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え? という驚きは声にはならなかった。ばら撒かれた義肢の部品と一緒に、朝顔はうつ伏せに床に倒れ込んだ。右腕の傷口からボビンに大量の糸を巻き付けたような形をした電流制御用のコイルが転がり、うつ伏せ状態の朝顔の前に銅線のラインを引いていく。強かに体を床に打ち付けてしまったが、今はそれどころではなかった。正直に言って、何が起きたのかわからなかった。いや、わかりたくなかった。
私は今しがた敵を殺したはずだ。これからは、自由な人生が待っている。そのはずだ。だから、いきなり手足が爆発して床に倒れ伏しているなんてことはないはずだ。ましてや、目の前の老人たちがそれをやったなんてことは、もっとないはずだ。そう信じたがっている頭が、朝顔の全身の筋肉をがちがちに硬直させる。
それでも朝顔は、首を動かして自分の手足がどうなったのか確認する。ほとんど思考停止状態の朝顔の目に飛び込んできたのは、肘と膝の部分から先が千切れ飛んだ義肢だった。
朝顔の口から乾いた笑いが漏れた。どうやら、爆破されたらしい。自分の手足を。目の前のジジイ共に。その単純な事実が朝顔の頭の中で理解されたとき、もはや他の反応をとることなんかできなかった。その現実に対して、どう反応すべきかわからなかった。
幸いにして生身の部分に怪我は無かったが、今はそんなことはどうでもよかった。現実とそれを信じようとしない自分との間で板挟み状態になってしまった朝顔は、ひどく硬く感じる首の筋肉をどうにかして動かし、ジョンとドムを仰ぎ見た。焦点の定まらない朝顔の視界の中で、二人は、ようやく邪魔なものを外せるとばかりに払下げ品みたいな装備を次々に棄てているところだった。
「なに、を?」
それが今の朝顔の全てだった。驚愕のあまり目が限界まで見開かれるのが知覚された。朝顔の頭が、実はこの二人はここまでたどり着くためだけに自分に取り入っていたのだということを想像し、それを否定しようとするかのように体が言うことを聞かなくなる。そんな体に鞭打って声を発した朝顔に向けられたのは、驚きと無関心が同居したなんとも言えない視線だった。
「へえ、まだ意識があるぞ!」
「ああ、当然だろう。この義肢は一定以上の痛みを感じないようにできているし、何より、ナズリがこの程度で気を失う訳がないだろう」
「ああ、それもそうか」
――ナズリ? 違う。私は、朝顔だ。
まるで実験用のラットでも見るかのような視線を向ける二人。普段であればそれに対して嫌悪の念を抱くはずだが、事態の展開についていけない頭では――目の前の事態と自らの予想を信じたくないと願う頭では、何の感情も起こらない。
装備の大半を棄てたジョンが、床に倒れ伏している朝顔から視線を外してナズリの体が納まっている円筒に向かって歩いてゆく。そのまま円筒の前に立ち、そっとそれに手を触れると、感動したような声を漏らす。
「ついに、ここまで来たか」
まるで孫にでも向けるような慈愛の視線をナズリに送るジョン。その視線の理由は、かつて老人たちが語ったものでは到底説明しきれないものがあるように思われた。
「そうだな」
相槌を打ちながら、ドムが朝顔に近づいてくる。こちらも、朝顔に、正確には朝顔の顔に、同じような視線を送ってくる。朝顔の前まで来たドムは、しゃがんで朝顔と視線を合わせると、言った。
「へえ、こうやって近くでおれの顔を見てみて、おれたちが誰なのか、少しは思い出せたか?」
何かを期待するような顔を朝顔に対して向けるドム。しかし当然のことながら、朝顔は何も思い出さない。朝顔にとってはこの二人は自分に協力してくれている警察官以外の何者でもないのだ。そのはずだ。朝顔は、肯定も否定もせずに、相手のことをまっすぐに見つめる。
「そうか」
ドムが少しだけ悲しげな顔をする。だがその表情は一瞬で引っ込み、代わりにいつもの楽観的な表情が現われる。
「そうだな。ことのついでに少しだけ教えてやると、おれたちは当然警察官なんかじゃない。おれが企業経営者、あいつが退役軍人だ」
こうすれば記憶喪失の孫の記憶が戻るとでもいうような感じで語り始めるドム。
「おい」
円筒の回りの装置を操作していたジョンが、ドムに向かって咎めるような視線を送る。
「いいから。ここで話したところで、何の害もないだろう。それに、話せば何か思い出すかもしれない」
だがドムはジョンに向かってとりなすような視線を送ると、話を続ける。
「もう一つ別の関係性を言えば、俺たちは二人ともナズリの祖父だ(、、、)」
祖父という単語を聞いた途端に、朝顔の頭を驚きが埋め尽くす。その単語は朝顔の予想が当たっていたことを示しており、朝顔を暗然とした気分にさせるのには十分だった。
「へえ、驚いているな。その祖父である俺たちが何故こんなことをやっているのか、不思議だろう? それはな、おれたちの孫を復活させるためだよ」
そこでドムは一旦言葉を切ると、朝顔に言い聞かせるみたいにゆっくりと先を続ける。
「ナズリが殺されたと知った時、おれたちは当然ショックを受けた。すぐにでもシュテルグ(あいつ)を殺してやりたかったが。それは不可能だった。昔から敵の多かったあいつは、殊保身に関しては絶大な注意を払っていたからな。
おれたちが手をこまねいているそんな時だった。お前の噂を耳に挟んだのは。そして真相を知った俺たちは狂喜した。何しろ、孫娘の脳と体がばらばらの状態といえ、まだ生きていたのだから。
それからだ。払い下げられた各種装備を手に入れて、警察官のふりをしながらお前に接触しようと始めたのは。ジジイが子供に接触するには、この格好が一番自然だったし、公然と銃を携帯できたからな。そして、おれたちは、シュテルグ以外の障害を知った。あの会長さんもお前の事を殺したがっているということを知った。そして、お前を利用してこいつを排除する計画を立てた」
ふいに朝顔の髪が引っ張られた。衝撃などという言葉では収まらないほどの衝撃を受けている朝顔は、痛みに顔をしかめることすら忘れてしまっている。その耳に、ジョンの声が降って来た。
「それでも、お前の心が折れたときは冷や冷やとしたがな」
「ま、なんにせよ、うまいこと焚きつけられてよかったよ。ナズリの部屋にお前を入れるのには抵抗があったがな」
「ああ。だがあの時点で心の支えとなる新たな目標を与えてやるには、あれが一番だった」
そう言うと、ジョンは朝顔の髪を掴んだまま体を引きずって行く。
「へえ、〝脳〟の方も良いが〝体〟の方も運ばねぇと」
「いい。ひとまずこちらが先だ。それに、向こうは神経系を組み替えるのに使ったというナノマシーンのコントロールコードも必要だ。こいつを運んだあとでゆっくりと探さなければならない」
「ああ、なるほど」
もはや乾いた笑いすら出てこない。自分がここまで虚仮にされていたかと思うと、どういう感情を抱けばいいのかすらわからなかった。とどのつまり、朝顔は利用されていたのだ。この老人たちに。操り人形のように舞台の上で踊り狂い、知らず知らずのうちに破滅への道を歩まされていたのだ。まったく、自分はなんて愚かなのだろうか。そう考えれば考えるほど、自分がとことん情けなくなる。
破滅への道を歩み切った私は、これから一体どうなるのだろうか? このままどことも知れない所に連れて行かれて、脳を抉り出されるのだろうか。
二人に引きずられながら、朝顔は考える。床をぼうっと見つめている朝顔の頬を、温かいものが伝う。涙だ。どうやら、自分は泣いているらしいと、半ば放心状態の朝顔が気付く。そしてどうやら、自分はたまらなく悔しいと思っているようだ、とすっかり飽和してしまったと思っていた心が囁いた。
だがその悔しさは、決して老人たちに裏切られたせいではなかった。悔しさの理由は、自らの情けなさだった。朝顔に対して自由に生きろと言ったり死ねと言ったりする身勝手な大人たち。その大人たちにいとも簡単に騙され、こうして床の上を引きずられている自分が、情けなくて悔しいのだ。
やっと見つけたと思った人生の目標や何かが、結局は自分の心が重圧に負けて逃げ出した結果であり、しかもその結果が老人たちの用意したものであることが、他人を漫画のモブキャラぐらいにしか思っていないような人間にいいようにされていたという事実が、朝顔の目から涙をあふれさせていた。
二人の名前も、今考えてみれば、並び替えると"Jhon Doe's Dream"(名無し男の夢)になる。何故この二人に出会ったときに気付かなかったのか。こんな簡単でふざけ切っているアナグラムにさえ気付けなかった自分が、ひどく悔しかった。
ああ、自分は何て愚かなのだろうか。我が侭を言ってシュテルグの所から逃げ出した癖に、筋を通すことすらできない。どこまでも、自分が情けなかった。
こんな事なら、このまま死んでしまおう。
そう決意した朝顔が軽く顔を上げたときだった。荒れ放題の部屋の真ん中で一人だけ変わらぬ姿でいるナズリのことが目に入った。途端に、感情の波が押し寄せて来た。
別に、自分はナズリになりたかったわけではないのだ。ただ、彼女のように自由に生きることに憧れていた。それが、いつの間にか勘違いをしてしまい、彼女に成り代わろうとした。本当に、自分はバカだと思った。
だが同時に、ナズリの姿を見た途端に、老人たちの言いなりになって死んでしまうことが耐え難いことのように思えてきて仕方がなかった。この老人たちだって、結局は自分の事を道具としてしか見ていないのだ。それに屈してこのまま全てを手放してしまうことが、急に嫌になったのだ。目の前の少女と同じように、自らも有意義な生をかみしめたいという思いが急速に膨れていく。またぞろ、私は一体何をやっているんだろう、といういつもの問いが、朝顔の中で鎌首をもたげる。
こんな所でこんな奴らの言いなりになって死にたくないという思いが、心の中で爆発した。
「ん? なにをやっている?」
朝顔の行動に最初に気づいたのはジョンだった。腕の振動でも伝わったのだろうか。ジョンの視線の先では、朝顔が必死に右腕を動かしていた。だがその様子は、傍から見ればまるで子供がクラッカーから飛び出した紙テープをいじるようにしか見えなかった。朝顔が右腕を振るうたびに、そこからこぼれたコイルが宙を舞う。ジョンは朝顔の精神がおかしくなったのか抵抗しようとしているのかすぐには判断がつきかねるというように眉をしかめたが、問題なしと判断したのか、朝顔から視線を外して再び歩き始める。
その間にも、朝顔は必死にコイルを動かしていた。引き寄せては、投げる。まるでロープを何かにひっかけようとするかのように。そがなければ届かなくなってしまうという焦燥が湧き上がってくるが、焦りは禁物だった。焦りは動作から精密さを奪うことになる。焦らず、正確に狙うのだ。もしここで狙いを外せば、それこそ自分は一巻の終わりなのだから。そう自分に言い聞かせながら、朝顔は必死に手を動かす。
やがて、かつん、という音がして、コイルが引っかかった。
床に転がっていたガトリングガンに。
《起動命令。ランキン・タービン、戦闘出力で始動。右腕の電力流路の閉鎖を解除。ありったけの電力を、流し込め》
《全命令を承認。電力、放出します》
朝顔は、衝撃に備えて歯を食いしばる。その目の前では、ガトリングガンに、ひいてはそこに繋がったままの弾帯に引っかかったコイルが、電熱で赤熱していた。
強力な電撃をお見舞いされた弾が、一斉に弾けた。きちんと銃に装填されている訳ではない弾は、部屋中を滅茶苦茶に飛び回る。朝顔だろうが壁だろうが区別すること無く着弾する弾丸。だがそれは、ジョンとドムも同じことだった。
弾丸の嵐の中、二人は背中に大穴を穿たれて、次々と倒れる。その顔には、事態がまるで飲み込めていないという表情が浮かんでいた。
へ、ざまあみろ。他人のことを軽んじるからそうなるんだよ!
大口径の弾を何発も食らった朝顔だが、幸いにして全て体内装甲で止まっていた。
「はは……」
口端から真っ黒い血液を垂れ流しながら朝顔は笑う。手足は吹っ飛んでしまい、あと三分もすれば流石に意識を保っていられなくなるだろう。だがそれでも、いまこの瞬間、自分が自由であるということがたまらなく嬉しかった。
さあ、何からやろうか。勘違いしていた分を取り戻すのだ。
朝顔の口からは、あとからあとから笑いが溢れて来た。
「やあ、パペット。ずいぶんと楽しそうだね。よかったら、理由を教えてくれないか?」
頭上から降って来た声を聞いた瞬間、朝顔の笑いが凍り付いた。