1 クラスメートは油断大敵
うるさい、と浮上した意識がそれを声だとわかるには時間がかかった。
目を閉じたまま腕を動かそうとしたが無理だった。
腕に、そして全身に不自然な重みを感じて睦人こと宮古睦人はそれを断念する。
「……ーん」
(誰だ……?)
思考を巡らせようとするが、うまくいかない。意識の大半は眠気に捕らわれており、考えはすぐに霧散する。
「……くーん、起きてよー」
(ああ、起こされてるのか)
仄かに耳に残った言葉で自分が起こされてることはわかり、思考だけが緩く動き出した。
(何か息苦しい……?)
小さな疑問が分散的に浮かぶ中で、意識が浮き沈みを繰り返す。頭に反し、体は目覚めを拒否していた。
しかし、それも長くは続かない。
「もうすぐ篠崎さんが部活終わるよ?」
「……!」
幼馴染の名を聞くや否や、睦人ははっきりと目を開けた。視界が急に明るくなりその眩しさに目を細める。
再びゆっくりと開くと視界はとても開け、睦人は一瞬自分がどこにいるかわからなかった。
「あっ、宮古君起きた」
視界の中心に、横たわる睦人を見下ろす人物が見える。ぼんやりと見えた姿が徐々にはっきりとするとともに、自然とその名前を呟いた。
「桐生……」
「おはよー、宮古君」
赤茶色のはねた髪に着崩した浅葱色のブレザーの制服。いつも通りの装いで桐生こと桐生弥は嬉しそうに破顔した。そして、傍らの腰までの長さはあるスコップによりかかるようにして首を傾げた。
「大丈夫?ちゃんと起きてる?」
「……ああ、まあ」
「こんなところで寝てるから、てっきり永眠してるかと焦ったよ」
「……勝手に殺すな」
「だから起こしたじゃない。生きててよかったよ」
あはは、と笑う桐生は笑顔だが、無邪気とは言い難い。相手の反応を楽しむような、探るような雰囲気があった。
睦人は桐生の笑みを訝るが反応を返さず、視線を巡らせて周囲を見回す。寝起きのぼんやりとした頭が、徐々にはっきりとしていった。
「けっこうな時間寝てたんだな……」
見上げた空は橙色。五月の柔らかな夕日が差し、萌える葉桜が色濃く照らされる。校舎の長い影が妙に幻想的だった。
高校に入学して一月、それなりに見慣れてきた光景である。
遠くから聞こえる部活動の喧噪と、ほんのり湿った土の感触から、どうやら睦人は校庭の隅で眠りこけていたようだった。
「ん?」
そして、あることに気がついて睦人は口を開く。
「これ……」
「でもさー宮古君、校庭で無防備に寝てちゃだめだよ」
しかし、ほぼ同時に桐生から発せられた言葉に遮られた。
睦人がピクッと反応し桐生を見ると、視線が合い桐生はにっこりと笑みを深め、スコップにわざとらしく体重をかける。
言葉を遮ったのは意図的なものだと睦人は悟り、溜息混じりに言葉を選んで返した。
「……一応訊くが、何でだ?」
「襲われちゃうでしょー、今の時代物騒なんだから」
僕とかにね、と弥は付け足した。実に楽しそうに。
そんな桐生に、睦人は若干のイラつきを滲ませながら応じる。
「つまり、この土はお前の仕業か」
「うん、宮古君が寒くないようにね。僕やさしー」
「どこがだっ!」
待ってましたと言わんばかりに弥は口元に弧を描き、上機嫌に説明する。睦人はそれを見てつい語気を荒げてしまった。
仰向けに寝ている睦人には、土がかぶせられていた。首から下がすっぽり埋まり、こんもりと小さな山になっている。厚く盛られた土は桜の根本から掘られたものらしくなかなかに重さがある。息苦しさの原因はこれであった。
「だって、宮古君。五月だよ?ちょうど装いが冬から春に変わるんだよ?」
「いや、だからって寒くはないだろ。というか制服は変わらないだろう」
はあ、と一つ溜息を吐くと睦人は桐生をじとっと睨んだ。桐生もその視線に気がつく。
「わかったから、出せ」
「えー……やだ」
「おい」
「だってさあ、僕としてはこう……自分で出てきてほしい?みたいな」
視線をわずかに逸らして歯切れ悪く桐生は言う。その声には、どこか試しているような響きがあり、睦人はそれを悪意と捉える。
そして、付き合いきれないとばかりに眉根を寄せた。
「お前、将来ろくでもないやつになるんじゃないか……」
「あはっ、宮古君心配してくれるの?ありがとー」
桐生はすぐに元の調子となり、睦人の言葉を流した。
「ごめんごめん、悪気はないんだって」
「悪気なく人を埋める奴がいるか」
「ないよー……ほとんど」
「……あるんだな」
睦人も応じながらも苛つきを隠さない。二人の間には明確な温度差があり、見えない壁で空気が遮られていた。
さてどうするか、と睦人が考えようとした時
「睦人、そこにいるの?」
校舎の影から、一人の女生徒が歩いてきた。通学鞄と竹刀袋を肩にかけた下校中であろう出で立ちで、睦人と桐生もそちらに目を向ける。
整ったやや吊り目の怜悧な表情と一つにまとめられた緑の黒髪。背筋の伸びたその容姿には凛とした存在感があり、そばにいるだけで相手に緊張感を持たせる。
ただ、装いにはところどころ土などの汚れが目立っており、それを見て睦人は一瞬思考が停止する。
「如奈……!」
「あれ?篠崎さんだ、やっほー」
「こんにちは」
桐生からの軽口にも律儀に挨拶を返し、件の幼馴染である篠崎如奈は不思議そうに二人を見遣る。
片や幼馴染が土風呂のように埋まり青ざめている。
片や出会って一月ほどのクラスメートがスコップ片手に笑顔で手をふってくる。
常人なら声をあげかねない状況だが、如奈はあまり動じることなく素直な疑問を口にした。
「えーと……お取込み中?」
桐生は、一応は嘘ではない答えををしれっと返した。
「んーっと、ちょっと宮古君の無防備さを注意してた」
「そうなの、邪魔してごめんなさい」
「全然大丈夫だよー」
「でも土を散らかすのはダメよ」
「はーい」
そして、特に疑問を持つことなく如奈は桐生の言葉を受け入れた。
「如奈、お前……!」
「どうしたの睦人?顔色が悪いけど大丈夫?」
青ざめる睦人に対し、如奈は心配そうに声をかける。ただ、気にしたのはその状態よりも顔色だった。
「俺は大丈夫だが、お前こそどうしたんだ!?そんな汚れて……」
先までとは打って変わり、今にも泣きださんとばかりに睦人は感情的になる。
問われた如奈は、一瞬間をおいて睦人の質問を理解した。
「……ああ、これ。ちょっと木から落ちて」
「落ちたって、怪我は!?」
「というか、篠崎さん何で登ったの?」
睦人は血相を変えて焦り、桐生は興味深そうに如奈に問うた。
「少し擦りむいたけど、大丈夫よ。それで……えっと」
「何で木に登ったの?」
「ああ、ありがとう。えーと、小鳥を拾ったの」
ところどころでつっかえながら、如奈は説明する。
「部活が終わって、小鳥を拾って、上を見たら木の上に巣、みたいなものがあって……それで落ちたのかなーって思って木に登ったの。えっと、それで小鳥を戻したら足がすべって……」
「で、落ちたと」
「ええ。やっぱり片腕を使えるかどうかで違うわね」
一通り話して、如奈はそうまとめた。
「如奈、その、お前の行動自体は否定しないが……でも危険なことは控えてくれないか。大けがでもしたらどうするんだ……」
興奮が落ち着いたらしい睦人は、感情の波が大きいのか今度は憂慮を言葉に漏らした。
「……そうね。よし、片腕でも登れるよう頑張るわ」
「いや、そうじゃなくて……」
「腕の力は部活にも活かせるものね」
「如奈、俺は自己防衛をしてほしいんであって、別に挑んでほしいわけじゃないんだ」
心配を隠さない睦人と、何故だか木登りを極めようとする如奈のやりとりが続く。
桐生もその会話を聴いていたが、第三者として一つの意見を述べた。
「なんていうかさ、宮古君が自己防衛についてとやかく言っても説得力ないよね」
二人の会話がピタリと止まり、睦人を、正確には睦人を埋めている土に視線がいく。
沈黙ののち、先に言葉を発したのは睦人だった。
「普通は、校庭で埋められるなんて、考えないと思うが……」
そう返すも、睦人はどこか罰が悪そうに語尾が小さくなっていった。
桐生の行動はさておいても校庭の隅でのんきに寝こけていたのはまぎれもない事実で、それが現状の遠因であることを否定できない。
「睦人、その土、新しい趣味じゃなかったの?」
「断じて違う。寧ろどちらかといえば迷惑してる」
意外そうに言う如奈に、睦人はきっぱりと否定を示した。
そして、やっと如奈も状況を把握したようだった。
「桐生君、睦人に迷惑かけちゃだめよ」
「いやあ、宮古君があまりにも無防備だから。その危険さを体で知ってもらおうかと思って」
「……なるほど」
しかし如奈は簡単に言いくるめられた。
「如奈、それで納得しないでくれ」
「そう?……でも、睦人は昔から無防備だし」
「えっ、篠崎さん。それ本当?」
思わぬ情報に桐生の目が一瞬煌めく。興味津々です、と言いたげであり、如奈の方へわずかに体を傾けた。
「ええ。あれは……小学校の時?」
「……頼む、やめてくれ」
情けない声で睦人はすかさずストップをかける。
幼馴染に無防備と断言されたうえ、その失態まで話されたら恥ずかしいどころの話ではなかった。増してや、桐生が相手では後に何かのネタにされかねないという思いもわずかにあった。
「……そう。ごめんなさい、桐生君」
「んー、残念」
遮られた如奈は、やや不満げではあるが、それ以上は話すのを止めた。桐生も言葉だけで特に気にした様子はなく睦人は心中で安堵する。
「でもさー、宮古君と篠崎さんって本当に付き合い長いんだね。いつからなの?」
すると、話が途切れたために、桐生が関連する別の話題を示した。
「えーと、確か……」
「……二歳の冬からだ」
今度は遮ることなく、睦人がそう答える。
ばらしていじられるような話でもないし、警戒しているとはいえ全て黙秘するほど睦人も狭量でもなかった。
「睦人、記憶力いいわね」
「というか、二歳頃の記憶って残ってるものなの?」
「まあ、ぼんやりと」
「すごいわね、睦人……私なんて今日の朝ご飯すら怪しいのに」
「僕はサラダー!宮古君は?」
「……煮物の残り」
「二人とも健康的ね」
一人埋まっていることを除けば、和やかに普通の雑談が続く。
そのうちに日が落ち、チャイムが鳴り放送が下校を促す時間にまでなっていた。
「下校時刻か」
「もうそんな時間なのね」
「……あ」
突然、桐生が何かに気が付いたように声をあげた。
「どうしたの桐生君?」
「スコップ返さないと」
これ、と弥はスコップを軽く持ち上げる。使い古されたそれは、持ち手にマジックのかすれた文字で『園芸部』と書かれていた。
「あれ……桐生君、園芸部だったの?」
「ううん、借りたんだよ」
わざわざ借りてきたのか、と睦人は内心驚き、同時に桐生の少々度が過ぎた悪戯に再度呆れを隠せなかった。
「へえ、借りられるものなの」
「クラスメートを埋めてきまーす、って言ったら快く」
「いい人たちね」
「だよねー」
「……絶対『快く』じゃないだろう」
けらけらと笑う桐生と、特に気にせずに応じる如奈に、睦人は流石に突っ込んだ。そんな明らかに危険な理由で『快く』貸したのなら、園芸部は停部どころか最悪廃部だ。
ふと、そこまでして埋められる理由は何かあったか、と睦人は疑問に感じるも考える時間はすぐに終わりを迎えた。
「じゃあ、僕スコップ返しに行くねー。また明日ー」
「ええ、また明日」
「いや、土をどけてほしいんだが……」
「宮古君もまたねー!」
睦人の訴えも空しく、言いたいことだけ言って桐生は園芸部へさっさと去って行ってしまった。
その背を見送ると、如奈が睦人に向き直った。
「じゃあ、私たちも帰りましょう?」
「……ああ」
睦人はいまいち腑に落ちない、と言いたげな表情をするが、如奈の次の行動でそれどころではなくなった。
「如奈!?お前何して……!?」
「何って、睦人を掘り出してるんだけど……?」
今だに体のほとんどが土中の睦人を如奈は掘り出そうとする。その考え自体は自然なもので、桐生がスコップを持って行ってしまったために手で土をどかしていた。
道具がないことも問題なのだが、睦人にとってはそれ以上の問題が発生していた。
「そんなことしなくていい!というか、その位置で屈まないでほしいんだが……」
「そう?でも……」
「いいから!」
よくわからない、という表情だが如奈は手を止めて躊躇いがちに立ち上がる。
睦人はほっとしつつ内心でぼやいた。
(如奈もたいがい無防備だよな……)
如奈は睦人の正面に屈んでいた。つまりは睦人の視界には屈んだ如奈の全身が映りこんでいた。
もっといえば、屈んだせいでスカートの中まで見えそうになっていた。
(いや、剣道をしているんだから終始そんなわけではないんだろうが……)
付き合いが長いとはいえ、寧ろ付き合いが長いからこそ、そういったことにはやや過剰に睦人は反応したのだった。
「睦人……?どうしたの?」
「ああ……まあ、色々とな」
如奈に注意をしようと思ったが、そもそもの原因は自身を覆う土の山である。よって、ひとまずはその土をどかすことが先だと睦人は判断した。
「んしょっ」
スコップで固められた土がボコッと重量を示すように動き、睦人の左右に新しい山を築く。一方で、睦人は布団から起き上がるかのように軽々と起き上がって見せた。
土をはらうと軽く伸びをし、如奈に向き合う。
「よし。如奈、ちょっと……」
「……」
一方如奈は、起き上がった睦人を凝視し、次に自身の体へと視線を滑らせた。注意と自己防衛を促そうとした睦人も、そのような如奈の様子に一旦口を閉じ話題を変える。
「如奈?どうかしたか?」
「おそろいね」
不思議に思う睦人に、如奈はそう返した。
「土だらけ、おそろいね」
「……おそろい?」
上機嫌に言う如奈は、ふふっと笑みをこぼす。
一瞬何のことかわからなかった睦人だが、自身と如奈の様子を見比べ何かを理解する。そして、思わず顔を綻ばせた。
「……そうだな、おそろいだ」
睦人の声は柔らかく、無意識に相好を崩す。
木から落ちて土埃で汚れていた如奈と今の今まで土中に埋まっていた睦人は、差はあるが二人とも全身が土で汚れている。
桐生に埋められたことへの疑問や如奈に注意をする使命感など最早頭から消え去り、目の前の幼馴染ののんきそのものな様子だけが睦人の脳内を占める。
眼下の大量の土とそれを掘り返した穴など目に入らず、酷い惨状とそれを直さなくてはいけない現実にはしばらく気がつかなかった。