第四章 戸惑い (2)
本人が意識しないままに心の中に竹宮瞳という女性の存在が大きくなっているジュン。何も知らずにただジュンを信じる奈緒。だが、最近少しだけジュンの態度に違和感を感じながら純粋に信じていた。
(2)
「奈緒、また、シンガポールに出張してくる」
「またあ、いつ行くの」
「三週間後、今度は、三日位だけど、月曜日行って、金曜日帰ってくる感じかな」
「そう、じゃあ、土曜日会えるね」
「うん」
奈緒は、ジュンのちょっとした言葉の音の違いを感じた。前だったら嬉しそうに返事したのに。何か言葉に重さが有った。
「ジュン、何か心配事でもあるの」
「えっ、どうして」
奈緒は、ジュンの顔を見つめながら
「声が少し重そうな感じがした。でも気のせいだよね」
何か、感じているのかな。奈緒の言葉の裏に瞳の顔が一瞬だけよぎった。実際、心の中は、奈緒だけの世界から少しずつ変わり始めていた。奈緒一人だった心の中に、瞳と言う新しい女性が現れ、段々大きく占めて来ている。
自分自身は解決できない心の中の二人のバランスが、奈緒に対して前の様なはっきりとした言い方をさせなくなっていた。ジュン自身は、まだそのことに大きな呵責を感じていなかった。
「でも、奈緒だって、前だったら金曜日会いたいって言ったのに」
「それは、ジュンの事を心配しての事よ」
少しだけ、目元に恥ずかしさを出しながら言った。
「そうか、ありがとう」
その言葉を言いながら腕時計をちらっと見た。午後一〇時を過ぎている。
「奈緒、そろそろ帰らないと」
「えーっ、まだいいよ」
思いきり甘えた声を出しながら、目の前にあるほとんど水と化したモスコミュールのグラスを両手で触りながら言うと
「だめ、特に今日は、朝から奈緒の家にお邪魔している。きちんと帰らないとお母さん心配する」
「大丈夫なのに」
わがままっぽく言いながら仕方ない顔で、奈緒はカウンタに並ぶ椅子から腰を外した。
月曜日、会社に出社したジュンは、いつものように一度自分の席に行ってPCの電源をオンにすると、うがいと手洗いの為に廊下に出た。竹内瞳が、反対側から歩いて来る。
会社では二人の事は誰も知らない。すれ違いざまに視線だけ合わせると、ジュンは少しだけ目元が緩んだ。
席に戻りPCのタスクバーにあるメールアイコンをクリックするとメールソフトが起動し始めた。それを待っていると
「山之内、もう連絡は言っていると思うが、今日のミーティングで、来週向こうで行う最終受入れテストの手順確認をする。テレビカンファレンスするから宜しくな」
いきなりの言葉に振り向くと真面目な顔で柏木部長が、立っていた。
「分かりました。資料の準備は先週中に終わっています。向こうとも金曜中に今日の件は話してあります」
「さすがだな。お前を選んだ俺の顔も立つ。宜しく頼むぞ」
「はい」
ジュンの返事に満足した顔で自席に戻った。
柏木部長と話している間にメールソフトが立ち上がっていた。すぐにIDとパスワードを入れると、左下に受信メールのカウントが表示された。
うわあ、多いな。そう思いながら取りあえず題名だけをスクロールすると一番下の最新のところに竹内からのメールがあった。最終受入れテストの件と書いてある。
この件に関する打ち合わせは、現地時間を考慮して今日一四時からのはずだ。なんだろうと思ってメールをクリックすると
<山之内さん。お疲れ様です。事前打ち合わせをランチミーティングで行えますか。 竹宮>
メールの内容に、周りに気付かれない様に微笑むと
<竹宮さん。下記の件、了解しました。 山之内>
と書いて送信ボタンをクリックした。これならばIPOの連中が見ても分かららない筈だ。
二人だけで昼食を取る時は、場所を決めてある。会社から少し離れた一〇分位のところにあるスパゲティのお店だ。十二時を過ぎると急いで席を立つと待ち合わせ場所に向かった。
ドアを開けて見つけようと店内を見ながら奥に行くと右隅の二人座りの席に座っていた。
「待った」
「ううん」
ジュンの目を見ながら言う瞳に
「どうしたの。今日は打ち合わせ午後からあるし」
店員が来て、水の入ったグラスを置くとジュンは、
「竹宮さん、オーダーは」
「まだジュンが来るのを待っていた」
そう言って、店員にボンゴレのスパゲティをオーダーすると、ジュンも同じものをオーダーした。店員が、メニューを持って席から離れると
「竹宮さん、山之内」
「あっ、ごめん」
初めて心を許した相手であり、一緒に居ると心が休まる感じがする。瞳は、ジュンと一緒に居るとリラックスした頭になってしまう。見返すように瞳の顔を見ながら言うと、今度は下を向きながら
「山之内さん、ちょっとお願いがある」
下を向いたままの相手に
「なに、下を向いてどうしたの。顔を上げて話せば」
そう言う相手に、下を向いていた顔を上げて
「山之内さん、・・・今度の土曜日、我が家に来ない」
「・・・・・」
ジュンは、声が出なかった。全く理解出来ない言葉に、黙ったままにしていると
「そうだよね。無理だよね。いきなり女性の家に来てなんて」
またまた、下を向いてしまった瞳にやっと声が喉まで戻って来たジュンは、
「どうしたの。行くのは・・まあ、いいけど」
「えっ、ほんとう。良かったあ」
急に笑顔になって顔を上げると
「じゃあ、午後一時でいい」
「えっ」
まるで段取りが既にされている様な言いように言葉をゆっくりと
「どうしたの」
と聞くと
「実は、この前の件、お母さんにばれていたみたいなの。石鹸の匂いが残っていたみたいで」
顔を赤くしながら小声で言うと
「それで、お母さんが、一度お会いしたいと言って。私、お母さんのお願い断れない。だから、大丈夫って言ってしまって。ごめん」
両手を顔の前に合わせるようにするとジュンは、呆れたように
「そうか、しかし・・いいの」
「うん、いいの、いいの」
来週には、シンガポールに行く。その前の土曜日に瞳の家に呼ばれるとはそう思いながらも、準備は既にほぼできていることを考えると、まあいいか。と気楽に考えていた。
奈緒は、水曜日いつものようにジュンと会った時、今週土曜日会いたいと言うと、今度の土曜日は、来週月曜日から行くシンガポールの仲間と会うから会えないと言われた。
じゃあ、日曜日はと言うと、ジュンはちょっとだけ考えて日曜日も翌日の準備で無理と断られた。
何か変。いつもならどちらかの日に必ず会ってくれるのに・・。最近のジュン何かおかしい・・。そんな事を考えながら、自分のデスクの前に置いてあるPCのディスプレイに映るグラフを眺めていると
「一ツ橋さん、どうしたの。目があっち向いているわよ」
いきなりの言葉に
「えっ」
と言うと、
「もうお昼よ。一緒にどう」
隣に座る同僚の浅野千賀子からの言葉、に今まで考えていた事をしまい込むと、にこっと笑って
「ありがとう、うん、一緒に」
「一ツ橋さん、何か最近可愛いさプラス綺麗と言う言葉が合うようになって来たわね。何か良い方法でもあるの。今更、彼が出来たから。なんてことないだろうし」
奈緒は、ふふふっと笑うと
「内緒」
と言って、右手の人差指を縦にして唇に持ってきた。自分でもあの時以来、顔が少しだけ違ってきたことを感じていた。
近くにあるレストランで食事をしながら
「一ツ橋さん、最近わが社の男どもは、あなたの噂ばかりよ。羨ましいよ」
「えーっ、そんな事ない。誰も声かけてくれないし」
「ほんとー。信じられない」
実際、奈緒は、会社の誰からも声を掛けられなかった。入社してもう一年が過ぎている。奈緒は、マーケティングという仕事柄、営業や総務のような他部門と交流がない。会社で仕事をしている時に話す程度で、誰も食事に誘うとかはなかった。もっとも奈緒もジュンのことでいっぱいで、他の男に目もくれなかったのも事実だが。
「そうそう、営業の吉岡さん。知っているでしょう、結構一ツ橋さんのこと気にしているみたいよ」
「えーっ、何も知らない」
吉岡は、自分より二年先輩に当たる。
「じゃあ、今度話してみようか」
「いやっ、いいです」
頭の中にジュンの事がよぎりながら答える奈緒に浅野は、
「えっ、誰かスティディな人いるの」
「えっ、いや、そういう話は」
「やっぱり。顔に書いてあるわよ。いますって」
「えーっ」
と言って、手で、頬を擦ると
「ふふっ、一ツ橋さんのそんな素直なところが、惹かれるんだろうな。私なんか、だーれもだもの。あっ、もうそろそろ戻らないと」
一方的に話を止めると席を立った。
奈緒は、会社に戻りながら会社の人って誰と会うんだろう。まさか、でもそんな事ない。ずっと一緒に居てくれるって言ったから。でも、まだジュンの家に行っていない。そうだ。今度行きたいと言えばいいんだ・・。ジュンが出張帰ってきたらそう思うと
「あっ、ちょっと用事がある。先に戻っていいて」
「あ、うん、分かった」
そう言って先に歩く同僚の背中を見ながら、奈緒はバッグからスマホを取り出した。
昼食から戻り自席でちょうど仕事を始めようとしていたジュンは、いきなりの呼び出し音に奈緒だと思うとスマホをポケットから取り出した。
奈緒からメールが入っているディスプレイに映るメールをタップすると
<出張から帰ったら、ジュンの家に行きたい>
いつもの言い方ではあるが、ジュンはメッセージの内容に重さを感じた。
すぐに返事を出せない自分の心の変化の理由が分かっていた。簡単に結論など、でない事も分かっていた。今まで先延ばしにしていたツケが段々重く圧し掛かり、どうすればという思いが、ジュンに返信を打つのを躊躇させていた。
仕事中なのかな。帰ってこない返信に気を回していると、スマホの下の時計が午後一時を過ぎていた。いけないと思うと、スマホをバッグの中にしまい込み、すぐに会社に向かった。
やがて、午後五時半を過ぎて席を立とうとする奈緒に
「一ツ橋さん。今日この後、何か用事有る」
「えっ」
昼食を取った同僚からいきなり声を掛けられ、不思議そうな顔をする奈緒に
「うん、昼間話したでしょう。営業の吉岡君。ちょっと声かけったら、今日金曜日だし、何も予定ないから、気の合った奴で一緒に食事でもしようかと言ってくれたの。どう一ツ橋さん」
奈緒は、ジュンからの返信が来ない理由が分からないまま、家に戻ろうと思っていただけに、同僚からの誘いに少し考えると
「このまま家に帰るだけだったから。いいよ」
と返事をした。
「本当、じゃあすぐに吉岡君に連絡入れる」
そう言って、スマホにタッチするとメールした。メールでいいのかな。これからすぐに会うのに。同僚のしぐさに少し疑問を持ちながら見ているとすぐに返信が帰って来た。
「一ツ橋さん、OKだって。吉岡君も営業の子を一人連れてくるみたい。二対二だからちょうどいいね」
意味不明な言葉に取りあえず微笑みながら頷くと、レストルームで化粧を整えて会社の出口に行った。
「営業二課の吉岡春樹です。はじめましてじゃないけど、始めまして」
はにかみながら言う男に
「一ツ橋奈緒子です。初めまして」
実際に、目の前にして話すのは、初めてだった。
「吉岡と同じ営業だけど三課の国立義一です。初めまして」
こちらの男は、確かに初めてだった。誰だろうと思いながら挨拶を返すと
「すごーい。一ツ橋さんって、噂以上に綺麗だ。まさか一年も気づかなかったとは」
「そりゃ、仕方ないだろ。お前、出張ばかりだもの」
「そりゃそうだけど、じゃあ吉岡、お前この美人二人を独り占めしていたの一年間」
吉岡は、自分の左手を顔の前にして振りながら
「いやいや、俺も一ツ橋さんと話をするのは初めて。緊張しています」
「上手ですね。二人とも」
奈緒の言葉に
「一ツ橋さん、マーケでしょ。色々声かけられるんじゃないですか」
「そうでもないです」
微笑みながら答える奈緒に吉岡がいきなり
「でも、彼いるんですよね」
と言うと
「えっ、いや。その・・いないです」
「吉岡君、いきなり直球。女性の心はナイーブなんだから」
浅野の言葉に
「あっ、ごめん。仕事柄、肝心なところでは、ガンと行くので」
笑いながら話す浅野に
「まあな、だから営業二課でトップなんだな」
国立のフォローに
「それは、それ。そうじゃなくて肝心な話。一ツ橋さんの」
吉岡は奈緒を見ながら
「信じられない。じゃあ、立候補したい。いいですか」
「こら、私には、立候補しないの」
美人の部類に入る同僚の浅野の言葉に吉岡の同僚国立が、
「あっ、僕、立候補します」
二人の顔を見ながら、無反応一歩手前の表情で、
「今度考えておきます」
と言うと、そっけなく撃沈した仲間に
「あははっ、急ぐことないよ。友達からね」
浅野の明るい声立ち直るとそのまま四人で会話が進んだ。
「あっ、もう帰らないと」
腕時計が八時半を回っていた。
「あっ、ほんとだ。もう二時間半たったのか」
そんな言葉にちょうど店員が、
「お客様、予定の二時間半です」
と言って請求書を置いて行った。
「一ツ橋さん、どちらに帰るんですか」
あの後、浅野と国立は、カラオケに行った。奈緒は、浅野さん慣れてるな。と思いながら吉岡の言葉に
「経堂です」
「えっ、僕、生田です。同じ方向ですね。嬉しいな。途中まで送ります」
「ありがとう」
まんざらでない奈緒の顔に吉岡は、嬉しそうな顔をすると二人で駅に向かった。
吉岡は、空いてはいない電車の中で、入り口に立ちながら引き込まれそうな容姿、時々感じる甘い香りを魅力的に感じて奈緒の姿を見ていた。
奈緒は、電車の中でも色々と聞いてくる吉岡にちょっと面倒さを感じたが、ジュンとは違った対応に少しだけ、心が和んだ。
「じゃあ、私ここで降ります」
経堂駅に小田急線が入って行くと
「あの、今度会えませんか」
その言葉に相手の顔をじっと見ると
「また、会社で」
と言って、電車を降りた。悪かったかな。と思いながら、でも私にはジュンがいるから。そう思うと少しだけ目元が緩んだ。
やっぱり無理だったのかな。やっと声を掛けられたのに。吉岡は、ホームから階段を降りて行く奈緒の後姿を見ながら、まあ初めてだもの。いきなりOK出す女性よりはるかにいいかそう思って、電車の窓から流れる景色を見た。
久しぶりに同僚に誘われてジュン以外の男たちと夕食を一緒にした奈緒。吉岡は奈緒に興味を示すが、心の中にジュンしかいない奈緒は、そっけなく振ります。しかし、この後、意外な展開が。
次回をお楽しみに。




