。くりっとした大きな目に、黒くて綺麗な髪。くしゃっとした笑顔は人懐っこさがにじみ出ていて、私は実家の柴犬、テスを思い出した。他の二人は他の二人で可愛いのだが、私の目には柏木さんしか映らなかった。
六人は東を先頭に会場である居酒屋に向かった。私は私の脳をフル回転させ、コミュニケーション野をショート寸前まで稼動させながら場の雰囲気を良くするために死力を尽くしたが、何を話したかは覚えていない。会場の居酒屋は河原町通沿いのビルの二階にあるお店で、店内は薄暗く、容姿に自信のない私には好都合だった。
「じゃあとりあえず自己紹介でもしましょうか」
聞いたこともないような横文字が羅列されたドリンクメニューの中から注文を済ませた後、東の提案で自己紹介が始まった。私の調べた体験談通りの展開だ。確かここで好印象を与えられるか否かでその日の勝負はほぼ決まりなのだそうだ。東と谷口君が各々自己紹介を披露する間、私は授業を犠牲にして練りに練った自己紹介を頭の中で繰り返した。そしてついに私の順番が回ってきた。五人の視線が私に集中した瞬間、練りに練った自己紹介はビビってどこかへ逃げて行った。
「あ、えーっと、伊藤です。東の友達で、こういうあれは初めてなので、まあ至らない点も多いとは思いますが、そんな感じでどうかよろしくお願いします」
指示語がふんだんに盛り込まれた何の情報もない自己紹介を披露して軽く会釈をすると、テーブルをパラパラとした拍手が包み込んだ。隣の東の盛大な拍手が耳に痛い。人生というのは上手くいかないものだ。私はスタートで盛大にすっ転んでしまった。
反省と後悔で挙動が不審になっていた私だったが、机の下で東に足を踏まれて我に返った。前を見ると柏木さんが自己紹介をしようとしている。私は感謝の意を込めて東の足を踏み返した。
「はじめまして。柏木玲奈です。東君とはバイト先が一緒で、今日はこういう会を開いたんですけど、私も伊藤君と一緒でこういう場は初めてなので緊張しています。よろしくお願いします」
柏木さんの口から伊藤という単語が飛び出して心臓が飛び出すかと思ったが、なんとか飲み下すことに成功した。本当に緊張しているのだろう。照れている顔が趣き深くて可愛らしい。名前も可愛い。私は今まで「れな」という名前で可愛くない女の子を見たことがない。
それからしばらく、運ばれてくる唐揚げやらなんやらを食べながら、適宜お酒を注文しながら、私はウーロン茶を牛飲しながら、ほがらかな会合が進んで行った。特筆すべき内容がないような、学校生活の話や、元NHKのアナウンサーとの写真を週刊誌に撮られた芸人の話や、谷口君のアメフト部がいかにキツいかといった話をしていたように思うが、私は柏木さんを見るのに必死だった。それにしても、合コンというものはもっと激しく、もっとイケイケな酒池肉林の宴なのかと思っていたが、なんというか平和だ。意気込んでいたのが馬鹿みたいだ。そんな和やかなお食事会だったが、お酒が回り始めた頃、事件は起こった。
「あれ? 柏木さん、全然飲んでないねえ」
ビール瓶を持った谷口君が柏木さんのコップにお酒を注ぎだした。薄暗くてもわかる程赤い顔に目を座らせている谷口君は、紛れもなく酒癖が最悪だった。
「お酒、あんまり飲めないの」
やんわりと断る柏木さんだったが、暴走肉団子を止めることはできなかった。
「なんなの? 俺の酒が飲めないの?」
「まあまあ、谷口君酔い過ぎじゃない?」
東が止めにかかったが、完全にお酒に飲まれている谷口君は漫画みたいな絡み酒をやめなかった。
「飲めって言ってるだ……」
語気を強める谷口君の台詞が中途半端なところで止まった。自分を取り戻してくれたのか。偉いぞ谷口君。そう思って谷口君の顔を見ると、風呂上がりみたいにびしょ濡れだった。状況を把握しようと周りを見渡すとみんなの視線が私に集まっている。不思議に思って自分を見ると、右手に空のコップが握られていた。あれ、頼んだばかりのウーロン茶はどこへ。
「何やってんだこら!」
勢い良く立ち上がった谷口君は、その勢いのまま私に向かって強烈な右ストレートを打ち込んだ。私はわけもわからぬまま、目の前が真っ暗になった。
それからどれくらいたったんだろう。気づいたら私はお店のソファーで寝ていた。
「あ、気づいた? 良かった良かった」
ぼんやりする頭で周りを見渡すと、東と目が合った。
「ごめんね。谷口君があんな酒癖が悪いとは思わなかったよ。でもまさか伊藤があんなことするなんてねえ」
あんなことってなんだ。必死に記憶を掘り下げるが頭にかかった靄が晴れない。
「とりあえず谷口君と他の二人には帰ってもらったよ。ほんとごめんね、こんなことになっちゃって」
東の謝罪の意味がわからない。ここは一体どこだっけ。そう思って周りを見回したとき、私の頭の靄が吹き飛んだ。
「ごめんなさい、巻き込んじゃって。あと、助けてくれてありがとうございました」
目の前にいたのは柏木さんだった。そうだ、思い出した。私は合コンに参加していて、そしたら谷口君とかいう筋肉野郎が酔っ払って柏木さんに絡みだして、それで私が目を覚まさせようと思ってついついウーロン茶をぶっかけて、怒った谷口君に殴られて気を失ったんだった。徐々にはっきりする頭で柏木さんの説明を聞く。私が気を失ったあと、店員さんが飛んできて、警察だ救急車だと騒ぎになったらしいのだが、そこを東が丸く収めて解散させて、とりあえず店のソファーで休ませてもらっていたようだ。そこは救急車を呼んで欲しかったところだったが、私がうわごとで断固拒否していたらしい。気を失ってなお周りを気遣う私の殊勝さに我ながら感心した。私を殴ってスッキリした谷口君は千鳥足で家に帰って行ったそうだ。あいつはもうお酒を飲まない方が良い。
「ほんとごめんね、大丈夫? 立てる? タクシー呼ぼうか?」
予想外の出来事に東はうろたえているらしい。普段飄々としているやつがうろたえているのを見るのは面白いが、ちょっとかわいそうなので立ち上がって大丈夫なことをアピールしてやる。
「もう大丈夫だよ。帰ろうか」
心配そうな顔で見送るお店の人にお礼を言って、私たち三人は店を出た。
鴨川沿いは涼しい風が吹いていて、目覚めたばかりの私顔を優しくなでた。この時間になっても規則的に並んでいるカップルを横目に、私たち三人は下宿に向かって歩いていた。
「二人とも合コンって初めてだったんだよね。何度も言うけどほんとごめんね」
東はやはり責任を感じているようだ。しかし私は東に感謝していた。こうやって可愛い女の子と並んで夜の鴨川を歩けるのなら、何発でも殴って欲しい。
「もういいよ」
本心からそう言って、柏木さんの隣の空間を噛み締めていた。
四条通から柏木さんの下宿がある御蔭通まで、歩いて行くには遠かったと思うのだが、幸せな時間はすぐに過ぎて行った。
「じゃあここで」
東大路通から少し東に入ったところにあるアパートが柏木さんの下宿らしい。
「じゃあね。今日は来てくれてありがとう。こんなことになってごめんね」
東はまだ申し訳なさそうにしている。
「いえいえ、私の方こそごめんね。もっと上手くできたら良かったんだけど」
柏木さんまで申し訳なさそうにしている。それにしても美人はどんな表情でも美人なんだなあ。
「まあ、もう元気だし私はいいよ。じゃあさようなら」
柏木さんの姿を網膜に焼き付けて、さあ帰ろうと歩き始めた時、思いがけないことが起こった。
「あの、ちょっと待って」
振り向くと柏木さんが私を見ている。
「良かったら。良かったら出良いんだけど、連絡先教えて欲しいな」
恥ずかしそうにそういう柏木さんの可愛さに殴られた時以上の衝撃を受けて、私は急いで携帯電話を取り出した。
「あら、結果オーライってやつね。いけるわ伊藤君。いや、いっちゃうしかないわ伊藤君」
東から成り行きを説明されたみすずさんは、嬉しそうにそう言った。
「これは誰がどう見てもあなたに気があるってことよ。ここでいかなきゃ男じゃないわ」
「そんなこと言われてましても」
私だってその可能性を考えなかったわけではない。好意を持たれているかどうかはわからないが、好感触であることは間違いない。
「それで、柏木さんとは連絡したの?」
「うん、まあ、一応」
「それで? 何か動きはあったの?」
「うん、まあ、一応」
「ああん、じれったいわね! さっさと言いなさい!」
「明日、ご飯食べに行くことになった」
そう告げた瞬間、店内は喝采に包まれた。みすずさんはアメリカ人のようなガッツポーズを決めて、東はゴールを決めたJリーガーみたいな喜び方をした。
「わかってるわね伊藤ちゃん。これはあなたに来た人生最大のチャンスよ。柏木ちゃんみたいな可愛い女の子があなたに興味を持つことなんておそらく今後一生ないわ。気合い入れて行きなさい」
「そうだよ伊藤、これは行くしかないよ。これ、持って行って」
東から八坂神社のお守りを渡される。こいつは受験生の母親か。
「まあ、うん、できるだけ頑張ってみるよ」
客観的に見てもこれはチャンスだ。しかし何かが引っかかる。手放しで喜べない何かがある。自分でも不思議な程浮かない気分でその日の報告会はお開きになった。
ご飯を食べる、と言ってもまさかホテルのレストランでフルコースを食べるわけにはいかない。我々学生は貧乏なのだ。私と柏木さんは大学近くにあるバターライスが有名な喫茶店に向かった。
「ごめんね、呼び出しちゃって」
オムライスを二人分注文した後、先に話し始めたのは柏木さんだった。
「助けてもらっちゃったわけだし、ちゃんとお礼が言いたかったんだ。ありがとう」
ロングスカートにTシャツ姿の柏木さんは、相変わらず可愛かった。
「いいよいいよ、柏木さんも大変だったね、あんなデカいのに絡まれちゃって」
「うん、怖かったけど、伊藤君が助けてくれたから」
柏木さんの血色が良くなっている。私の血色も良くなっているのを感じる。自分でも恥ずかしくなるくらいのハッピームードにテーブルは支配された。
オムライスを食べながら、色々なことを話した。学校のことやアルバイトのことや、趣味のこと。こんなに美味しいオムライスを食べたのは初めてだった。食べ終わった後もコーヒーを頼んで話し続けて、結局十時頃まで居座ってしまた。「いい、伊藤ちゃん。ご飯を食べ終わったら絶対に家まで送るのよ。歩きながら気持ちを整えて、家に着いたらゴーよ」というみすずさんの言葉を思い出して、私は柏木さんを家に送り届けることにした。夜の御蔭通は人通りも少なく、落ち着いた京都の空気が流れていた。無言の帰り道だったが、嫌な気持ちはしなかった。なんとなくこのまま、いけるような気がした。
気づいた時にはアパートの前に立っていた。告白するなら今しかない。柏木さんもおそらくそれを待っている。演劇のラストシーンのような、そんな空気が流れていた。しかし、何も言い出せない。恥ずかしいわけではない。柏木さんが嫌いな訳でも決してない。しかしそれでも、何かが私を引き止めていた。そのまま二人で見つめあって、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。最初に口を開いたのは柏木さんだった。
「あのね、最初は合コンって聞いて、あんまり乗り気じゃなかったの。でも、東君の頼みだし、一回くらい良いかなって思って、行ってみたの。そしたら谷口君に絡まれて。すごく怖かったし、来るんじゃなかったって思った。でも、伊藤君が助けてくれて、本当に嬉しかったんだ。合コンなんかで好きな人ができるわけないと思ってたんだけど、そんなことなかった」
柏木さんのまっすぐな瞳が私を見つめる。
「あのね、私、伊藤君のことが好きなの」
嬉しいはずだ。嬉しいはずなのに、私の心に引っかかるこれはなんだ。自分の中の感情の正体が私にはわからなかった。
その時、私の目に綺麗な月が映った。満月だった。私は自分の感情の正体に気づいた。初めて出会ったのは四月だった。ご飯をおごってくれるという情報だけで見学に行ったサークルだった。部室横の広場で行われた天体観測を嫌々ながら参加した私の隣にいた女の子は満月なんかよりずっと魅力的で、私は電球と星の光の違いもわからないまま天体観測サークルに入会した。
「ごめん、私は、他に好きな人がいるんだ」
やっぱり私は村瀬さんが好きだった。
次の日、私は花見小路通にあるバーのカウンターに座っていた。カウンターを挟んで向かいにいるのは日本童貞救済委員会京都支部支部長、隣にいるのは日本童貞救済委員会京都支部実行部隊隊員。私の話を聞いて、二人は正反対の反応を示した。
「バッカじゃないの? もったいない! あんな可愛い女の子に告白させた上にフるなんて! あんなチャンス二度とないわよ。あんた一生童貞でいる気? 頭おかしいの?」
みすずさんはタカラジェンヌ的上品さをかなぐり捨てて怒っている。
「村瀬さんが好きっていうけどね。その子彼氏いるじゃないの! あんたなんかと付き合ってくれるわけないじゃない!」
一息でまくしたてると、みすずさんは自分で注いだお冷やを一気に飲み干した。そうなのだ。村瀬さんには彼氏がいる。しかも私とは正反対の彼氏がいる。もし二人が別れたところで私と村瀬さんが付き合うことはないだろう。そんな気がする。しかしそれでも私は村瀬さんが好きなのだ。後悔はない。
「まあまあ、みすずママ、そんな怒らない怒らない」
東はなんだか嬉しそうだ。
「東ちゃんが一番怒るべきなのよ! 色々やってあげたのに、この童貞は全部無駄にしちゃったのよ!」
その点に関しては私も申し訳なく思っている。この埋め合わせは必ずしよう。
「まあ、別に僕のことは良いよ。それより、伊藤は良いの?」
東が爽やかな、優しい笑顔で私に微笑みかける。答えを聞くまでもない、そんな顔をしている。私は東の真似をして微笑んだ。少しは爽やかになれているだろうか。
「うん、私はこれで幸せなんだ」