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04

「お嬢様、お目覚めになられる時間です」


 ルニエは女中の声で目を覚ます。朝の六時になると女中はまず部屋の外からルニエに呼びかけ、そして部屋の中に入ってくる。彼女はカーテンを開けて部屋の空気とシートを換えなければならないのだ。


 だから、彼女が起こしにきたということは、きっと六時になったのだろう。


 酷く喉が渇いている。瞬きをし、手足を伸ばし、夢の続きを見ているようにまだ頭がぼんやりしたままルニエは起き上がり、顔を洗って服を着替えようと思った。


「おはようございます」女中が部屋に入ってくる。


「ええ、おはよう……」かろうじてルニエは返事をした。


 深呼吸をして立ち上がったが、歩こうとしても身体のバランスが上手く取れない。生まれたばかりの小鹿のように足元がふら付き、ついには膝が折れて、ルニエは柔らかな絨毯の上に倒れ込む。


「お……お嬢様!」


 そのあと、女中が悲鳴を上げたようだ。


(顔が熱い……)


 床に絨毯が敷かれてなければ、もう少し熱を奪ってくれるのかもしれなかった。


 周りはとても静かで、騒がしいはずのなにもかもが掻き消され、ルニエの頭の中ではただ一つ、ラ・コスタが歌っていたあの歌だけが、何度も何度も繰り返されていた。


                         *


「ルニエ、私が判るか? 安心しろ、先生を呼んだからな。もう大丈夫だ」コルドン氏は汗ばんだ手でぎゅっとルニエの手を握り、台詞とは反対に自分は安心してない顔付きで言った。


 気が付けばルニエは、自分のベッドで横になっている。いまは何時だろう。彼が邪魔になって、枕元の時計も壁にかかっている時計も見えない。


 ルニエは酷く喉が渇いていた。喉の渇きのせいで、何だか喋ることさえ疲れてしまいそうだ。


 部屋の扉がノックされる。コルドン氏が返事をすると、女中がワゴンを押してなにかを運んできた。その後ろから入ってきた白衣の人物を見ると、コルドン氏の張り詰めていた表情がやっと緩む。


「先生! お待ちしておりました。さあ、こちらにどうぞ。お知らせしたとおり、今朝、急に倒れたのです。娘は……、娘の容態はどうなのでしょう」


 近付いてきた主治医のキュラソウは、ルニエの頬に軽く触れ、微笑んだ。「熱がありますね。いつもより2度ほど高い。ルニエ、僕が誰か判る?」


 ルニエは頷く。彼の指先は冷たかった。


「頭痛はする? 喉は痛い?」


 いくつかの質問に、首の動きだけで返事をする。


 最後に彼は、ルニエの目や喉を診た。「風邪のようですね。薬を飲んで大人しく寝ていれば、すぐに治るでしょう」


「そうですか……、一先ず安心しました」それを聞いたコルドン氏は、ほっと胸を撫で下ろす。「娘の具合が悪ければ仕事もはかどりませんからな。それでは、あとはお願いします」さらにルニエを見て言う。「ルニエ、ちゃんとブランキットを着て眠らなかったのだろう? 今日は一日、部屋で大人しくしていなさい」そして、ルニエが返事をするのを確かめると、名残惜しそうに部屋を出ていった。


 女中が持ってきたワゴンをルニエの枕元まで押してくる。台の上に水差しやグラースなど並んでいるのが見えた。


「水分を取ったほうが良い。飲めるかい?」


 提案に対し黙って頷くと、女中がグラースに水を注いでルニエの前に差し出す。キュラソウの助けを借りて起き上がり、ルニエは受け取った水を飲んだ。いままで、これほど水がおいしいと思ったことはない。この冷たい水のお蔭で、ちょっと元気が出た気がする。


「ありがとうございます。ちょうど、わたし……、水が飲みたかったの」無駄にグラースをぐるぐる回しながら、できるだけルニエは微笑む。


「それはどうも。……で、君は風邪ね。心配しなくて良い。この時期に薄着で外に一時間もいれば、普通は引くよね。えっと、熱は……38度5分」


 軽くルニエの額を触ったあと、鞄から取り出したメディカルチャートに次々と記入していくこの医師をルニエは驚いて見つめた。黒い、猫みたいに細い髪と黒縁の眼鏡、ブラウンの眼。これまでただの主治医だった彼が、急になにかの対象に含まれた気がして、しばらくじっと見つめる。


 何故、彼は昨夜のことを知っているのだ?


「先生のお名前、何と仰いましたか?」白衣の端を引っ張って、恐る恐る尋ねてみた。


「キュラソウでしょ? もしかして、思い出せない? 熱のせいで意識は多少あやふやか……、困ったなあ」


「違います。ファーストネイムです。わたし知りません」本当に困っているのかよく分からない困り方だ、と思いながら、ルニエは一応睨んでおく。


「ファーストネイム? どうして? そんなの知らなくても問題ないよね?」


「……まあ、そうですけれど。ほかにたくさんキュラソウ先生がいらっしゃったら、どのキュラソウ先生か判りませんし」


 よく分からない理由付けをしてみたところ、彼が一瞬だけ口元を引き攣らせるように笑った。


「医師のキュラソウは僕くらいだと思うけど、しょうがないな、今日は特別に教えてあげる。……僕はケイだよ」


「ケイ?」


「そ、キーパのケイ」その例えがルニエには解らない。「咳はないようだから解熱剤を出しておくね。食後に飲んでちゃんと安静にしておくように。以上」彼はメディカルチャートを閉じ、鞄から紙袋を取り出して文字を書き込み、薬を入れてルニエに渡す。


 ルニエはやけに準備が良すぎる、と思った。いつもなら、診察が終わって薬が出るまでに数十分はかかっている。診察結果をもとに、この家から薬剤師に薬を発注しているからだ。


 それを怪しんでいる心理が顔に出ていたのだろうか、キュラソウは苦笑いをする。「この時期、風邪引きが多いから、すぐに渡せるように解熱・鎮痛・咳止め辺りの薬は予め用意してあるんだ。もしかして、念のために咳止めも出しておいたほうが良い?」


「え、……いえ。大丈夫です」


 彼の反応が明後日の方向なのは、よく考えればいつものことだったのかもしれない。


「今日はこの薬を一錠ずつ三回、食後に服用して、くれぐれもベッドで安静にしているように」


 彼が差し出した紙袋をルニエはじっと見つめる。


 ベッドで安静に……、頭の中にその言葉が響いた。それはルニエにとって都合の悪い条件で、それを忠実に実行するということは、今夜会おうと思っていたラ・コスタと、会えなくなってしまうことを意味する。すると、ルニエがやっとの思いで掴んだ、せっかくの約束が無駄になるではないか。


「あなたもありがとう。お薬を飲みたいから、なにか食べ物を持ってきてもらえる?」


 ぼんやりする頭の端で、ルニエは考える。


「はい、分かりました」


 さり気なく女中を部屋から追い出すと、彼女が確実に出ていくのを確かめてから、ルニエは上目遣いでキュラソウを見る。


「今日、外に出たら駄目ですよね?」


「……さっきの話、聞いてなかった? 今日、君がいるのはシートの中」


 一応、聞いてはみたが、彼は微笑みながら即答した。しかも、いつの間にやら鞄の中身を片付けて、もう帰る気満々そうだ。ここで逃げられたら大変、と白衣の裾をまた引っ張って、必死でルニエは訴えた。


「あ、あの……わたし、今晩会う約束をしている人がいて。暖かくしますから、どうしても外に出ては駄目ですか? もし駄目なら……」


 キュラソウは人差し指で、ルニエの鼻の頭をつんと押した。話が途切れる。


「そんなに固い決意なら、僕にわざわざ言わないで、内緒で外に出れば良かったね」


 全くその通りの意見だったので、恥ずかしさでルニエは顔を赤くした。彼は微笑んで、鞄を置くと側にあった椅子に腰をかけて足を組む。話を聞いてくれるというのだろう。


「……そう、ですよね。先生に話を聞いてもらいたかったのかしら。どうしたら良いのか分からなくて……。せっかくした約束だから、熱があるからといって反故ほごにしたくないの。でも、無理をしてお父様に心配もかけたくないわ」彼は微笑みながらルニエの話を聞いてくれている。「どうして熱があるのかしら。すぐに熱が下がれば良いのに……。熱が下がればお父様に心配もかけずに、約束も守れるわ。けれど、そんな都合の良いお話なんて……、ありませんよね?」


 上手く表現できない胸の内のもやもやをルニエはできるだけ言葉にしようとする。


「あるよ」ゆっくりとキュラソウは答えた。


 ルニエはゆっくりと彼を見て、ゆっくりと息を飲む。ゆっくりと口を開いて、ゆっくりとゆっくりとまたたく。


「えっ……?」


 もしかすると聞き間違いである可能性を考え、しばらくキュラソウの出方を待った。


「けどね、これっていままで何回かやったことがあるのだけど、全員に不評でね。あれ? 全員じゃなかったかな……? どうしても、って頼まれてやったのに、みんな怒るんだ。怖いだろう?」難しい顔をして彼は言う。


「それ……本当ですか? わたし、怒りませんからお願いします」ルニエは嬉しくなって、すぐにお願いした。


「そうだね……、君がそれほど望むならやっても良いけど」


 あまり気乗りしなさそうに彼が言うので、多少の引っかかりを感じ、一つだけ質問をしておくことにする。


「あの……、そんな魔法みたいなことができるなんて、もしかしてなにか代償が必要ですか?」


「まあ……、人によると、多少ショックを受けるかもしれないね」彼は眉間に皺を寄せた。「あ、僕からの条件ならある。怒らないこと、殴らないこと、君からは誰にも言わないこと。あと仕事をくびにするのもなしだよ。……良いの?」


「……はい」


 ルニエが答えると意味ありげにキュラソウは微笑み、黒縁の眼鏡を外して鞄の上に置いた。彼が眼鏡を外しているのを見るのは初めてで、眼鏡を外すと意外に童顔で、神経質で近寄りがたそうな感じが緩和されるらしいことを知った。


 彼はわざわざ断ってベッドの上に腰をかけ、ルニエの前髪を掻き揚げて額に手を当てる。その手の冷たさがとても心地良くて思わずルニエは目を閉じた。


「じゃあ解熱をするよ。君の平熱付近、とりあえず36度にしておこうか」キュラソウは難しそうな声で、しばらくぶつぶつと呪文のような言葉を呟いた。「良し、このまま動かないでくれる?」静かにもう片方の手がルニエの頬にそっと触れ、唇が塞がれる。


 彼の冷たい唇。


 ルニエは驚いて目を開け、キュラソウを咄嗟に突き飛ばそうとする。彼がそれを見越していたのか分からないが、ぱっと立ち上がるようにして簡単によけられる。


「女性はやっぱり嘘吐きだね。怒らないって言ったのに」彼は不満そうに溜息を吐き、また眼鏡をかけた。


「ふ……普通、こんなことをされれば、誰だって怒ります!」


 顔を真っ赤にして、さらにルニエは枕を投げつける。キュラソウは当然のように受け止めると、キャッチボールをしているかのように、すぐルニエに返した。


「君は怒らないと思ったのに」彼は呟く。


「どういう意味ですか?」


 質問に答えないまま、キュラソウは鞄から体温計を取り出して渡してきた。これで検温をしろというのだろう。ルニエは、彼がいままで使ったことのない体温計を持っていることを初めて知る。疑わしいことだが、手で触れるだけで体温やある程度の状態が分かるらしいので、普段は彼が額や首筋に軽く触れるだけだ。若い娘であるルニエに彼が主治医でついているのは、コルドン氏がそこを気に入っているからである。


 しばらくして高い電子音が鳴り、間抜けな曲調に絶句しながら表示された体温を見ると、36度ジャストを示していた。


「え?」


「ほら、上手くいった? 自分で言うのも何だけど、見かけは酷いのに中身は確かな料理みたいでしょ。これでも本業は医師ドクタではなくて呪 医(ウィッチドクタ)だからね」


 少し自慢げに、おかしな例えをするキュラソウに思わず笑いそうになりながら、ルニエは納得できないながらも落ち着きをようやく取り戻し始めた。よく考えてみれば、彼はルニエの無理な願いを聞いてくれ、しかも何度か確認した彼に同意したのはルニエなのだ。


「ごめんなさい、でも本当にびっくりしたの。……ねえ先生、呪医ってわたし聞いたことがありませんけれど、医師とどう違うのですか」


 キュラソウは椅子に座り直して、やはり足を組む。「呪医はね、魔法が使えるんだ」


「あ! まさか魔法って、回復呪文のことですか?」ルニエはあのとき、彼が微笑んだ意味を理解する。たしかに、これは魔法なのだから。


「そう。健康体に対して回復呪文を使っていると、自己治癒力の低下が見られる場合がある。だから、通常の治療でこれを使うことは望ましくない。正直な話、口移しでなくても解熱くらいできるんだけどね。細かい調節がしやすいし、なによりも患者の負担が少ない。あ、でも、今回は君の反応が予想よりも速かったから、後半の仕上がりは完全ではないかもしれないな。微調整しておこうか?」


 慌ててぶるぶる首を振りながら、キスをされたことを思い出して、ルニエの顔がまた赤くなる。果たして、この方法を知っていたとすれば、ルニエは彼に熱を下げてとお願いしただろうか? 必死で医療行為、医療行為だと思い込もうとする。


「もう一つ……、先生にお聞きしたいことがあります。先生には弟さんがいらっしゃいませんか?」深呼吸をしながら、ふと思い付いた話を切り出すことができた。


「いるよ。でもそれがどうしたの?」


 ルニエは満足そうに微笑む。彼はラ・コスタの兄なのだ、とそう思った。


 同じように冷たい唇……。面影がよく似ている。特にそれは眼鏡を外したときに感じた。繊細で儚げなラ・コスタを日向ひなたで培養して、もっと図太くしたらこんな風かもしれない。もちろん、ルニエのこの判断に深い意味はなく、単に彼のほうが髪の色素が濃いせいであろう。黒い眼鏡のフレイムのせいかもしれない。


「そういえば、この部屋にいると眠くなるね。ラベンデュラの効果かな」キュラソウは余計に瞬きをして、小さく欠伸をする。ルニエの質問には大して興味がないようだ。


 ルニエは驚いた。

「……よく分かりましたね。昨日の香りが残っていたのかしら」


 昨晩、眠れなかったルニエがポットの水面に垂らしたのが、安静効果があるラベンデュラのオイルだった。


「解熱はしたけど、念のために一度は薬を飲んでおいてくれる? それに室温は下がるけど、ときどき軽く換気もすると良い」キュラソウは立ち上がって鞄を手に取った。ルニエの頭を軽く撫でる。「一応、明日も来るけどお大事に」


 完全に子ども扱いされている、とルニエは思う。でも、近付いた彼の白衣から微かにルニエには飲めないコーフィの匂いがして、何故だかやはり彼は大人なのだな、と思った。


 掌をひらひらしながらキュラソウは扉を途中まで閉め、再び顔を覗かせる。

「あ、そうだ。今日、人に会うのは何時から?」


「じゅ……十時からです。……夜の」聞かれた根拠が見えないまま、とりあえず答えた。


「そう、じゃあまたね」


 返事を聞くと、夜の十時という時間帯に疑問をぶつけることもなく、彼はすぐに扉を閉めて行ってしまう。


 ルニエは周りに誰もいないことをわざわざ確認すると、自分の頬に両手を当てて深呼吸をする。熱は下がったはずなのに、手は冷たく感じた。


(先生はきっと、ラ・コスタに昨日の夜のことを聞いていたのだわ。だから、あんなに準備が良かったのね)


 ぼんやりと時計を見た。もうすぐ八時だ。なにか少し食べて、熱い紅茶が飲みたかったが、熱も下がったということで早急に薬を飲む必要もない。眠かったということもあり、もうしばらく寝ていることにした。


 シートの中で目を閉じて、キュラソウのことを思い出してみる。


 彼がルニエの主治医になって一年以上が経つ。優しくて、知的で、ときどきルニエには解らない冗談を言う。初めて会ったときの印象も良かった。


 でも、歳はいくつで、家族は何人いて、好きな食べ物だとかも知らないし、ファーストネイムだってついさっき知ったばかりで、ルニエは改めて彼のことをなにも知らないことを知った。


(見た目はまだ二十代よね……。結婚はしているのかしら……。そうだわ、明日いらしたときに聞けば良いのよ)


 それから目を瞑ると、だんだんうとうとし始めてきて、お昼少しまえに女中がポリッジを持ってくるまでの間、どうやらルニエは眠っていたらしい。朝に頼んだポリッジも持ってきてくれたはずだろうに、どうやら寝かしておいてくれたようだった。そもそも、夜に不十分な睡眠をとったわけなので、昼間眠くなってもおかしくない。


 ルニエは、そのポリッジを流し込むようにして全部食べたあと薬を飲んだが、気のせいだろうか、いつもより甘く感じた。いろいろなことがあって、多少気分が高揚しているせいだろうと思った。


 午後に、普段なかなか読む気になれず、ずっと読んでいなかった本を読んだ。昨日までだったら泣かなかったと思われる場面で、不覚にもルニエは泣いてしまった。


 いつもとは違う、変な気分だった。


(どうしたのかしら……わたし)


 それに、本を読んでいる最中に少しでも気を抜くと、気持ちがどこか遠くに飛んでいってしまい、さっきまでどこを読んでいたのかが判らなくなって、開いた一番初めの行から読み返してみるが、やはり見覚えがなくて何ページも戻る、という一連の作業を何度も繰り返さなくてはいけなかった。


 最後まで読み終わり、本を閉じて本棚に戻してしまうと、どんな場面で泣いてしまったのかさえも忘れてしまった。頭の中が穴の開いた水桶みたいだ。


 溜息が出る。

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