11 変質者からは逃げるべき(できてないけど)
初対面の相手にいきなり「吸血鬼」と言い出す男を、睦人は変質者と断定していた。それと同時に、昔、如奈から借りた本に吸血鬼などの話があったのを思い出す。
(確か、あれは中世の話だったな)
吸血鬼やハンターが題材となった、ある程度は実際のことを基に書かれた物語であった。しかし結局はフィクションにすぎず、吸血鬼も当時の何かを風刺した比喩であったはずである。
(いや、本当に中世にこんなやつがいたかは知らないが……)
睦人は極めて冷静に考えを続ける。
(虚言癖か妄言癖でもあるのか?警察を呼ぶ、いや、病院が先だろうか。しかし、救急車は身体的に負傷している人が使うべきだよな……)
一応は眼前の不審者のことを考えているのだが、数日分の睡眠不足を放課後のわずかな時間で取り戻すのは難しかったことが窺える。
(というか、俺は携帯電話を持っていない!!)
早い話、やっぱり混乱していた。
「上手く人間に溶け込んでも、ハンターは騙されねえ!!」
放っておかれた男は、明らかに『格好つけています』というように睦人を指さし叫んでいた。本当は睦人に対して言われたものだが、混乱している睦人には正しく届いているかが怪しかった。
内容はさておき、男の声が聞こえたことで睦人は現実に引き戻される。
(そうだ、兎に角この状況を打破しなければ)
目の前には変質者。裏道は人が外にいないうえに細く、逃げることは難しい。大声で助けをよんでも、表道は遠いうえに賑わう時間帯で聞こえる保証はない。睦人は追い込まれていた。
(下手に刺激はできない。一か八か表通りまで走るというのも……)
やっと正常になった頭で睦人は解決策を模索する。その一方で、男は怪訝な顔をして眉をひそめると、こちらも警戒態勢に入った。
「お前……ハンターを目の前に冷静だなんて、よっぽど腕に自信があるんだな」
勘違いである。
鋭い眼光で睦人を捉えるが、その心情までを正しく把握することはできていなかった。
しかし、考えこそ食い違っているものの、両者が互いに互いを警戒しているのは確かであった。
互いが互いを牽制するも、いつまでもそうしている訳にはいかない。裏道に人が来ることはなく、ここだけ時が停滞したようになっていた。
(一体、どうしたらいいんだ?)
考えるとともに、睦人の意識が僅かに男から逸れる。
その隙を見逃さず男は動き、睦人の視界から消えた。
「なっ……!」
男は低姿勢になって一気に睦人との距離を詰める。男が高速で動き、暗いこともあってか、睦人はそのことに気がつかない。
見失ったことで反応が遅れ、睦人は動けずにいた。
「貰った!!」
「っ……!」
男が下から叫び、睦人は初めて危機を察知した。僅かに後ずさるが、間に合わない。
「くっ……」
足元に気配を感じると、睦人は反射的に足を男に向かって振る。
「甘いな!!」
睦人の動きに男は左腕で睦人の足を制そうする。しかし、その程度で睦人の足は止まらない。
無意識で力の加減ができなかったためか、それは結果的に強い蹴りとなってしまった。
睦人の力強さは、男には予想外だった。
「え?」
睦人の右足は男の左腕ごと腹部を的確に捕え、カウンターとなって正面から叩き込まれた。
「あ……」
当然だが、睦人の理解も追い付いてはいない。
遅れて把握した状況と、足がめり込む生々しい感覚。
ノーモーションからの蹴りにも関わらず、睦人は何かを抉り砕いた感触をしっかりと認識した。
「かはっ……」
男は勢いにバランスを崩し、地面に文字通り転がる。咳き込んで蹲る様子は、睦人の認識が正しいことを如実に表していた。
(しまった!!)
いくら先に動いたのが相手だとしても、睦人が男を傷つける気は一切なかった。顔を青ざめると、男に駆け寄りしゃがんで男の容体を確認する。
「おい、大丈夫か!?」
「う……ああ、まあな……」
返事をするも、男は息も絶え絶えという様子で説得力は全く無かった。
「待っていろ、今救急車を呼ぶ!」
睦人は救急車を呼ぶために表通りまで向かおうと立ち上がるが、男が睦人を見て呟いた。
「お前、優しいんだな……吸血鬼なのに……」
そして、再度激しく咳き込む。
こんな時にも吸血鬼云々という男に、睦人は思わず言葉を荒げる。
「俺は吸血鬼じゃなくて人間だ!!それよりも、あまりしゃべらない方が……」
「へっ!?」
男は睦人の言葉に上ずった大きな声をあげると、驚きとともに勢いよく起き上がる。睦人はビクッと後ずさるが、男は起き上がるのが体に障ったのか胸元を右手で押さえ顔を歪めた。
「お前、傷に障るだろう!?」
心配そうに再び傍による睦人を、男は左手で制する。
「いや、鉄板仕込んどいたから傷自体は深くないんだ……」
ほら、と男がわずかに服をまくると、そこには一部が砕けた鉄板が覗いた。下の皮膚も、痣になり足が届いていたようだが救急車を呼ぶほどではなかった。
え?と固まる睦人をよそに、男は言葉を続ける。
「腕はちょっと痛むけど、まあ掠っただけでほとんど腹に当たったし」
「……」
「たださ、急に体勢崩れたから呼吸できなくて……」
再度男は咳き込むが、それは明らかにさっきまでよりも軽いものだった。
睦人はぽかんとし、数回瞬きすると何とか言葉を絞り出した。
「一昔前の、ヤンキーみたいだな……」
睦人の言葉の意味がわからなかったのか、特に反応もしないで睦人に向き合う。
「それよりさ」
「あ、ああ」
「さっきの本当か?」
「さっきの?」
「その、お前が、人間だっていうの」
男の言葉に、睦人は苦虫を噛み潰したような表情になる。そして、思わず語気を荒げた。
「当たり前だろう!!」
この期に及んで何を言い出すかと思えば、と睦人は呆れる。しかし、そんな睦人を気にすることもなく、男は半信半疑な様子で悩み始めた。
「まじかよ……完全に狩るつもりだった……」
何やら物騒なことを呟き始めた男に、睦人は目の前の男が変質者であることを思い出す。
会話がある程度成立してしまっているせいで普通に接してしまっているが、危険な存在であることには変わりなかった。
今のうちに逃げようか、そう思って睦人はそうっと背をむけようとするが、男が急に声をかけてきた。
「なあ」
「な、なんだ?」
思わず返事をし男を見る睦人に、男は申し訳なさそうな声で言った。
「電話、貸してくれねえ?」
今までで一番まともで、ある意味一番怪しい発言だった。
「……」
「あっ!勿論、何か企んでるとかじゃねえからな!」
「余計怪しいんだが」
睦人が訝るように男を見ると、男は何かを察したのか慌てて否定をする。しかし、睦人にとってそれは逆効果であった。
「携帯電話とか持ってないのか?」
「急いで出てきたから、忘れちまった……」
「じゃあ、公衆電話」
「えっと、財布も……」
徐々に語尾が小さくなり項垂れる男を前に、睦人は呆気にとられる。そして、もうどうしていいかわからなくなっていた。
(一度相手をしてしまった以上、無視はできないしな)
不審者から逃げたい気持ちは十分にあったが、今の状況から逃げる術を睦人は知らない。先の男の動きを見て、下手に逃げてもすぐに追いつかれることがわかっていたこともあった。
(それに……)
男の腹部の痣をチラリと見て、睦人は罪悪感から目を逸らす。
(怪我をさせてしまったこともあるからな)
男からは痛がる様子も見えないが、怪我をさせた、という事実が睦人には重く感じられていた。反射的に、しかも防衛目的に行ったものだったが、鉄板がなかったら、と考えるとそれだけで睦人には背筋に悪寒が走った。
「表の店で借りらんねえかな……」
「いや、今は忙しい時間だからやめたほうがいいと思うぞ」
「うう……」
さっきまでの威勢はどこにいったのか、男は小さくなり、心なしか瞳も潤んでいる。睦人の目には、何故か子犬が重なって見えていた。
そして、その様子から男が本当に電話を必要としているように睦人には思えた。
(仕方ない、あまり気は乗らないが……)
睦人は最終手段に出ることにした。
携帯電話を忘れ、財布もなく、項垂れ悩む男を見て睦人の脳裏にはある諺が浮かんでいたからだ。睦人は、聞こえないぐらい小さな声で呟く。
「馬鹿の考え休むに似たり」
意味、よい考えも浮かばないのに長く考えるのは時間の無駄だということ。
(いや、別にこの男を馬鹿と言っているわけではないぞ)
誰に対してかはわからない言い訳を睦人は思い浮かべるが、逆効果だった。
「なあ」
「……何?」
「一つ、考えがあるが……」
睦人の言葉を聞くや否や、男の表情がぱあっと明るくなった。
「マジで!?」
「あ、ああ」
あまりの変化の大きさに、睦人はたじろぐ。
「お前、やっぱり良いやつだな!」
「……それは、どうも」
男を伴い、睦人は暗い夜道を歩き出した。