惡といふものについて
あゝ、惡といふものはどうして、美しく見えてしまふのでせうか。どういふものか、人は惡といふものに、自己投影はなはだしく憧れを懐いてしまふやうであります。
たとへば、法律といふものが惡の辞典であるやうに、どうしやうもなく社会的規律に縛られた、憐憫なる人間たちが、その唯一の捌け口として、惡といふものを用ゐるのです。 それは小さな惡に端を発し、とうとう人を殺します。
しかし、惡は憎まれるべき情緒だといふ考えが、私は好きではない。惡は内在的に人の裡側に聳へてゐるのにもかゝはらず、それを認めやうとしないことや、憎まうとすることは、強力な矛盾のもとに生きるといふことなのであります。
惡とかゝはりを持つまいとする人間に限つて、その胸に、惡を遥かに超越した、泥海の奥底のやうな感情が揺曵してゐることが多いのは、そのことの良い証明だと言えませう。即ち、勧善懲惡といふ自尊心の結晶のやうな言葉は、惡にも善にも当て嵌まらない、愚かで浅はかなものなのであります。
上に述べたことに加へて、善といふものにも、私なりに考えませう。善といふ言葉は、それはそれは画期的なものだと言えませう。といひますのは、己惚れ激しい人間が調子付き、悦に入ることに関しては、なかなか得難い言葉であるといふことです。
善といふ言葉が不完全であることから、善が、言葉などでは到底形容し難い情緒であらうことは明確でありませう。それを踏まへてみると、善といふ言葉が生まれたと同時に、善といふ情緒が、社会的規律に成り下がつたのは、言ふまでもないことであります。
ここで思ひ違へてもらつては困るのが、私は、勧善懲惡ならぬ勧惡懲善を論じてゐるわけではないといふことです。惡は惡の、善は善の、本来の在るべき情緒といふものを私は重んじたいと思ふのです。
善が、もつとも惡に依存した情緒であらうことは、誰の目にも明確でありますが、人が善に親しくあらうとするが故に、惡が発現するといふのもまた真実であります。
私は、それを嫉妬と見ます。隣の花は赤ひというふ言葉があるやうに、人はあまりに善に近付き、惡から遠ひ場所にあるが故に、惡といふ名の華は、どうしやうもなく、美しく、凛として見えるのでありませう。
善に近付きたひと思ふが故に、人は規律といふものを創るのです。規律は、人にとつて、アレはダメだコレはダメだといふものではなくて、ソレやコレをすれば褒められるといふ、善のメニユウ表のやうなものなのであります。善の遂行による称賛が、自己肯定の最もな材料となることは、どれほど愚鈍な人間にも判断がつきませう。
かくて、惡と善の相互関係と、それに翻弄される人間の在り方が成立されたわけですが、さて、人間だつて情に盲ひてゐるばかりではありません。人の裡にある善惡の境目が崩壊するのは、死の危機に直面した時と、瞬間的な憤りに支配された時であります。
たとへば、二人の人間がゐたとして、男がどちらかに向かつて銃口を突きつけたとしませう。男はもう一人の人間に、「お前とあいつ、どちらかを殺す。お前が選べ」と言ひます。
さて、ここで問題を呈しませう。
一、「おいらは死にたくないね。殺すんならそいつを殺しておくれよ」
一、「分かつた。おいらが死ぬから、そいつは助けてやつてくれ」
これはどちらが善の選択で、どちらが惡の選択なのでせう。私には分かりかねますが、本当に自身がさういふ状況に参加したならば、私ならば前者の答をとります。だつて、死にたくないんだもの。
これは一見すれば、愚かな答のやうに見えますが、実に明快な答と言へますし、また、疑ひやうのない真実であります。この選択が善惡を超越してゐるのは、情の介入し得ない自我の根底に、答を訴へかけてゐる点にあります。選択の瞬間の当事者は、死界の渕を感じてゐながら、この上なく冷静であると言えませう。
対照的に、憤りによる善惡の消失は、盲目であると言えませう。これは善惡の超越といふよりは、善惡の破壊であるといつたはうがよろしい。そして私は、さういふのが好きぢやない。
憤怒は、一つの慢心であると私は考へます。人が死の渕に冷静さを発揮するのは、前に述べたとほりでありますが、死の恐怖から離れ過ぎてゐるが故に、人は冷静さを失ひ、傲り高ぶるのでありませう。
よひですか。そのやうな人間こそ、私たちは愚か者と呼ばなければならないのです。
……そのやうなことを述べても、やはり惡が美しく見えてしまふあたり、言葉では情緒に勝てないといふことなのでありませう。手の届きやうのない、惡といふ華は紅く、艶やかで美しい。その華の美しさに、言葉は追い付けはしないのでありませう。