第一章 誰 (1)
いきなりの二人の旅行。ジュンと奈緒の目の前に広がるエメラルドグリーンの海と真っ青な空に二人の心はときめきます。ゆっくりと積み重ねられる二人の心の第一章の始まりです。
第一章 誰
(1)
「ジュン、ジュン。待って。どこ行くの」
何故、私をおいて一人で先に行くの。こんな所歩くなら新しい靴を履いてくるんじゃなかった。可愛いスニーカを汚れない様に注意して、あまり整地されていない坂道を歩きながら、早足で、一人で先に行ってしまう彼を見つめた。
後ろから追いかけるように聞こえる可愛い声を耳にしながら、でも早く見たいという気持ちを抑えきれずに坂道を走った。
「ジュン、待って」
後ろから聞こえてくる声が、少しだけ、遠ざかる事を気にしながら走ると、少し開けた展望台に着いた。息を少し切らせながら、目の前に広がる景色に・・これを見たかったんだ・・目を大きく見開いてみると、目の前に思い切り開けた空、そして周り一面に見渡せる海が見えた。
息を整えながら、後ろを振り向くと、歩きづらそうにしながら、なんとかもう目の前まで来ている奈緒の姿があった。
「奈緒、早く。見て、見て」
そう言うと、また、向き直して思い切り遠くを見た。海と空の間に大きな入道雲が輝くように大きく伸びている。
真っ青な空と、エメラルドグリーンに輝く海の限りなく広がる景色に吸い込まれていた。
「うわーっ、すごーい」
息を切らせながら、やっと可愛い女の子が、ジュンの左側に並ぶと、目の前に広がる景色に目を丸くしながら大きな声で言った。
「奈緒、素敵だろ。これを一緒に見たかったんだ」
「一緒に?」
ジュンは、私にこの景色を見せたかったの・・。ジュンの言葉が、一瞬、心のひだに触れると、
「だったら、私の手を引いて、一緒に走ってくれればよかったのに」
そう言って、少しだけわざとらしく口を膨らまし、ぷーっとだけした後、ジュンの左腕に自分の右腕を後ろ側から巻くようにして、頬をジュンの肩に付けた。
本当に素敵。だったら手を一緒につないで、歩てくれても良かったのに。でも綺麗だからいいな・・。奈緒は少し微笑みながら、目の前に限りなく広がる海と、はるか遠くに見える水平線から、大きく立ち昇る入道雲を見ていた。空が限りなく青く広がっている。
山之内淳、二六歳。外資系のIT企業に勤めながら、プライベートでは、ムーンライトプログラマや小説を書くマルチな才能を持っている。でも人前に出るのが好きではない。どちらかと言うと自分は後ろにいて、フロントで人が動いてくれるのが、好きなタイプの男の子。身長一七八センチ。短めの青黒い髪の毛に細面の顔立ちで、街で歩いていても特に目立つタイプではない。
一ツ橋奈緒子、二三歳。今年入社の外資系医療品企業に勤める女性。いつも輝くほどに手入れされた髪が、胸元まで延び、切れ長に大きな瞳、すっと通った鼻、可愛い唇に透き通る程に素敵な白い肌、少し大きめの胸。ジュンと違い、歩いているだけで十分に目立つ。
そんな二人がどこで知り合ったかは、これからとして・・・。先ほどの場面に戻ろう。
「ふふふっ、大丈夫かな。二人とも」
「なんで」
「だって、二人とも会社の仲間と泊まったことになっている。ジュンは、同僚と旅行、私は会社の研修旅行。少しだけ、どきっだね。」
ジュンは、嬉しそう言う奈緒を見て、自分で言い出した事なのに・・。そう思いながら
「大丈夫だよ。だって、まだ誰も知らないだろ。僕と奈緒の事」
「それはそうだけど」
ジュンの言葉に一瞬だけ、眉を動かしながら、本当はみんなに言いたいけど・・。まだ、知り合って、三か月も経っていないのに、二人でいきなり外泊は、さすがに奈緒も口を滑らすことが出来なかった。
親には、研修の一環だと言ってある。家を出る時も「全く土曜日に研修なんて最低」、なんて言いながら、親から「仕方ないわよ、まだ会社入ったばかりなんだから」そう言われて、頭の中では、ごめんと言いながら仕方ないと言う顔で出て来た。
自分でもこんなに軽く、二人で出かけるとは思ってもいなかった。成り行きだった。
先週の日曜日、表参道にあるカフェテラスでコーヒーを飲みながら、特に意味のない会話をしていると、急に奈緒が、話を変えた。
「ジュン、いつもはどうしているの」
「えっ」
「えっじゃなくて、土曜とか日曜日。私と会っていない時」
「うーん。特に。水泳位かな」
「水泳?」
頭にクエスチョンマークを描きながら
「ふーん、そうなんだ。誰と行くの」
なんだこの子は。と思いながら
「別に、一人だけど」
「ふーん」
今度は、ジュンが、
「ふーんじゃなくて、聞いたんだから別の反応ないの」
と言うと
「だって、もう少し、別の言葉が返ってくると思っていたから」
そう言って、グラスの中の淡いブルーの液体とロックアイスをストローで回していると
「奈緒は、土曜や日曜何しているの」
全く同じ言葉を返された。
「今、こうしている」
ジュンは、椅子から滑りそうになりながら
「それ、答えになってない。僕と会っていない時の話」
顔を上げてジュンの瞳の中を覗くようにじっと見つめると
「土曜と日曜は、こうしてジュンと会っている」
頭の中で、もうと思うと、
「分かった」
そう言って、今度は、ジュンが、下を向いてグラスに入っている透明の泡が立っている液体とロックアイスをストローでかき回し始めた。
奈緒は、肩から背中にかけて輝くように伸びている髪の毛の胸の方に掛かっている髪を軽く持ち上げながら後ろに回して、そっとジュンを見た。透き通るような瞳で見つめると
「ジュン、今度の休みどこか行かない」
「どこかって」
「あまり遠くないところ。一泊するの。二人だけで」
「えっ」
ジュンは、グラスの中を見ていた視線を上げると奈緒の目に映る自分を見た。ゆっくりと頷くと
「いいよ。どこに行きたいの」
「小田急か京王で簡単に行けるところがいいな」
ジュンは少しだけ頭の中を回しながら小田急か京王だと箱根しかない。でも箱根じゃなあ・・。奈緒はジュンの頭に浮かぶ事を読み取ったのか、
「じゃあ、西伊豆にする。でも車必要だよ。運転できるの」
少しだけ、からかうように言うと
「運転は出来るよ。まあ、レンタカーを借りればいいだけだし」
一瞬、奈緒の目が輝いた。そして
「じゃあ、そうしよう。泊まる所だけ決めて後は、気のままに行こう」
奈緒の行動力にちょっと驚きながら、この子どういうつもりなんだろ。さっき二人だけと言っていたし、自分でもちょっとだけ消化しきれない奈緒の考えに、なんとなく視線が奈緒の目から口へ、そして胸元へと流れた。
「ジュン、どこ見ているの」
少し目をいたずらにして上目使いにすると、ぷいっとした顔にした。
「エッチな事考えなかった。今。あーっ、二人だけと言ったから、変に期待したでしょ。だめですからね」
二人だけで行こうと言いながら、そっちはだめ・・。理解しきれない頭にクエスチョンマークを一杯立てながら、
「考えてない、考えてない」
と言うとまた下を向いた。
「淳、珍しいわね。あなたが、会社の同僚と旅行だなんて」
「まあ、たまには。毎回断ってもね。と言う訳で今回は行くことにした」
「どこへ行くの」
「西伊豆」
「うわーっ、いいな。お母さんも行ってみたい。西伊豆のどこ」
「戸田の方。温泉に入って海の向こうに富士山が、見えるらしい」
「えーっ、いいな。今度お母さんも連れって」
「お父さんと行けばいいじゃないか」
そう言って、いつも仕事でいない父親が座る椅子を見ると
「そうだね、親父は、後から来ると言うことで」
そう言って、にこっとすると、テレビの方に視線を向けた。
そんなことを思い出しながら、家を出たジュンは、そのまま用賀の駅に近くまで来た時、話しても良かったのかな。でも心配するし。と思うと、それを振り払うように急ぎ足で階段を改札方向に降りて行った。
田園都市線の三軒茶屋でレンタカーを借りたジュンは、奈緒に指定された小田急経堂駅の小田急線のガード下で待っていると、奈緒がOX側から歩いて来た。
爽やかな淡いブルーのブラウスに薄い白のカーデガン、少し茶系のスカートに、白いソックスと歩きやすそうなスニーカを履いている。白い大きな縁広の帽子をかぶって、手には、やや大きめのバッグと小物用のハンドバックを持っていた。
一泊なのに、女の子って荷物多いのかな・・。なんとはない疑問を抱きながら、運転席側のドアを開けて外に出て、後部座席のドアを開けると
「奈緒、大きなバッグは後部座席において」
「うん」
嬉しそうな顔をしながらジュンの言われた通りにすると、自分で助手席のドアを開けた。既にジュンの荷物も後部座席に置いてある。
「ジュン、すぐに分かった」
「うん、ちょっと面倒かなと思ったけど、ナビを見たら思ったより簡単だった」
そう言いながら、ブレーキペダルを踏んで、ハンドルの右についているスタートボタンを押すと静かにエンジンが掛かり、ナビパネルやダッシュボードにある計器類が光に照らされた。
「最近は、エンジンキーがないから楽だね」
奈緒は、そう言われても、そもそも運転免許証を持っていないよ。楽も大変も分からないままに
「ふーん、車の事あまりわからない、ごめんね。でも素敵な車ね。それに大きい」
ジュンが、自分の方に視線を流すと
「うん、奈緒と初めてのドライブだし、ゆっくりと二人で乗れる車を選んだ。それと前はね、エンジンキーを差し込んで、向こう側に回す手順をしていたから、それと比べると楽になったんだ」
サイドブレーキを左足で押してフリー状態にすると、ゆっくりと車を動かし始めた。OXの脇の道を通って、小田急の線路沿いに二〇〇メートル程走ると信号がある。ガードをくぐるように左に曲がり、坂を三〇〇メートル程上ると農大通りの信号に出た。
更にそれを左に行き、S字に大きく曲がる道路を少し行くと世田谷通りの信号だ。奈緒が不思議そうにジュンの顔を見ている。いつもおしゃべりな奈緒が、やたら静かなのでジュンは、
「どうしたの奈緒、静かだけど」
ちょっとだけ間が有った後、
「ジュン、ご両親になんて言って来たの」
「えっ」
真剣な顔で自分を見つめる奈緒の視線を感じながら、青になった信号を右折するとすぐに左折して用中通りに入った。
「うん、会社の同僚と西伊豆に行くと言っておいた」
「ふーん」
少しだけ寂しそうな顔をすると
「どうしたの、奈緒」
「ううん、何でもない」
「奈緒は、なんて言って来たの」
「ふふっ、ジュンとお泊りに行くって言っておいた」
「えーっ」
さすがにどきっとして
「それじゃ、反対されただろう」
「ふふっ、嘘よ。だって、ジュンと会っていることも教えていないよ」
一瞬、滑りそうになりながらまったくと思うと
「会社の研修会と言っておいた。まだ会社入って半年だし、全然疑わなかった」
「そう」
今度は、ジュンが少しだけ心に違和感・・罪悪感・・を感じた。まあいいか。そう思うと用賀四丁目の信号が、もう目の前だった。すぐに右折するとそのまま、環八方向へ走った。
環八に出て左折すると東名用賀インターは目の前だ。インターの信号で待ちながら、ジュンは、
「奈緒、朝食どうした。僕食べてない」
「うん、私は食べて来た。お母さんが早く起きて作ってくれた」
まだ、九時前だと思うと、優しいんだな奈緒のお母さんって。うちのお母さんなんか、まったく無関心だったものな。やがて信号が青になると右折してアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
背中が押されるように加速される。高速への進入路の坂を上がり、東名と首都高のつなぎ車線に入ると、首都高からの車を気にしながら、流れに乗るように三車線のセンターラインに入った。すぐにスピードメーターが一一〇キロを示すと巡航に入った。ジュンは嬉しそうな顔をして
「やはり三リッターあると二人で乗るには楽だな。加速がスムースだ」
奈緒は、車にはあまり乗らない。ジュンの言っている意味もあまりわかないが、フロントウィンドーから後ろに流れる景色がとても綺麗だった。
「じゃあ、奈緒。サービスエリアで簡単に食べるけどいい」
「うん、いいよ」
自分の横顔に視線を感じながら奈緒の言葉を聞くと少しだけ嬉しくなった。
「ジュン、嬉しそう」
「奈緒は」
「もちろん」
海老名サービスエリアで、簡単に遅い朝食を済ませたジュンは、三島インターで降りるとそのまま、恋人岬と呼ばれる西伊豆の観光スポットへ走らせた。そして今ここにいる。
「綺麗だろう。奈緒が、西伊豆に行くと言った時から、ここに来るのだけは決めていたんだ。後は、奈緒任せだけど」
そう言うと目の前に思い切り広がる海と空。水平線から立ち上る、とても大きな入道雲を見ていた。
いつの間にか奈緒が、ジュンの左手を握っていた。少しだけ寄り添うようにしている。ちょっと左に視線を流すと、奈緒が目を輝かせて同じ景色を見ていた。
柔らかな髪の毛が優しい海風に揺られ、耳元で更々と揺れている。透き通るような白い肌。博多人形の様に切れ長で大きな目、可愛いさと美しさが逢いまって、目が離せなくなるような横顔が風景の中に溶け込んでいた。
その姿を横目にしながら、奈緒とつないでいる、左手に付けている腕時計を見ると四時を少し過ぎていた。チェックインは、三時からだと思うと
「奈緒、もう四時だ。チェックインしない」
右にいるジュンの顔を見ると
「うん、そうしよう」
と言って、嬉しそうに頷いた。ジュンは、今度はアップダウンのある道を奈緒の手をつなぎながら、ゆっくりと歩く。
途中、入れ違いの人とぶつからないようにしながら、駐車場まで来るとポケットにあるマスタキーのドアロック解除のボタンを押した。がくっという音ともにウィンカーランプが点滅する。
助手席のドアを開けて奈緒を座らせると、自分は運転席側に回り、ドアを開けてシートに体を滑り込ませた。
三島インターから来た道を少しだけ戻るように走ると、来る時は、運転席側から右に見えた海の見える景色が、今度は助手席側から左に見えている。奈緒は、静かにその景色を見ていた。
「奈緒、疲れたの」
「えっ」
「いや、静かだから」
「ううん、とても綺麗だなと思って」
ちょっと、良かったのかな。西伊豆は良いのだけれど・・。不安とも期待とも取れない気持ちになりながらも、嬉しそうな顔は崩さずに、ジュンの方を見て言った。
さっきの観光スポットから一五分程、三島インターの方へ戻ると今日泊まるホテルがあった。道路沿いで、周りに大きなホテルがないのですぐに分かった。
二人で来た初めての旅行。西伊豆の素敵な景色が迎えてくれました。次回は楽しいそしてキュートな一夜を描きます。
お楽しみに