49 好きな子が泣くと沈む
グラグラ煮え立つ浴槽には、緑色の湯が満ちている。
蒸気が満ちた湯殿に人影は見えず、湯からはゴボゴボと不自然に泡が立っていた。
「……ぶぶぶ」
底の見えない緑色のなか、湯殿の主、睦人が静かに息を排していた。
(あああ、どうしよう、どうしよう。如奈を泣かせてしまった如奈をああ如奈が如奈が泣いて、俺のせいで如奈が俺のせいで)
どん底の気持ちで帰宅した睦人は、家に戻るなり湯を張り、潔く清々しいほど入浴剤を放り込み、
「ぶぶっ、ぶぶぶ」
文字通り沈んでいた。
(如奈が、如奈が泣いて泣いてそれが俺のせいで如奈が俺が俺のせいで、俺がいたから如奈泣いて、あああ如奈が)
混乱する心中は最早文章にもなっておらず、如奈が泣いた、それが自分のせいだ、ということだけが頭を占めている。
「ぶぶっ、ごぼっ……」
なお、睦人が沈んでから三分十八秒。
そろそろ酸欠の可能性があった。
「ぶっ……ぐっ、うっ…… !」
うめき声をあげて、睦人の目の前が暗くなっていく。
「……ぷはっ !!」
視界が暗転する直前、睦人はようやく顔を水面から上げた。
「うっ、げほっ、ごほっおえっ……え、あ、なんだこれは !? ……けほっ」
咳き込みながら、睦人は周囲の様子にぎょっとする。
底の見えない緑色が浴槽いっぱいに張られており、底は溶けきらない入浴剤でざらついている。
おまけに自分は靴下を履いたままで、肩で大きく息をしながら、睦人の頭には疑問符が浮かんでいた。
「あ、ああ、そうか……俺か……」
自分がやったことだと、睦人はわかっていなかった。
「あー……どうするんだ、これ」
普段の睦人は、湯を溜めないか、溜めても洗濯に利用するかのどちらかだった。しかし、溶けきれないほどの入浴剤が入った湯で洗濯はできないし、第一に心情的にしたくない。
大量の湯を入浴だけに使うことは、まして両親に水道代を払ってもらっている身であるなら、もったいない、の一言に尽きた。
「……いいか、もう」
溜息交じりに呟き、睦人は浴槽からあがった。適当に体を流し、浴室をあとにする。
脱ぎ捨ててあった服を洗濯機に放り込み、部屋着に着替えリビングへと入る。
まっすぐにソファに向かうと、どさり、と体を放る。
「はあ」
小さく息を吐いて、脱力し身を沈めた。
混乱しパニック状態にあった思考は、一旦停止したことでわずかに落ち着きを取り戻す。
「はああああ……」
むしろ落ち着くではなく落ち込んでいた。
「……如奈」
目を閉じると、浮かんできたのは如奈の泣き顔。
笑ってほしい、幸せでいてほしい。叶うならば、傍にいてほしい。
そう思う相手が泣いた、しかも、自分のせいで。
「……」
思い出すと、さらに心中が重くなる。
他者がどうこう言うだけなら、口には出さずとも、いくらでも抵抗ができる。しかし、自分が自分を責める場合は逃げ場がない。
自分のせいで如奈が泣いた、その事実が睦人を苛んでいく。
「俺、何をしたんだ……」
事実を拒むことこそしないが、睦人は明確な原因がわからない。如奈から言われたのは『何でダメなの ?』の一言である。
「朝、は元気だったよな……」
朝の如奈の笑顔が、最早昔のことのように思える。
朝から昼過ぎまで、如奈は明るく笑っていた。そうなると、泣く直前の言動か、と睦人は考える。
しかし、ここで一つ、大きな問題があった。
(如奈が泣く直前、俺は何て言ったのだろうか……)
感情的に何かを言ったことは覚えている。だが、肝心な内容や自分の思考をいまいち思い出せなかった。
(多分、そのせいだよな)
ここまで考えて、睦人がわかったことは一つ。
何で如奈が泣いたのか、はっきりとはわからない。そんな自分の状況だけだった。
「情けない……」
如奈とは、人生のほとんどを一緒にいる。その付き合いの長さを嬉しく思うし、心のどこかで誇ってすらいる。
しかし、結局のところは如奈のことを理解できていない。そんな思考が睦人を追い詰めていった。
その時だった。
――ぐううう
「……」
睦人の腹が大きな訴えをした。
「お腹、空いたのか」
他人事のように呟き、睦人はのっそりと起き上がる。
いくら悩んでいるとはいえ、睦人は成長期の健全な男子高校生である。前回の食事から六時間以上経過していれば、状況はさておき、空腹を覚えることは正常なことであった。
こんな状況でも普通にお腹は空くのか、自分の愛情はそんなものだったのか、と睦人は理不尽に凹んだ。
「あー……野菜しかないな」
冷蔵庫を確認すると、そのまま食べられる類のものはなかった。
「ゆでれば、食べられるな」
まったく気力がわかないが、それでも睦人は料理をしようと思い立つ。
今日、如奈と如奈の母親に自炊をしていることを褒められたばかりだった。
「はあ」
とはいえ、その動きはいつも以上に手が遅い。
食べられるサイズに切ろう、と睦人は包丁を握った。しかし、仮にも刃物を扱う上では、一瞬の不注意が危険をもたらす。
「……痛っ」
不意に包丁が指を切り、睦人は反射的に指を咥える。
深く切ったわけではないが、自分で手に爪を立てるのとは違って、不意の痛みは一層鋭く睦人を襲ってきた。
指先にできた血の滴を、睦人はきつく吸い上げる。
「……まずい」
無意識に、睦人はそう呟いた




