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暗い空間を漂っていた。自分と外界の区別があいまいな空間の中、少女は膝を抱えるような恰好の少女は、後悔の念を体のうち一杯にため込み、ゆらゆらと遊弋している。
本当にお笑い種だ。
そんな言葉が、少女の中に浮かんできた。自分では有意義な人生目指してひだすら努力してきたつもりだった。でも、私がやっていたことはただの世間知らずなガキの我が侭だったのだ。現状を受け入れたくないとだだをこね、ただいたずらに暴れて見せただけ。その証拠に、こうやってすっかり乗り越えてしまったと思っていた男すら、実は乗り越えられていなかった。シュテルグ(あいつ)が現れた瞬間に、全身の筋肉が凍り付いた。怖くて、動けなかったのだ。それは、ほとんど抵抗のしようがない所に敵が現れたという以上の、根源的な精神的恐怖だった。それはつまり、自らの精神がシュテルグにとらわれたままだ、ということを意味していた。
ああ、本当にお笑い種だ。むやみに暴れて見せることしかできないガキが、大人たちに踊らされていたのだ。マッシュやジョンとドムだけではない。シュテルグにすらも、踊らされていたのだ。その証拠に、あいつは言った。
「やあ、パペット。ずいぶんと楽しそうだね。よかったら、理由を教えてくれないか?」
その声が聞こえた瞬間、朝顔の笑顔が凍り付いた。ここにいるはずの人間の――シュテルグの声を聴いた瞬間に。
「あ……え……な?」
予想外、その言葉を軽く飛び越えてしまった目の前の事態に、朝顔は声を出すことすらできない。だがシュテルグがそんなことなど一切知らないというように、楽しそうに言葉を継ぐ。
「実は私も、楽しくて仕方がないのだよ。何故かって? それは、長年の間邪魔だと思っていた二つの勢力が一掃されたからだよ。それも、我が愛しい愛しい娘の手によってね。
ああ全く。私から離れていったときはいったいどうしたものかと思ったが、なんのことはない。きちんと私の役に立とうとしてくれていたんじゃないか。あのアパートで君を見たときに確信したよ。君はあの老人たちに取り込まれかけていたが、それは敵中深く潜り込むことで奴らの心を欺こうとしていたのだろう? ああ、本当に、感謝するよ。君のおかげで、奴らを一掃する算段をつけることができたのだからね」
まるで歌でも歌うかのように言うシュテルグ。その動きをピタリと止め、朝顔に向かって手を差し出したかと思うと、言った。
「さあおいで。こんなに汚れてしまって。すぐに綺麗にしなくては」
シュテルグは、朝顔の服をつかむと、手術室へと歩き始めた。
そして少女は、今こうして電子の暗闇にとらわれている。もちろん、自分の人生をあきらめたくないという強い思いはあるのだが、今の朝顔にはここでこうしているのがお似合いのような気がして仕方がなかった。全てにおいて中途半端で情けない自分は、こうやって誰かに人生をコントロールされているのが相応しい。なまじ自由を手に入れたところで、自分にはそれを使いこなすだけの才覚などあろうはずもないのだから。そう心に思い、少女が意識を閉じてしまおうとした時だった。この空間から意識が引き上げられるときに感じるような、人の気配のようなものが少女に知覚された。しかも何故か、普段であれば遠くから少女のことをうかがうだけのその気配が、積極的に少女に接触を図っているような気がするのだ。いや、そんなことは関係ない。自分はもう、全てを諦めたのだから。
「おい……」
だから、自分の声が外部から少女に語り掛けてきたところで、一切関係なかった。どうせすぐに、またあの人生に逆戻りするのだから。
「おいこら!」
ぶっ叩かれた。どこをという訳でもなく、ただそんな認識が沸いた。そこで気付いた。目の前の存在に。膝を抱えてうずくまる自分の前に立った、もう一人の自分(、、)の姿に。一瞬、狂いかけた脳が幻覚でも見せているのかと思い、少女は眉間に皺を寄せてじーっと目の前の自分のことを見つめてしまう。
「何見てんだよ?」
どうやら、幻覚ではなさそうだ。いくら何でも、少女とは性格が離れすぎている。仮に〝もう一人の自分〟を幻視しているのならこんな性格にはならないだろうし、こんな性格の人間に憧れているというような自覚もない。
「だから、何じっと見てるんだよ?」
まただ。ただ今度はどこかを叩かれたのではなく、おでこにデコピンをされたという性格な認識が来た。そこに手をやりつつ、少女はぼんやり考える。この目の前の存在は何者なのかと。これはどうやら自分が見ている幻覚ではなさそうだ。だとしたら、何者なのだろうか。ここは、現実ではなく仮想空間だ。こんなところに入り込める人間なんか、いないはずだ。
だとしたら、これは誰だ!
そこで意識が急激に覚醒した。今までの精神的打撃によってうすぼんやりしていた状態から、一気に戦闘状態にまではっきりとする。
「まあまあ。そう身構えるなよ」
心の目覚めに伴って体も戦闘態勢に入る少女。だがその少女をなだめるように、いつの間にやら背後に回り込んだ自分に肩を叩かれた。
「お前は、誰だ?」
手を振り払いながら問う少女。
「あたしか? あたしは、お前だよ」
少女の真剣な様子とは裏腹に、相手は朗らかに答えた。
暗い空間に向かい合って座り込み、話は続く。
「つまり、あなたは、ナズリさんってこと?」
「だから、さっきからそういってるだろ? 何度も言わせるなよ」
信じられないことに、この目の前の少女の話を総合するのなら、彼女は死んだはずのナズリだということだ。なぜ彼女がここに、という少女の疑問には、体内記憶なる聞きなれない単語が返ってきた。
曰く、この単語事態は彼女が勝手に作ったものらしいが、このような概念はSFの世界や医学界ではかなり有名なものらしい。彼女が言うには、人の記憶というものは脳が保存しているものだけではないらしい。人の体も、その神経系に独自に記憶を蓄積していくのだという。だがそれは、脳の記憶ほどは強いものではない。普段は脳の記憶の影に隠れてしまっていて、決して意識されることはない。だが彼女の場合は、脳が失われてしまったがために、体の方の記憶が目覚めたのだという。
「でも、記憶が目覚めたからって、なんで人格まで?」
「何度も説明してやっとその程度かよ。いいか、人格ってのは、要は〝外界からの刺激に対する記憶をもとにした反応〟なわけだ。だから、乱暴な言い方をすれば、脳みそなんかなくても、記憶さえあれば人格は宿りうるんだよ」
いい加減に理解してくれという感じのナズリ。わかったようなわからないような気がする少女は、これ以上質問を重ねることもできずに、話を先に進める。
「それなら、いったいいつからあなたはここでこうやって過ごしているんですか?」
ついつい敬語になってしまう少女の前で、ナズリは意外そうな顔をして答える。
「お前と分離された直後からだよ。というか、何度もそっちから近づいてきてたから、てっきり気付いているのかと思ってたぞ?」
その言葉に対して、少女はふるふると首を振る。あの幻肢痛だと思い込んでいたものがナズリだとわかり、むしろそういう反応をしたいのは少女の方だった。
「お前の記憶をあたしにも読めるようにしてたあたり、気付いてると思ってたんだけどなぁ」
記憶を読めるように、というナズリの最後の言葉が少女に引っかかった。つまり、目の前の大先輩は、全てを見ていたということなのだろうか。だとしたら……
そこから先は言葉にはならなかった。様々な思いが一気に押し寄せ、どれから言語化すればいいのかわからなかったのだ。もっと早くに気付いていればもっと違った展開になっていたのだろうかとか、今までの記憶を見られていたなんて情けない気持ちになる、とかそういった思いが。
「ま、いいや。それで、この後はどうするんだ?」
「あと?」
後とは、どういう意味だろうか?
「は? いやだから、後はあとだよ。この街のボスをぶっ殺して、あたしのじじいどもを墓石の下に送り込んだんだろ? お前の人生のために。そんでもって今ここでつかまってるけど、この後はどうやってここから逃れるつもりなんだよ」
その言葉を聞いた途端に、胸が痛くなった。結局自分は、これだけの儀税を出しながら、我が侭を言って暴れていたガキに過ぎない。そのことが、ひどく少女の精神を打ちのめしたし、それをナズリに知られるのがたまらなく嫌だった。
「別に、どうもしない。私は、また元の人生に戻る」
「はあ! 冗談だろう!」
ナズリが大声を上げた。その声は、驚きと怒りがないまぜになったものだった。
「お前、これまでにどんだけ犠牲を出したと思ってるんだよ? それに、またあいつのところに戻るとか、絶対にろくなことにならないからやめとけって」
「でも、私は……」
「だから、なんでだよ? あれだけの人を殺しておいて、それはないだろう?」
「だからこそ! 私は戻るんです!」
堂々巡りを続ける議論に、つい声を荒げてしまう。しまったと思ったがもう遅い。そもそも、目の前の心材は自分の記憶を読んでいるのだ。今更、隠し立てすることもないだろう。そう言い訳すると、少女は口を開いた。
「私のやっていたことは、ただの子供の我が侭だった。それに巻き込んで、多くの人を殺した。だからこそ、もうこれ以上他人を巻き込まないために、私は何もやらない」
「おいおい、冗談だろう?」
「冗談じゃない。私は、そう決めたんだ」
「決めたんだ、じゃないよ。ここまでやってそれはないだろう。だいたい、前まであんなに悩んでたのにいざとなったらこれとか、どんだけだよ。腑抜けにもほどが……」
記憶を読んでいる。そのはずなのに少女の気持ちなんか一切考えないナズリの身勝手な発言に、少女はつい怒りをあらわにしてしまっていた。
「お前に私の何がわかるんだ!」
ナズリにつかみかかる少女。
「一人で勘違いして踊り狂って、それを他の人に利用されて。しかも得られたものは何にもない。こんなの、ただのガキの我が侭だ! これじゃあ、何にもならない! ただただ駄々をこねてごねているだけだ! これなら、元の人生を送ったほうが、ずっとましだ!」
「ふざっっけるな!」
ナズリに襟をつかまれた。
「だからどうしたよ! それがお前がここにいる理由か? 自分が一度失敗したからって、全てを諦めるのか? それこそガキだ! いいか、全てを最初から正しくこなせる奴なんかこの世のどこにもいないんだよ! 他人に影響与えずに生きてる奴らも! みんなお前と同じような失敗して、苦しみながら、他人に迷惑かけながら生きてるんだよ! それが、一回失敗したから、ガキの我が侭だからってあきらめる? 冗談じゃない! これはお前の人生なんだぞ! 人生を諦める理由をさがしてんじゃねぇ!」
お前の人生。その言葉がどこか胸の奥深くに突き刺さったような気がした。確かに、そう。最初からうまくいく奴なんかいるわけがない。人生においては、なおさらそうだろう。それなのに、私は逃げるのか? 人生から。辛いからと言って、全てを投げ出す?
その疑問に対して、心が叫んだ。
それは、嫌だ!
ああそうだ。これは、私の人生だ。どんなに失敗したって、決して投げ出してはいけないものだ。かつての自分はそれに気づかずに人生の全てをブン投げていたからこそ、私は一体何をしているんだろうという問い(あんな問いかけ)がまとわりついていたのだろう。だがそうやって人生から逃げ回ることにも限界を迎えた。だからこそ私は有意義な人生なるものを探し始めたのだろう。
これは私の人生だ。だからこそ、私は、戦わなければならない!