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恋はかげろうの中に  作者: ルイ シノダ
23/26

第六章 かげろうの中に (4)

暴漢に襲われて池尻大橋の病院に運び込まれたジュン。

会社に一週間も出社しないジュンに気を揉む瞳。母の反対を押し切り強引に病院へジュンの見舞いに行った瞳が知った事は。


(4)


 意識の向こうに何かが聞こえる。暗い中を彷徨様に意識が戻って来た。深い海の底から浮き上がるように水面が揺らいでいる。体が重い。鉛をお腹に巻かれている様な感じだ。やがて体がゆっくりと自然に浮き上がるように戻ってくると、いきなり水面から飛び出た。その時、右脇腹に激しい痛みを感じた。

「うぐっ」

右手を動かすと体が何かに抑えられていた。ゆっくりと目を覚ますと

「ジュン、目が覚めたのね」

自分の目の前に大切な女性のその可愛く美しい顔が、やつれた様に心配そうにして見ていた。

「奈緒、ここは」

「池尻大橋にある東邦大学病院」

「えっ」

そうか。あの時記憶が甦ると

「僕は、あの時、誰かに刺されて・・」

「警察の人から聴いた。ちょうどハチ公前交番の側の改札だったから、すぐに警察官が来て救急車を呼んでくれたの。もう少し遅ければ、出血多量で危ないところだったのよ」

それを言いながら段々目元に涙が溜まって来た。そして細い声で

「心配したんだから。ずーっと側にいたんだから」

その言葉に泣き顔になる奈緒の顔を見ながら

「ずーっとって。今日は」

半分涙声で

「火曜日の夜中に運び込まれて、昨日と今日、ずっと目が覚めなかったのよ。今日は木曜日」

「えーっ」

「会社には、ジュンのお父様から連絡をしてある」

「えっ」

会社という言葉に、瞳を思い出すとまずいな。なんて伝わっているのか。でも伝わっていないかそう考えて

「そうか。ありがとう」

目を覚ましたことが連絡されたのか、担当医が来ると

「山之内さん。目が覚めましたか。良かった。奥様が、ずっとそばに居てくれたのですよ。患部を見ます。そのまま動かないでください」

そう言うと看護婦が、自分の右手に指を当て、心拍数を図りながら、担当医が、右脇腹に大きく貼られたガーゼを取った。

奈緒は、大学時代から同じ光景は見ていながら、やはり自分の大切な人のその姿を見るのは嫌だった。だが、自制心を持ってしっかりと見ると五センチほどの傷口が有った。

奈緒は、一瞬驚いたが、処置が良かったのか、患部が綺麗な事に、ほっとすると医者が、何か薬を塗ってまた、新しい大きなガーゼを当てた。後は、看護婦がテープを張っている。

ジュンが、

「先生。いつ退院できますか」

「退院は、リハビリも含めて二週間もすれば出来るが、その後は通院してもらうことになる。最初が肝心です」

真面目な顔で言う担当医に

「二週間ですか」

「そうです。七センチ入っていました。運よく肝臓は外れましたが、大腸が大分損傷しています。刺された時に刃物が回ったのでしょう。いずれにしろ、大腸の傷が塞がり、通常の食事になるまで時間がかかります」

「そんな」

頭の中が何も考えられなかった。ただ、二週間なにも出来ないという現実が有った。その中で頭に大切な人の事が甦ると

「奈緒、赤ちゃんは」

その言葉に担当医と看護婦が一瞬驚くと

「ふふっ、大丈夫。ちょっと驚いたけど、元気みたい」

と言って、自分の両手をお腹に当てた。

「そうか」

そう言って天井を見上げると

「まあっ。こんなに可愛く美しい奥様を安心させるには、しっかりと養生しないといけないですね。山之内さん」

テープを貼りおわった看護婦が言うと、担当医と看護婦が側を離れた。その姿が病室から消えると

「奈緒、僕を刺した犯人は」

その言葉に顔を背けると

「捕まったわ。すぐに」

その後の言葉を続けないベッドの横に座る奈緒に

「そうか」

と言うと奈緒は、ジュンの目をじっと見つめて

「教えて。ジュンが刺された日、会っていた女性は誰」

時間を置くと

「警察の人から聞いた。新橋から後を付けて来たって」

悲しそうな顔をして聞く声に顔を天井に向けながら

「奈緒、ごめん。あの日、はっきり言おうとして会った。相手の人は竹宮瞳。僕の会社の人」

ベッドに横になる、既に自分の夫となった男の口から出た言葉に、体に鳥肌が立つ感覚を覚えた。そして頭の中で何かが切れると

「ジュン。私が会ってくる。はっきりと言う。ジュンは私の夫ですと」

「えっ」

いきなりの言葉に驚くと

「それは、だめだ」

「なぜですか。あなたは私の夫です。このお腹の子の父です。あなたが動けない以上、私がはっきりさせます」

天井を見ていた視線をベッドの横に座る妻となった女性に向けると、今まで見たことのない強い眼差しが有った。

「奈緒・・」

あまりに強い意志を持つその視線に驚きながら

「待ってくれ。それだけは、僕がはっきりさせる。奈緒にそれをさせるわけにはいかない」

君にそんなことはさせたくないという意図を、はっきりと目に表しながら言うと

「分かったわ。ジュン」


本当は、とても怖い感じがしていた。言ったものの、相手も知らずに言葉だけが走ってしまっていた奈緒は、ジュンの言葉に安堵しながら、優しい目に戻してジュンの手を握るとその手を自分のお腹に持ってきた。

「ジュン、この子の為にも早くはっきりさせてね」

手のひらから感じる暖かさ、柔らかさに感じながら頷いた。


ジュンが会社に出てこないあの時から三日が過ぎた。次の日出社しないのは、何かあったのか程度にしか考えていなかった。だが、スマホに連絡しても出ない。まだ、彼の家に直接電話する気にも慣れない瞳は、ただ時間を流していた。

一週間も会社に出ないなんて・・。明らかに彼の身に何かあったと思うと人事に連絡を入れた。

「なぜ、竹宮さんが山之内さんの事を」

その言葉に

「教えて頂けませんか」

「お休みの連絡は頂いています。二週間ほど休むと、身内の方から連絡を頂きました。これ以上は、教えできません」

人事の事務的な対応に、一瞬だけ自分の立場を出そうとしたが、それは自分自身のこれからの事に関わると思うと

「分かりました」

と言ってあきらめた。


ジュン、どうしたの・・。娘の迷いの姿に

「瞳さん、どうしたのですか」

母親の言葉に下を向いていると

「山之内淳さんの事ですね」

なぜと思いながら母親と視線を合わすと

「何度も言ったはずです」

その言葉に含まれる意味に、深い不安を感じると

「お母様。ジュン・・、山之内さんは」

娘のあまりにも心をすり減らすかのような姿に

「山之内さんは、池尻大橋の東邦大学病院に入院しています。ですが、行ってはいけません」

「どういうことですか」

娘に近付きながら優しく両腕で肩に触ると

「あの人はあきらめなさい。もう時の流れが、あなたからあの人を遠ざけました」

母親の言葉に理解出来ないままに視線を合わせると

「瞳さん。忘れなさい。彼は関連会社に移動させます。あなたの心の中から忘れさせる為に」

何ということを。娘の目がありえない程に大きく見開くと

「お母様。もし今言った事をしたなら、私は竹宮の家を出ます」

娘の言葉に一瞬呆然とした母親は、そのまま娘の目を見ると

「ジュン・・いえ、彼がたとえどのような状況になっていても、私は彼と会います。そしてはっきりと彼の口から心を聞きます。その結果が、私の今までの思いに反するものだとしても、彼を今の会社から移動させることは許しません」

一瞬の間を置いて、娘の口から出た言葉につい微笑むと

「あなたも血を引いているのですね。お母様の」

母親は、自分を生んでくれた、優しくそして真のある母の笑顔が、娘の顔とスライドした。


既に、彼が出社しなくなってから、一週間が過ぎようとしていた。人事の対応と母親の言葉に悩みながら、悶々とする心の中で、はっきりしなければいけない。あの女性の事がどうだろう。とそう思うと、彼と会った火曜日から一週間後の月曜日、心を決して病院に行くことにした。

会社の帰り、銀座線で渋谷まで出ると、田園都市線に乗り換えて、次の駅池尻大橋で降りた。そして地上に出ると坂道を登った。

病院の建物が近付くほどに瞳は、目の前に迫る真実を受け入れる事に、心が重くなって来る。

最悪の状況を考えよう。そう思っても、心はどこかでジュンは自分を選んでくれる。自分を待っていてくれる。と思いたかった。


病院に入り総合受付で見舞いを表に出して、彼の病棟を聞いた。更にナースセンターで病室の位置を聞くと、心の準備をしながらゆっくりと廊下を歩いた。

 やがて教えられた病室の前に立つと、彼がベッドで横になっていた。そしてその側に、母親から見せられた写真よりも、可愛く美しい女性が座っていた。

二人で、笑顔で何かを話している。その時だった。彼の視線が自分の方に来た。目が合った。

「瞳」

その言葉に側にいた女性が振り向いた。しっかりと自分を見ている。少しの時間が経つと、何故か体が病室の中に入って行った。そして彼の側に行くと

「山之内さん。この方は」

ベッドの側に座る女性を見て言う言葉に、その女性が立つと軽くお辞儀をした後、

「初めまして。山之内淳の妻、奈緒子です。あなたは」

強い程に見せる視線と妻と言う言葉に驚きながら

「初めまして。山之内さんと同じ会社に勤める竹宮瞳と言います。本日はお見舞いを兼ねて、はっきりと山之内さんの心を確認しに来ました。でも、もうその必要は無い様です」

言葉を区切り、ジュンを恐ろしい程の視線でにらむと

「ジュン、信じていいのね。と聞いたわよね。あの時」

じっと自分を見つめる許しがたい視線が有った。

「あなたを信じた私が、人を見る目が無かったのですね」

きついまでに冷静に言い放つと、体を回して病室を出て行った。


ジュンは、二人のやり取り、そして瞳から出た自分への言葉に、ただ何も言えなかった。奈緒は、瞳の後姿が病室を出るまでしっかりと見取ると

「美しい方ですね」

そう言いながら自分を見る目が、今まで見たことのない、恐ろしく冷静で、冷たい感じがした。まるであなたがはっきりしないから、あの方がつらい思いをしたのです。と言う様に。


病室を出た後、堪えていた心のタガが外れた。止めどもない涙が目から溢れ出た。言葉は何もなかった。そして、エレベータのそばまで来ると、今まで我慢していた感情が一気に溢れ出た。

「ジュンのばかー」

ただただ、止めどもなく大粒の涙が溢れ、エレベータホールの側にある椅子に崩れ落ちた。


 それから更に一週間が過ぎた。

「ジュン無理してはだめよ。ゆっくりと歩いて」

「大丈夫だよ」

そうは言いながら。右脇腹に負担を掛けないように歩きながら言うジュンに

「ふふふっ、その歩き方では、まだ私の看病が必要ね」

二週間、付きりで看病しながら、その疲れも見せずに、何故か嬉しそうに言う奈緒に

「もう、分かった」

そう言って、目元がほころんだ。


ジュンは、退院した後、更に自宅で一週間の養生をした後、会社に出社した。同僚は、何も変わらなかったが、柏木部長と後藤課長が、信じられない程に冷たい対応をした。

何か上から聞いているのだろう。仕方ないと思った。あのまま素直に瞳と自分が、時に身を任せたら、自分達も来る姿が見えていたのかも知れないと思ったからだ。

そして、出社して一か月後、それまでIT部門だったジュンは、営業三課に移動させられた。

三課は、本流の仕事ではない部署だ。一課、二課のこぼれをするような部署だ。ジュンは、瞳の素性を考えると、転勤や出向がないだけいいか、と思った。もちろん、もう瞳と仕事をする機会など無かった。

最初は三課の人間も、まるで腫物でも見る様な目で見られ、辛い思いをしたが、ジュンの素直に仕事に打ち込む姿に、一か月もしない内に馴染んでくれた。そしてそれから半年が経った。


分娩室に可愛い泣き声が聞こえた。そして数分後、

「山之内さん、可愛い女の子の赤ちゃんです。お母様に似て美人ですよ」

看護婦の言葉に分娩室の側に行くと、まだ目が開いていない赤子が、奈緒子の腕に抱かれていた。

「奈緒、頑張ったね」

「うん。可愛いでしょう。あなたそっくりよ」

「うん、奈緒にもそっくりだ」

この上なく嬉しそうに赤子を抱く奈緒を見て、たまらない気持ちになった。

赤ちゃんが生まれたのは、八月も終わりの時だった。夏の日差しが強い中、奈緒子と季節を自分の名前を合わせて考えたが、何も思い浮かばない。父からは退院するまでには、名前を考えた方が良いと言われながら、何も思いつかなかった。ただ奈緒子のどれか一字は付けたかった。

 いきなり頭に浮かんだのは秋奈だった。でも秋奈ではと思うと、いいや春奈と結構短絡的につけながら、妻には一生懸命説明した。

そして、既に首も座る一二月の声も聞く季節だった。


「ジュン、今度の土曜日、春奈を連れて家に行ってくる。おじいちゃんとおばあちゃんが、毎週見ないと我慢できないとか言っている。ジュンも一緒に来る」

「いや、遠慮しておく。たまに行くのはいいけど気を遣う。春奈と一緒に行ってくるといいよ。僕は家にいる」

「わかったわ」

奈緒は、小さな体から大きく胸を出して、春奈に乳を上げている。その光景を見ているとジュンは、自然と目元がゆるんだ。赤ちゃんを産んだ後も、可愛さと美しさは変わっていなかった。むしろ、子供を産んだことで顔がはっきりして、一段と綺麗になったといっていい。マンションの中でも噂になっている。

この前、二子玉のデパートに行った時など、ベビー用品売り場の店員全員が、バギーに乗る春奈と奈緒に寄って来たほどだった。

仕事も営業三課に移って以来、ITの仕事は全くなく、ルートセールス専門になった。ただ、前と違い、残業が少なく毎日七時前に帰る。突発的な事も発生しない為、奈緒にとっては、精神的に良いようだ。


「じゃあ、行ってくるね」

いま、流行のPHVの小型自動車。奈緒のお腹が大きくなり始めた頃に購入した。後部座席にベビーシートが載せてある。春奈をしっかりとホールドすると自分が、運転席に座って、ジュンに言った。

 結婚した頃は、奈緒が車を運転するなんてとても想像できなかった。妊娠が分かり、籍を入れた後、奈緒は会社を退職した。上司と同僚からは、相当に引き留めに有ったらしいと話には聞いている。 

つわりが終わり、安定期に入った頃、家にいても仕方ないという事で、近くのドライビングスクールで免許を取得した。

 はじめは、時間がかかるだろうと思っていたジュンは、規定時間に少し上乗せしただけの時間で取得できたことに驚いたが、ドライビングスクールの先生たちは、もっと驚いていた。どうも天性の才が有ったようだ。初めてドライブに行った時の顔が想像できない。


 奈緒が運転する自動車は、走り始めてもほとんど音が聞こえない。静かに走り去る車の後姿が見えなくなると、借りたマンションのエントランスに入った。車なら五分とかからない。

安心だと思うとエントランスからそのままエレベータに乗った。五階建てのマンションの三階、南西角部屋に住んでいる。ぎりぎり富士山が見える高さだ。

今日は、いい天気だし、ゴルフの練習でも行くか。奈緒にはメールを入れておけばいい。そう考えると壁掛けの時計を見た。奈緒が実家に向かってから一五分は経っている。テーブルの上に置いてあるスマホを手に取ると

<奈緒、今から世田谷総合運動場のゴルフ練習場に行ってくる。一時位には戻るから>

入力すると送信をタップした。すぐに奈緒から返信が有った。

<わかった。私たちも三時には帰る>

最後にハートマークがついていた。ジュンは微笑むと、ハーフセット用のゴルフバッグにクラブを入れて世田谷通りまで出てバスに乗った。

奈緒と一緒になってもう一年近くになるな。早いな。転職も考えないといけないな。あの会社では、もう将来はない

かつて、関係の有った竹宮瞳の父がオーナーを務め、瞳自身もまだ、あの会社にいる。会うことはなかったが。


ジュンは、会社で配置換えの後の辛さを乗り越え、奈緒との生活に幸せを感じます。このままこの時間が過ぎればと思う二人ですが。

まだまだ、運命の神は、ジュンに幸せを素直に歩ませてはくれません。

次回をお楽しみに

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