06
何だか顔がひんやりとしたので、ルニエは目を覚ます。
「あ……、起こしちゃったか」キュラソウはすぐに側を離れ、コルドン氏に向かって話し始める。「どうやら熱も下がっています。もう大丈夫ですよ」
しばらく二人は話し合っていたが、そのうちコルドン氏がキュラソウに何度も頭を下げて部屋を出ていった。彼らが話している間に、ルニエはベッドからもぞもぞと起き上がる。鏡をちらっと見て、見苦しくない程度に髪などを整え、キュラソウの鞄をベッドの上に移動させた。
「さてと、あれ? 僕の鞄は……」仕事を終えて帰ろうとする彼は、辺りを見回したが見当たるはずもない。
「先生、わたし着替えますから、部屋の外で待っていていただけます?」まだ鞄を捜しているキュラソウの背中を押して、無理やり外へ追い出した。
「え? 僕はもう……、あ!」ルニエのベッドの上に、彼は鞄を見付ける。
「駄目です。お話したいことがあるのです。せっかくなので朝食をご一緒しましょう」一方的ににっこりと微笑んで、そのまま入口の扉を閉めた。
持っていかれる心配もなくなったキュラソウの鞄を椅子の上に移動させ、ルニエは着替えを始める。寝顔や寝起きを何度も見られている彼に、今更少しくらいの誤魔化しをしても効かないと思ったが、顔を洗い、丁寧に髪をとかして左右に分けて編んでみた。
あれから三十分くらい経っただろう、鞄を持ってルニエが恐る恐る部屋から出ると、そこにキュラソウは見当たらない。鞄を取り上げておけば帰られないだろう、とルニエは思っていたのに、まさか諦めて帰ったのだろうか。ガッカリして、腕に抱えた鞄を見つめ、思わず溜息を吐く。
「がっかりした?」扉の陰から顔を出した彼が微笑んだ。
「もう……、先生って大人気ないのね」
ルニエが頬を膨らますと、キュラソウは顔の横でよく分からないジェスチャをして早速自分の鞄を取り返した。
「……ルニエ、そういえば君は、昨日の夜のことを覚えている?」
彼に言われ、ルニエは昨日の夜とやらを思い出してみる。ラ・コスタに会ったことだけは覚えていたが、会えて嬉しかったことくらいしか具体的に思い出せない。
「夜ですか? えっと、よく覚えていません。風邪を引いて熱があったせいかしら」
彼は無言のまま顳顬を押さえる。明らかに『君の発言には頭が痛い』とでも言いたそうだった。実際、風邪による熱は午前中のうちに下がっていたはずだし、彼が呆れてしまうのも当然だ。
「先生も風邪ですか?」まさか自分が染してしまったのだろうか、と心配そうに近寄ると、キュラソウはその分だけ離れる。「先生! いくら、わたしの心が広くてもそのうち怒りますよ」
何となく、ルニエは傷付く。
「誰の心が広いって? 風邪はもう治ったんだから、これ以上振り回さないでくれ」
語尾をきつめにしてみたらしい彼の発言も、ルニエの前ではカップの割れたソーサくらい役に立たなかった。諺にすると、砂に種を播く、もしくは空気に鞭打ちといったところか。
ルニエは一方的にキュラソウと腕を組む、というより、逃げられないように押さえ込んだ。「あら駄目です。わたしはお礼がしたいのですし。さあ先生、わたしとゆっくりお話しましょう」
「……分かったよ。朝食をしながら、話を聞けば良いんだね」
ついに彼は諦めて抵抗を止めたようだ。抵抗を続けることにより、体力を始めとした多くの無駄を生み出すならば、一つだけの我慢をしようと心に決めたに違いない。可哀相な医師は、患者に引きずられるように食堂へと向かう廊下を歩いていくのだった。
食堂に入ると、食事を終えたルニエの妹がすれ違いで出ていく。ルニエよりも明るい金髪に、普通の薄茶色の眼。彼女のその目が、一瞬、興味深そうにルニエとキュラソウを見た。
中のテイブルでは、コルドン氏が食後のコーフィを飲んでいる。
「おや……? 先生どうしたのですか。これルニエ、はしたない真似は止めなさい」
父に言われてようやくルニエは腕を離した。「お父様、わたし、お礼も兼ねて、朝食にお誘いしたの。構わないでしょう?」相槌を求めるようにキュラソウを見る。
仕方なさそうに彼は苦笑いをして、勧められた椅子に座った。そこはコルドン氏の斜め前に当たり、ルニエは彼のすぐ隣に座る。コルドン氏の隣に座ってもらったほうが良かっただろうか、とルニエは思ったが、この座り方のほうが自然だろう。
「ああ、すっかり元気になったようだな」
「ええ、お父様」いかにも元気になった、と言わんばかりにルニエは微笑んでみせる。
「しっかり食べておくんだぞ」
コルドン氏の言葉に、ルニエは無言で頷いた。
「サラダとハムエッグと紅茶を」入ってきた女中にルニエは言い、注文を促すように、とキュラソウを見る。
「僕は薄いコーフィだけで良い」彼の頼んだのはコーフィだけだった。朝食を既に食べてきているのだろう。
注文を受けた女中が手拭を置いて部屋を出ていくと、コルドン氏はカップを置いてキュラソウをじっと見る。「そういえば、先生はかなりお若く……見えますが、ご結婚は?」娘の風邪が治って安心したのか、昨日とは違ってずいぶんと落ち着いていた。
「ええ……、結婚はしていません」視線を気にするようにキュラソウは答える。
ルニエも父がキュラソウをじっと見ているのに気付き、その理由を考えた。
「ほう、だが素敵な恋人がいらっしゃるのでしょう。では……、は仕事があるので」意味ありげに微笑んで、コルドン氏は出ていく。
苦笑いをするキュラソウ。明らかにコルドン氏は『娘に手を出さないよう』釘を刺していた。しかし、現状は主治医が手を出すというより、振り回されているのだ。
「素敵な恋人がいらっしゃるの?」コルドン氏の姿が見えなくなると、すぐにルニエは聞いた。
「さあ? どうだろう……」
「あら……、見栄を張って隠されなくても結構です。本当はいらっしゃらないのでしょう」
曖昧な返答に対し、ルニエが満足げに微笑んでいると、そこに女中がコーフィを運んできた。深い青のカップからは、熱そうな湯気が溢れている。
「お砂糖とミルクはどうなさいますか?」
「いや、結構だ」キュラソウは礼を言って、手を拭いたあと、なにも加えてない液体をスプーンでゆっくりとかき回した。
ルニエが彼に少しもたれかかるようにしてなにか言おうとしたが、女中が今度はルニエの注文した朝食を運んできたので、背筋を真っ直ぐ伸ばしてすまし顔を作る。それらが並べられるとルニエは女中にお礼を言って微笑み、手を拭いてナプキンを膝の上に広げると素早く紅茶の中へ側にあった角砂糖を二個入れた。
女中がいなくなり、また二人だけになる。キュラソウはまだコーフィをかき回していた。ルニエは紅茶を一口飲んで、ブレッドロウルを手に取る。
「先生は……、おいくつですか?」
「二十三歳」酷く不熱心に彼は答えた。
たしかに若い。ルニエは彼の年齢を聞いた瞬間に、ブレッドロウルをちぎりながらも、まず自分との歳の差を計算した。誕生日を迎えるとその差はラッキィセブンだ。せっかくなので、この運の良い数字を祝して、なにかしなければいけないと思ってしまったくらいだった。
「で、話ってなに?」
「ええ……、お願いかもしれませんけど」ルニエはときどき上目遣いでキュラソウを見ながら、ナイフとフォークを手にしてハムエッグを切り始めた。
頭の中では、なにをお願いしようか考えていた。初めからルニエはキュラソウに特別話したいことがあったわけでもなく、話題は何でも良いから話すこと自体がしてみたかったのである。主治医と患者ではなく、キュラソウとルニエとして。
ラ・コスタのことが聞いてみたくもあったが、それは何となく憚られた。
彼はようやくスプーンを置いて、ソーサごとカップを引き寄せると、ゆっくりと確かめるようにカップを口元に近付ける。
「そうだわ! わたしと結婚して下さいません?」ルニエが顔だけを彼に向けて言った。
キュラソウは咳き込んで、慌ててカップを置く。彼にとって、よほど不意打ちな発言だったのだろう。それから彼が落ち着いた精神を取り戻すまでにしばらくかかった。ルニエは、彼を動揺させることができたことが嬉しく、笑い出すのを堪えるのが大変だった。
「それは……、なにかの仕返し? 冗談にしては笑えない」
「まあ酷い! わたし本気です」
口元を押さえてキュラソウが顔をしかめると、ルニエは大げさにショックを表すような動きをする。フォークに刺さったままだったハムが、反動で落ちそうになった。
「……なにが本気なのか知らないけど」眼鏡を押し上げる仕草をして声をひそめる。「でも、別に僕と結婚したいわけじゃないだろう?」
「まあ……、そうですけれど、わたし……先生のことが嫌いではありませんし、きっと好きになれると……ええ、断言できますわ」
ルニエはにっこりと微笑んだ。
キュラソウは顔をしかめたまま、ルニエの台詞に眉を少しだけ動かす。そして彼が顔を逸らしてコーフィのカップを持ち上げると、さっきの動揺のせいでソーサにはその液体が零れているのが見えた。ちょうど三日月のような形だった。
ここから始まった会話のない状態は、ルニエがハムエッグとサラダを食べ終えて、紅茶を飲みながら話を蒸し返すまで続いた。途中、話しかけようとしてルニエは何度かキュラソウの表情を覗き見たが、彼はコーフィをちびちびと飲みながら、ずっとどこか遠くを見ていたのだ。まるで周りに誰もいないかのように。
笑える冗談を提供したつもりだったルニエは酷く落ち込み、作戦の失敗をこの沈黙の中で悟る。一方で、もはや引っ込みがつかなくなってしまったことを感じていた。
「先生、ご返事をいただけます?」
区切りをつけておかなくては、とルニエがようやく会話を切り出すと、ルニエの存在をやっと思い出したかのようにキュラソウは振り向いて、「断る」と短く答えた。
「まあ、何故ですか」
「自分で考えなさい」
空のカップを置き、キュラソウは立ち上がる。ルニエは彼の白衣の襟元に茶色の染みができていることに気が付いた。だが、たった一言それを言い出すまえに、彼はコーフィの礼を言って帰っていってしまったのだ。引き止める間もなかった。
手に持ったティーカップの中にはまだ紅茶が残っていた。底には運悪く溶け残った砂糖が僅かに淀んで、これ以上飲むことを拒んでいるかのようだった。




