第六章 かげろうの中に (2)
日曜日、ジュンは、奈緒からお腹に赤ちゃんがいることを告げられます。そしてジュンは、ついに奈緒との結婚を決意しますが。
(2)
「ジュン、おはよう」
白のブラウスにクリーム色のセーターそして茶系のスカート、濃い目のソックスにハーフコートを着てマフラーを首元に巻いた奈緒は可愛かった。
「おはよう。奈緒」
嬉しそうな顔をして改札を入ってくる彼女に、視線がついお腹に行った。コートを着ているせいもあるが、全く分からない。
「ふふっ、ジュン、今お腹見たでしょ。分かったわ。でもまだ分からないわ。朝食どこで食べる。プレーンなオムレツと美味しい紅茶が飲めるところがいい」
いつもの奈緒の言い様にジュンは笑顔を見せると
「分かった。九時だと開いているお店少ないけど、渋谷に一軒知っている。ちょっと距離有るけど行こうか」
「うん」
いつもなら渋谷は、すぐそばの街だ。自分の体を気にしてくれていることが、分かると奈緒は、心が和んだ。
新宿に出てから渋谷と言う道順もあるが、あえて世田谷線から三軒茶屋を通り渋谷に向かった。乗り換えに一回多くなるが、何となくそうしたかった。
渋谷に出ると、もう九時半。でも渋谷は、これからお店が開く。ジュンは、映画館のあるビルの二階に向かった。綺麗で落ち着いていて、紅茶とオムレツが食べれるお店だ。
「ジュン、区役所に届けて母子手帳もらう必要がある。定期的な検診を受けるようにしないといけない。でもそれには・・」
奈緒の意味が分かった。目の前に座る可愛い女性の顔をしっかりと見ると
「分かった。奈緒、結婚しよう。順番違うけど、すぐに奈緒のご両親に挨拶に行く。僕の家にもすぐ紹介して、お父さんと一緒に挨拶に行くよ」
ジュンから正式に出た、結婚と言う言葉に奈緒は、今まで心の底に有った不安という言葉が、完全に消えた。
「ジュン」
下を向きながらその愛らしい瞳から小さく涙がこぼれた。
「嬉しい」
いつも持っているグッチのバッグからハンカチを出して少しだけ目元に当てると顔を上げて
「ジュン、奈緒、一生懸命勉強して、言い奥様になるから」
「勉強」
「うん、料理とか家事とか」
一瞬こけそうになりながら
「奈緒」
と苦笑いすると不思議そうな顔をして
「どうかしたの」
「いや」
と言ってもう一度目元を潤ませた。
「ジュン」
急に真面目な顔になった奈緒は、
「聞いてもいい。どうしても気になることがある」
「なに」
右手に持ったコーヒーカップから一口飲んで答えると
「この前、渋谷で見た女性。ジュンとは何でもないよね・・。ごめんなさい。でも気になるの」
奈緒の言葉が心に突き刺さった。すぐに答えられない目の前に座る男に
「やっぱり。でも今、ジュンは結婚してくれると言ったよね。もう大丈夫なんだよね」
安心させてほしい。あなたの言葉で。という思いが、強烈に分かった。
「奈緒、はっきり言う。あの人の事は、あえて何も言わない。でも、僕は奈緒と一緒になる。お腹の子は、奈緒と僕の子供だよ」
ジュンのはっきりした言い様に、その大きな瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
「ジュン」
声を出さずにハンカチを目元に置いて少しの間そうしていると今度は顔を上げて
「ふふっ、ありがとうジュン」
もう大丈夫。お腹の子供がまるでお母さん良かったね。と言うような声が聞こえた感じがした。
まだ、店の中は空いていたが、何となく周りの視線が、自分達に注がれているのが分かった。腕時計を見るともう十一時を過ぎていた。
「奈緒、出ようか」
「うん、でもちょっと待って。レストルームに行って来る」
お化粧を直してくるという意味に捉えたジュンは、軽く頷くとハンドバッグを持ってレストルームに行く奈緒の後姿を見ていた。
これでいい。でも瞳の事、考えないと。昨日、母親の誕生パーティですっかり我が家の一員に化した瞳は、帰り際にも
「ジュン、早く私のお母様も安心させたい。ねっ」
意味は、分かっている。ただ、最近の瞳の言い様に少しだけ引っ掛かっていた。
「分かっている。でもそんなに急ぐことでも」
「でも、でもって」
じっと自分の顔を見ながら
「ジュン、まだ、何かあるの。ここにいる女性の事」
胸を突きながら言う瞳に、奈緒はこんな言い方しない。心の中に、何か風が吹いた感じがした。
奈緒が、お化粧を直して戻って来た。周りの人が見ているのが分かる。奈緒は、今までのジュンに対する自分の心の不安が消えた分だけ、笑顔が花の様に美しかった。本当に嬉しそうな顔をして席に戻ると座らずに
「ジュン、行こう」
と言った。レジで会計して、木造の洒落たガラス戸を開けてお店の外に出ると
「奈緒、手をつなごうか」
「えっ」
いつも何気なく手をつなぐのに、あえて出した言葉にどうしてという顔をしてジュンを見ると
「だって、階段で万が一あったら」
「ふふっ、ジュンありがとう。でも、さすがにそれはまだ、大丈夫だよ。階段が危ないのは、お腹が大きくなって、足元が見えなくなってからだから」
「そうかな。でも・・」
純粋に自分を心配してくれる彼に
「じゃあ、手をつなごうか」
「うん」
いつもなら、奈緒が、すっと何気なく自分の右手を彼の左手につなぐのに、今日は、ジュンが、まるで初めてつなぐように、そっと手を出して来た。その手を見ながら嬉しそうに奈緒は、優しく手を添えると前を見た。
「うわーっ、たまらん。少女漫画の初恋じゃないか」
「へーっ、初恋知っているの」
「知らないけど、見た今の。こちらが恥ずかしくなった」
「なによそれ」
「お前だって顔赤くなっている」
「だって、私だって、あんな純粋な心の時が有ったもの」
「いつ」
ちょっとからかうように言うと
「ふん、あなたの様に無神経な男には、関係ない世界よ」
と言って、男を残して映画上映館の方へ歩いて行ってしまった。
その声を聞きながら、ジュンと奈緒は二人で顔を合わせて小さく含み笑いをすると、手をつなぎながら階段を降りた。ゆっくりと。
「お母様、昨日、彼のお母様の誕生パーティに出席しました」
「誕生パーティ」
言葉の意味を捕えられない母に
「はい、彼のお父様は、家族みんなの誕生パーティを必ず毎年行うとジュンが、言っていました」
自分の夫が、結婚してすぐの時を除いて、仕事中心で有った事を考えると自分には想像の外だった。娘の嬉しそうな顔に違和感を覚えながらも
「そう、良かったわね」
あまり、感傷のない言葉に
「お母様、ジュンのお母様とお父様は、しっかり私を認めて下さいました」
「それは、あなたの心が、あの人を一生の連れ添いにすると決めた言葉と受け取って良いのですか」
母親の言葉に一瞬、頭が冷静になると、瞳は母親の視線を外さずにゆっくりと頷いた。
「分かりました。お父様には、そう言っておきます。よろしいですね」
「はい」
少し間を置いて娘の顔をしっかりと見ると、冷静な声で
「瞳さん。あの人は、我家の婿に入るということを納得しているのですか。そしてそれが、どの様な意味を持つか、理解しているのですか」
その言葉に、瞳は急に下を向いた。全くそこまでは、考えていなかった。もう一人の女性の存在を知ったことで、ただジュンを奪われたくない。という気持ちで心が流れていた。そこに竹宮家の婿ひいては、葉月家一族である竹宮家の系統を継ぐと言う意味は、あまりに大きかった。
ジュンには何も言っていないと思うと
「それは、・・・まだ、何も・・」
「瞳さん。それでは、あの人が、本当に婿としてこの家に入るか、分からないという事ではないですか。瞳さんは、自分の言葉で説明すると言いました。大丈夫なのですか」
大事な娘が、既に体を許した相手が、別の女性にも心を奪われている状況で、竹宮家を受け継ぐ器かわかない事に母親は、言葉に表せない不安が出て来ていた。
「瞳さん。もしあの人を竹宮家に入れるならば、早く、自分自身が待っている運命を説明しなさい」
いつもと違う厳しい口調。厳しい視線に瞳は、ショックを受けた。
日曜の朝食に軽い話題で出したつもりが、思いもかけない方向に行った瞳は、不安が海の様に広がった。
何も言っていない。今の会社が、親がオーナーであること程度で驚いていた。竹宮家傘下の会社だけでも二〇社を超えると分かったら・・そう考えるともの凄い不安が心の中に広がった。
「奈緒、ちょっとデパート行こうか」
「デパート」
ちょっと不思議そうな顔をすると
「まだ早いけど、ちょっと見てもいいかなと思って」
少し考えた後、
「えっ、それってもしかして」
「うん、そのもしかして」
急に恥ずかしそうに笑顔になると
「ふふっ、ちょっと早いけど・・行こうか」
奈緒は、つないでいる手をほどいてジュンの左手に思い切り寄り添った。
「奈緒、ちょっと歩きづらい」
「私は、大丈夫」
どう見ても歩きづらそうにみえるが、目元を緩めながら歩く奈緒を見て、ジュンも微笑んだ。
はた目から見れば、若い夫婦にも見えるジュンと奈緒が、ベビー用品売り場に行くと、店員が嬉しそうな顔をして寄って来た。
「何か、御探し物ですか」
普通なら客から声を掛けない限り寄ってこないはずのデパートの店員が、嬉しそうな顔をしている。
「いえ、ちょっと見ているだけです」
「お美しい奥様ですね。お子様がお腹に」
要らぬことを言う店員に、奈緒が恥ずかしそうな顔をすると
「まあ、素敵。どうぞごゆっくり見て下さい」
と言って年配の店員が、二人の元を離れた。
「ジュン、ジュン」
腕を引いて
「聞いた。奥様だって。ふふふっ」
思いきり嬉しそうな顔をする奈緒に、ジュンも目元を緩ますと目の間にある乳幼児の洋服を見た。
「ジュン、もう四時だね。一緒いるとすぐに時間が経つよね」
「うん、僕もだよ」
ジュンの左腕に、自分の右腕を絡ますようにしながら歩く奈緒は、今までずっと抱えていた心の不安が消えていた。
「奈緒、これから僕の家に来る」
「えっ」
流石にジュンの突然の言葉に驚いた。
「でも・・」
思いきり不安そうな顔をしながら言う奈緒に
「奈緒の心の準備が出来るまで待つけど、少しでも早い方が、お腹の赤ちゃんの為にもいいし」
じっと彼の顔を横から見上げるように見ると
「ジュン、いいの。本当に」
その言葉にいきなり自分の前に来た彼が、両肩を優しく抱くようにして
「奈緒、僕を信じてくれるよね」
ほんの少しの永遠の時間が過ぎると彼の胸に顔を埋めた。
用賀の駅から彼の家までとても長く感じた。普通に歩けば、五分も掛からない。駅から真っ直ぐの道だ。手を握る奈緒の手が震えている。
「奈緒、もうそこだから」
左手に感じた震えを抑えるように言うと、目の前の家の玄関に通じる道に入った。ドアを開けて
「お母さん、お父さん。ただいま」
そう言って玄関のドアの中に入ると奈緒に
「入って」
そう言って手を引いた。
まだ、時間は四時半だ。いつもの息子の言葉に違和感が有った母親は、玄関に出てくると息子と一緒に居る可愛くそして綺麗な女性に目をやった。
「お母さん。ただいま。紹介したい人がいて連れて来た」
昨日の自分のバースディパーティに来た女性と違う女性を連れて来た息子に目をやると、真剣な視線が帰って来た。
「淳、応接間にお通しなさい。お父さんに声を掛けます」
はっきりとした言葉で、そう言うと、瞳の時とは違って、ばたばたと家の奥に消えた。
「奈緒、上がって」
ジュンの母親の態度に躊躇する彼女に
「大丈夫だよ」
と言って微笑むと
「うん」
と言って玄関を上がった。
「奈緒、来て」
そう言って奈緒の手を引きながら応接間に連れていくと
「ジュン、大丈夫なの。いきなりお邪魔して」
「もういいんだ。自分で決めたことだから」
彼の言葉に安堵しながらも、いきなり来た、彼の家と母親の態度に緊張していた。
やがて足音が聞こえるとジュンの両親が入って来た。父親が目を丸くしている。
「お父さん、お母さん。紹介します。一ツ橋奈緒子さんです」
ジュンの言葉に
「初めまして。一ツ橋奈緒子です。突然、伺い誠に申し訳ありません」
そう言って深く頭を下げる女性を見ながら
「淳、どういうことだ」
昨日夜に女性を連れて来たと思ったら、翌日別の女性を連れてくるなど、考えられないと父親は思った。母親も同じ目線で見ている。
「座ろう。みんなで立っていても」
そう言うと奈緒に目配せして自分が先に座った。
息子の態度に仕方なく自分達も座ると
「淳、ゆっくりとでいいから説明して。どういうこと」
母親の顔を見た後、父親に目線を動かすと
「お父さん、お母さん、僕は、一ツ橋奈緒子さんと結婚します。順番がちょっと違いますが、奈緒のお腹には僕と奈緒子さんの赤ちゃんがいます」
二人とも目が丸くなり声も出なかった。奈緒は下を向いている。誰も声を出さないまま、時間が流れた。ゆっくりと
「お腹の子の為に先に籍を入れたいと考えています」
その言葉にさすがに父親が、
「ちょっと待ちなさい、淳。お前と奈緒子さんは良いとしても、奈緒子さんのご両親はこの事を知っているのか」
首を横に振ると
「お父さん。頼みがある。今から僕と奈緒とお父さんで、奈緒の家に行きたい」
今度はこの言葉に
「淳、それは、奈緒子さんのご両親に失礼です。きちんと都合を聞いて日取りを決めて、段取りもして行かないと行きません」
「でも、早く区役所に届けないと」
その言葉に母親は、
「奈緒子さん、今何ヶ月」
じっと見られながら言われると、それを見返すように
「はい、三か月を少し過ぎたところです」
母親は、何かを考える様な仕草をすると
「淳、奈緒子さんのご両親に今から連絡を取れる」
「はい、私がします」
返事の主の目を見ると
「奈緒子さん、すぐにお願いします。あなた、出かける用意をしましょう」
そう言って二人は応接を出て行った。驚いたのは、ジュンだった。
えっと思うと両親は、いつの間にか、二人の事を了承して、奈緒の家に挨拶に行こうとしている。奈緒の顔を見ると少し恥ずかしそうな顔をしながら嬉しい顔をしていた。
ジュンと奈緒の思いより早くジュンの親の決断は早かったようです。次回、ジュンと奈緒、そして瞳の関係が、ますます深くなって行きます。
お楽しみに。




