05
ルニエが起きている間に、コルドン氏は三回も様子を見にきた。キュラソウは魔法で解熱したことをコルドン氏に伝えてはいないだろう。平熱に戻った体温計を見せ、薬を飲んで熱は下がったと言っても信じてもらえない。まさか、ルニエが嘘を吐いているとでも思っているのだろうか。寝ていなさい、と言われ、今日は部屋から外に出さない方針のようだ。
けれどルニエは別に構わなかった。ラ・コスタはきっと、ルニエの部屋のバルコニィからやって来るので、部屋の扉の外に見張りが十人いようが百人いようが問題ない。
ただ、十時になるのが待ち遠しかった。
しまっていたハーモニカを引っ張り出してきて、ラ・コスタが歌っていた曲をどうにかして吹いてみようとしたりもしたし、一秒ごとに左右に身体を揺らしてみたりもした。
だけど、頭の中がますます痺れてぼーっとするだけで、全くなにも効果がないことがすぐに分かる。
そんなことを続けていると、やっとのことで日が暮れた。ルニエは夕食にと女中が持ってきた甘いはずの卵サンドウィッチを食べたが、ポリッジとは逆で、今度はまるで味のないサンドウィッチを食べている気分だった。
シャワは止めておこうかと考えつつ、やっぱり速く時間が過ぎろ、と念を送りながらベッドの上でぼんやり時計を眺めていると、数々の努力からくる疲れによる催眠効果も相まって、さらに食後とあってか、ルニエはまたうとうとしてくる。
もうすぐ九時。ラストスパートだと言い聞かせる側から、ルニエは自分の意識が朦朧としてくるのを感じた。
少しまどろんでいたルニエは、なにかを叩くような物音でふと我に返る。
辺りを見回すが、当然のごとく人の姿はない。自分の見ていた夢で目が醒めたのだろうか。ルニエは前髪を掻き揚げた。
再び音がする。今度はグラースを叩く音だと気付き、ベッドから起き上がって窓の方を見た。右側から月光が当たる中、相変わらず大きめの制服を着た少年が熱心に右手を振っている。
ラ・コスタだった。
ルニエは一気に眠気が吹き飛んだ。ついさっきまでシートの中で眠っていたので、髪の毛がボサボサになっているのではないか、と急いで手で押さえてみた。
時計を見たが、まだ十時にはなっていない。ルニエはベッドから滑り降り、ゆっくりとバルコニィへの扉を開ける。風が髪をとかすように吹いた。
「中に入っても良い?」ラ・コスタは上目遣いでルニエを見る。
返事の代わりにルニエが扉をラ・コスタが入れるくらい開けると、彼はネズミが巣穴に逃げ込むほど素早く入って扉を閉めた。
「待って、いま……明かりを点けるわ」薄暗い中でずっといたルニエはこの暗闇に目が慣れていたが、ラ・コスタに気を利かせて言う。
「良いよ……、このままで。眩しいのは苦手だし」
たしかに、彼のとても色素の薄く白っぽい髪は、強すぎる人工の光より、淡い月の光がよく似合う。彼を彩る色調を正しく判断できる機会を逃したことは残念だったが、ルニエは寝起きの自分をはっきり見られないことにホッとした。
「外は寒いでしょ? すぐ帰るつもりだから、ごめんね」
申し訳なさそうに言う彼は、このまえと同じ印象だった。
月が少し欠けてしまったから、もしかすると違って見えるかもしれない、とルニエはどこかで心配していたのだ。だが、欠けていようとも月が及ぼす魔力の効果は絶大で、あたかも彼が命を吹き込まれた人形であるかのように錯覚させる。昼間の彼は、動かないのかもしれない。
独りで勝手に想像して笑いつつも、再び彼に会うことができて、ルニエは純粋に嬉しかった。
「すぐに帰ってしまうの?」
まだ十時まえなのに。せっかく会えた喜びが、しゅるしゅると萎んでしまう。
「え……?」ラ・コスタは困った顔をしたみたいだ。「だって……、ルニエは十時からなにか約束があるんだよね」
「ええ、あなたとの約束が」ルニエはドキドキしながら、念のためにゆっくりじっくりはっきり発音する。
「僕と?」
「昨日の夜、今日の十時なら、って……約束したわよね」明らかに彼の声が上擦ったのをルニエは聞き逃さなかった。
「ああ、それは明日だよ……」ラ・コスタは溜息を吐く。「約束したのは昨日じゃなくて今日の朝、だから明日の夜十時が約束の時間のつもりだったんだけど。何だ、会う約束があるって僕のことだったのか」
独り言のようなラ・コスタの台詞を聞きながら、ルニエは頭の中で時計をぐるぐる回して納得する。ルニエの中では、夜の睡眠のまえが昨日、後ろが明日なのだ。
「では……、どうして来てくれたの?」
明日も会えると分かって、またさらに嬉しい。
「お見舞いだよ。君が風邪を引いたのは僕のせいでもあるわけだし、謝ろうと思って」
「嬉しい……」ルニエは本当に嬉しくて、ついつい口元が緩んだ。と同時にキュラソウのことを思い出す。「あ……そうだわ、ラ・コスタってお兄さんがいるでしょう?」
これは保険だった。当たっている自信はあったのだ。
ルニエはベッドに腰をかけ、ラ・コスタにも椅子を勧める。
「いるよ、……なに? それがどうかしたの?」不信そうにラ・コスタは見ていたが、突然軽く噴き出した。「……そういうことか、なるほどね」
くすくすと笑っているラ・コスタを尻目に、ルニエはこれをさらなる根拠として、本格的にキュラソウ医師とラ・コスタの兄弟説を支持することに決める。
ルニエは、またラ・コスタに椅子を勧める。勧めた椅子は昼間キュラソウが座っていたのと同じ椅子だった。しかし彼は、椅子には座らずにルニエのすぐ隣にちょこんと座る。
「え?」
予想外の行動に驚いたルニエは、つい驚きを声で表現したので、ラ・コスタは瞬時に人形のように首を動かして反応した。
「……嫌なの? べ、別にルニエの側にいたいとか、そんなんじゃないよ。だから安心して。あ、ほら……、正面に座っていると、ずっと顔を見られるじゃない? 僕はそれが嫌だから」
必死で言い訳をしているみたいに見えたが、ルニエが目を見ながら話しかけるとすぐに逸らされることからも、実際に彼は嫌なのだろう。隣に座っていようがルニエは彼を見るだろうし、大して意味はなかっただろうが。
「わたしは……」さすがにルニエも、どっちかというと『君の側にいたかった』の理由が良かった、などとは言えずに言葉を濁す。
なにか言いたいことがあるのに、何と返事をすれば良いのか分からなかった。もっと彼と話したい。もっと彼のことが知りたい。でも、どうすれば良いのか判らないのだ。
ルニエが一生懸命考えていると、頭で発生した熱で顔が熱くなる。頬が高揚して真っ赤になった。だが、月明かりだけでは顔の赤さまで見えないだろう、と思い、とりあえず横に座られるのが嫌でないことを伝えるために、必死で首を振ってみた。
「ええっと……、大丈夫?」ラ・コスタの手がルニエの頬に触れる。
相変わらず冷たい手だったが、それでも熱の発生源を生み出す逆効果で、頬の熱さは下がりそうもない。せめてルニエは落ち着こうと思い、しばらくじっとしていることにした。
「困ったな。……それ、僕のせい?」彼は手を離す。
混乱して思考回路が工事中のルニエは、ラ・コスタが言っている意味を理解するために使う通路が一歩手前で通行止めになっているらしい。
「ええ……」意味も分からないくせに首を傾げながら返事をした。
「泣くなんて、フェアじゃないよ」
「わたし泣いてなんかいないわ」
あまりにも自信ありげにルニエが言うので、さらにラ・コスタは言い返そうとしたようだが、そもそもルニエとの会話は妙でちぐはぐで成り立っていない。
「分かった。もう、今日は君もう寝なさい」
「きゃっ!」
ルニエを枕に押し付けて、無理やりシートを被せる。押し倒した拍子にラ・コスタの脇腹へルニエの足が入った。彼は一瞬眉をしかめただけで、酔っ払いを相手にしているつもりで諦めたのだろう。
「ほら寝なさい。君が眠るまでいてあげるから」仕方なさそうに彼は横の椅子を引き寄せて座って足を組む。
「あら、先生みたい。ねえ先生、手を握っていて下さる?」ルニエはシートから左手を出してひらひらさせた。
我侭な姫の言う通りに、彼は手を握ってくれる。
「本当に眠るまでいてね」
「ああ」答えるラ・コスタの表情は半ばやけくそだ。
「あの歌、あの歌を歌って、……ねぇ」
今度は甘えるようにルニエが言うので、ラ・コスタは耳元でそっと小さな声で呟くように歌ってくれた。きっとしがらみを捨てて諦めたのだろう。
時計はまだ十時になるまえ。彼はベッドの中で眠るルニエの手を握り、疲れた顔付きでそのまましばらく歌い続けていた。




