第六章 かげろうの中に (5)
奈緒との生活に安らぎと安定を見出してジュンは、奈緒と春奈が出かけるのを見てから、近くにあるゴルフ練習場に向かう。信号待ちをしている時、瞳の乗ったメルツェデスが、ジュンが行く予定のゴルフ場の入って行くのを見た。
(5)
バスが、HNK技研前に着くとジュンは、バスを降りた。ゴルフ練習場まで、三分も歩けば着く。ゴルフバッグを右肩に担ぎ、速足で歩きながら周りの景色を見ると、同じ世田谷でもこの大蔵方面は大分景色が違う。
元々砧公園周辺の地域は閑静な街で、ちょっと駅から離れた孤島という感じだったが、最近の砧公園内の開発でずいぶん景色が変わった。
自分が幼い時は、公園の中は何もなかったのに。と思いながら練習場の近くの信号まで来た。いつもの習慣で上を見上げるとネットが上がっている。
たまに場内整備の都合で降りている時があり、その時は練習が出来ない為、習慣的に見るようになっていた。ネットが上がっていると確認すると、青になった信号を渡ろうとした。
その時だった。環八方向から左折する車の運転席に忘れられない顔が有った。
瞳・・。彼女はゴルフなどしない。なぜと思いながら彼女の乗った車を見るとゴルフ練習場に入って行く。
なんだろうと思いながら自分も、ゴルフ練習場のゲートを通り、少し奥にある自動ドアから中に入った。左に折れてカウンタに行くと、一階席のロングレンジの打席を希望したが、一杯の為、番号のついた券をもらって、振り返った時だった。
瞳・・。自分を一点に見る視線が、そこに有った。その視線の持ち主が、まっすぐに歩いてくると
「ジュン、久しぶりね」
優しい顔をして微笑みながら言った。
ジュンも礼儀的に
「久しぶり」
とだけ言うと
「相変わらずね。他に何か言う事ないの。驚いたよとか、いつもながら綺麗だねとか」
何を言いたいのか理解に苦しみながら
「驚いたよ。さっき入口で車に乗った君を見た時は。いつもながら綺麗だね」
判を押した返答に
「まったく。・・ねえ、少し時間ない」
「今、待ち時間だから、時間あるけど。なぜここが」
「気にしないで」
そう言うと出口のほうに歩いて行った。ゴルフバッグを持ちながら、その後ろ姿に着いて行くと、白い色の大型車の近くまで来た。
メルツェデスV12、ジュンは、その車を認めた時、
瞳は手に持つマスタキーを押すと、ウインカが点滅して、ロックが解除された。
「ジュン、乗って」
「えっ、でも僕はゴルフの練習に」
「いいじゃない。乗って」
有無を言わせない言い様に、仕方なくゴルフバッグを後部座席に入れて助手席に乗ると
「奥様とお子様のご機嫌はいかが」
何を聞くのかと思いながら
「いいよ。もちろん」
「そう」
と言うと車を発進させた。
「ちょっと」
とジュンは言ったが、それを無視してゴルフ練習場を出てしまった。そのまま二子玉方向に向かっている。
「どこに行くの」
「私の行きたいところ」
昔ながら言い様に仕方ないと思い始めると、そのまま車を走らせた。二子玉に行くと思っていたら、東名高速に掛かる橋を渡ると、左に折れて環八に入り、そのまま渋谷方向に向かった。
えっと思ったが、瞳の顔が真剣だった。運転中は、無言のままに時間が過ぎた。やがて、渋谷の高層ホテルの地下駐車場に入れると
「ジュン、大事な話がある。付いて来て」
えーっと思いながら、ゴルフバッグは車の中に入れたまま、瞳の後を着いて行った。なぜ、僕はこの子の後を付いて行くんだ。断って早く家に帰らないと奈緒が心配する。そう思いながらも体が、思いとは別の動きをしていた。
ジュンは、籍を入れてから一か月後、用賀と経堂の間の桜に住まいを構えた。両方の家から五分も掛からない。ジュンは、赤ちゃんが生まれた後、三週間ほど経堂の実家に奈緒と赤ちゃんを預けた。
勿論、ジュンは会社が終わると毎日経堂の家に行く日が続いた。そして、やっと経堂の家から二人の住まいに戻った。そんな中の出来事だった。
「瞳、何か」
その声に何も言わないままに歩く、彼女に付いて行くとそのまま、エレベータに乗った。
「瞳、何かあるの」
「大事な話がある」
じっと自分を見る彼女に、気を押されながら付いて行くと、エレベータが止まった。
「こっち」
エレベータを出ると客室のフロアだった。
そのまま歩き、客室にカードキーを入れると彼を見て
「入って」
と言ってドアを開けた。
ジュンが入るまでドアの側にいる。流れで仕方なく入ると、じっと彼女を見つめた。どういうつもりだ。ドアが閉まり、まだ部屋の奥まで行かないジュンに
「ジュン。覚えている。私が、初めてあなたに体を許した時の事」
一呼吸置くと
「信じていいよね。と言ったわよね。あなたが初めてだった。心を許せたのは」
少し時間を置くと強く鋭い眼差しで
「なぜ、あの人なの。なぜ私ではないの。赤ちゃんが出来たから。仕方ないから。私に赤ちゃんが出来ていたら結婚してくれた。同じように」
なぜ、私でなく、あの人を選んだのか。あれ程、信じていいと言ったのに。その言葉を言われているようだった。
何も言えなかった。瞳の言っていることは、正しいような気がした。もし、奈緒が妊娠しなかったら、僕は奈緒を結婚しただろうかそんな思いが浮かんだ。
「ジュン、何か言って」
何も言えないままに視線を彼女の目に向けると
「ジュン、お父様が、私とあなたの事を。あなたと私が、初めてシンガポールに行った時から知っていた。あなたにとっては驚くかもしれないけど。お父様は、セキュリティを通して、あなたなら竹宮家を継げるかもしれないと思ったの。だから、私があなたに体を許した時も何も言わなかった」
言葉を切るように呼吸を置くと
「お父様は、あなたなら、良いとおっしゃっている。例え、外に子供が居ようと」
やっと瞳が何を言う為にここに連れて来たのか理解し始めた。だが言っている事は、とんでもない事だった。
「ジュン、私はあなた以外の人に嫁ぐ気はないの」
そう言いながらゆっくりと近付いて来た。
「瞳、君は自分が何を言っているのか、分かっているのか」
「分かっています。これを言う為にあなたを誘ったのです。あなたが、あの人と結婚した後、私はあなたを忘れようとした。でもダメだった。他の男など見る気も無かった。仕事であなたと会わなくなってから、仕事も詰まらない物になってしまった。だから・・」
「だから・・」
じっと強く瞳の顔を見つめながら言うと
「あなたをあの女性から取り戻すために、私は、今あなたとここにいる」
ゆっくりとジュンの側に近付くと彼の背中に手を回し、顔を近づけた。
ジュンは、動けなかった。まるで瞳の視線で、金縛りに有ったように体が動かない。そのまま口付けをされると、瞳の左手が自分の手のひらを掴み、自分の右胸に持ってきた。
「ジュン、あなたと一緒に居たい」
ジュンが家に、ゴルフ場からではなく、都内のホテルから戻ったのは、三時を過ぎていた。
「ただいま」
「どうしたの、ジュン。帰った時、いなかったから心配したのよ」
「ごめん、つい調子に乗って思いきり練習したら、たっぷり汗かいたので、二階のサウナに入って来た」
「えーっ、なんで。家のシャワー使えばいいのに」
「だって、汗臭いと奈緒と春奈に嫌がられるなと思って」
その言葉にほんの少しの疑問を感じながら
「確かに春奈は嫌がるかも。でも私は大丈夫よ。あなた」
ふふっと笑った顔が、分かっているのよ。という風に見えた。一瞬冷や汗をかくと
「とにかく着替える」
そう言って、洋服ダンスから、新しいアンダーウエアとシャツを出すと、さっと着替えた。
「そう言えば、実家はどうだった」
「どうだったって」
「うん、ご両親の反応」
「いつもながらよ。家に着いたとたんに、春奈を二人で抱きっぱなし。抱き癖つくって言ったんだけど、全く聞く耳無しよ」
「まあ、仕方ないさ。ご両親が喜んでよかったじゃないか」
奈緒は、子供をベビーベッドに寝かすとそのまま、自分も洗面所に行った。
えっ、明らかにオーデコロンの匂い。この匂いは。記憶のある匂いだった。あの時。そう思うと急に不安が心をよぎった。
ジュン、もう別れたはず。彼の着ていたシャツを手に取り、鼻に近づけると間違いがなかった。どうして・・。そう思うと不安の風が心の中を流れた。風の回廊が出来た様に。
奈緒は、シャツに付いたオーデコロンの匂いを聞くことが出来なかった。聞いた後のジュンの気持ちや行動に変化が出るのが怖かった。
このまま、私が気づかない振りをしていれば、何も起こらない。今の穏やかな生活を続けることが出来る。もう春奈もいる。ジュンは私の側に居てくれる。そう思うと事を荒立てなくなかった。
「奈緒、行って来るね」
微笑みながら言う彼に
「ジュン、行ってらっしゃい」
春奈を抱きながら片手で手を振ると、彼がエレベータに乗るまで後姿を見ていた。エレベータに乗る直前、こちらを見て軽く微笑んで手を振った。
ふふっと思うと昨日の事は忘れよう。ジュンは、私の旦那様。春奈のお父さん。そう思うと
「ねっ、春奈」
と腕に抱いた赤子にささやいた。春奈は、何も言わずじっと見ている。ただ嬉しそうな顔をしていた。
ジュンは、会社に出るとPCの電源をオンにして、レストルームに行った。手を洗い、うがいをするのが習慣になっている。
レストルームで鏡を見ながらさて、今日も頑張るか。今日は訪問二件あったな。と思うとレストルームを出た。
デスクに戻ると、やっと口を聞いてくれるようになった隣に座る仲間が、
「よう、おはよう。爽やかな顔しているな」
「そうですか。先輩の方が、爽やかな雰囲気ですよ」
「そっ、そうか。分かるか」
と言うと急に小声で
「いやあ、昨日久々に合体したからな」
一瞬吹き出しそうになりながら
「先輩、朝から全開ですね」
「今日位はな」
そう言って笑う隣に座る同僚が、自分のデスクにあるPCに目を戻した。
何だ、それ言いたかったのか。と思うと自分もPCのスクリーンを見た。ブラウザを立ち上げて、メールソフトを立ち上げると、客先や、社内の各部署からメールが入っていた。
あれからもう半年が過ぎ、この仕事にも慣れたが、ジュンの目が、途中のラインに留まった。
人事通達と書いてある。何か嫌な予感がしたが、無視する訳にもいかず、そのメールをクリックすると
人事通達。 山之内淳。貴殿を本日付で、システム部課長に任命する。
「えーっ」
流石に声が出た。
どういうことだ。まったく理由が分からないままに困惑していると、いきなり後ろから声が掛かった。
「知らせる前に人事通達を見たか」
営業三課長が後ろに立っていた。
「俺も驚いた。何の事前連絡も無しに朝一番で俺のところにも届いた」
一呼吸置くと
「山之内、何か心当たりあるか」
「全くありません。やっとこちらの仕事になれたと思ったのですが」
「ああ、お前の出来の良さは俺も認める。実際、我三課の売り上げも、お前が来てから月々の数字が右肩上がりだ。営業部長が三課に今年は弾まないといけないなと言っていた」
残念そうに言う課長に
「課長こそ、何か聞いていませんか」
「ああ、後藤に聞いた。あいつは、はじかれるからな」
「えーっ、後藤課長が」
「当たり前だろう。お前がシステム部の課長になれば、あいつは、動くしかないだろう。ちなみに柏木部長もセットだ」
「何ですって」
「言った通りだ。それより人事に行って来い。正式に辞令が通達されるはずだ」
ジュンは、理解出来ないままに人事に行くと
「山之内さん、本日中にシステム部へ移動してください」
「部長は、どなたに」
「まだ、決まっていません。これが辞令です」
そう言って、事例を渡す人事課の女性が、何故か少しだけ微笑んだ。
人事に来たついでにシステム部に行くことにした。営業三課は二階だが、システム部は人事があるフロアと同じ五階だ。
システム部に行くと、既に部長席と課長席は綺麗になっていた。どういうことだと思うと、自分の姿を見た、元同僚が、
「山之内、いや、山之内課長か。どっちでもいいか。とにかくお前が戻ってくれると助かる。実言うとシンガポールの件な、お前が出てから二か月後にトラブったのだが、あの二人では、全く対応出来ずだ。挙句シンガポールから、ジュンがなぜ来れないと上にクレームが付く始末だ。ところが、俺は良く分からないが、お前が営業三課に行った後、簡単に戻すのはどうかという話が立って、結局人事が考えたのが、課長なら良いだろうという話だ」
「どこでそれを」
「山之内、お互い何年この会社にいるんだ。言わなくても分かるだろう。でもお前のおかげで、俺も課長補佐になった。宜しく頼む。荷物動かすのが大変なら、若いのを使えばいい」
そう言って、今年は入ったばかりの連中を見た。
同僚の言葉に何となく、システム部へ戻る事の事情を理解したジュンだが、今一つ理解出来なかった。シンガポールの件が本当にトラブったら、メールIDが変わっていないから僕のところに直接連絡が入ったはずだ。どういうことだ
今回の移動が腑に落ちないままに、三課のデスクを片づけてシステム部に行った。課長席は、一五名居るシステム部全体が見渡せる場所にある。
取りあえず、荷物を適当に置くと、急いでPCを立ち上げた。色々入っているはずだ。そう思って、すぐにメールソフトも立ち上げるとシステム部課長としての権限がある故のメールが凄いスピードでカウントされた。
それが、一通り表示されると、最優先メール扱いで、発信者が竹宮瞳と書かれたメールラインが有った。
無視をしたい気持ちもあったが、日曜の事を思い出すと無視する訳にもいかず、クリックすると
<ジュン、会いたい。今日ランチいつものところで>
それだけが書いてあった。
こんなこと書いたらIPOの連中が。と思いながら断る気にもなれず
<いいよ>
とだけ書いて、送信ボタンを押した。
もう一年以上前になる。まだあのお店あるのかな。と思いながら、新橋方面に足を進めた。景色は何も変わらないのに、この道を歩くのが懐かしく思える。気の性と分かっていながらつい周りを見ながら歩いていると
「何をキョロキョロ見ながら歩いているの」
いきなり後ろから声を掛けられた。
「瞳」
「ふふっ、ジュン。久しぶりね。こうして歩くの」
微笑みながら声を掛ける瞳に、つい微笑むと
「ああ、そうだね」
と返した。
瞳は、何も言わずただ微笑みながら一緒に歩いた。やがて前に一緒にランチを取ったお店に来ると
「ジュン、話がある。別のところで食べよ」
「えっ。でも昼食時間が」
「問題ない」
と言って通りを流すタクシーを止めると
「ジュン、乗ろう。美味しいランチ食べよ」
そう言って微笑みながらジュンの体をタクシーに押した。
「運転手さん、新橋二丁目まで。近くてごめんなさい」
「いえ」
綺麗な女性に声を掛けられた運転手は、まんざらでもない顔して言うとタクシーをスタートさせた。
ジュンは、してはいけない瞳との再会に戸惑いを覚えます。そしてそれを知ってしまった奈緒も。
次回、ジュンと瞳の関係が再び甦ります。お楽しみに。




