03
でも、ルニエはもやもやっと何だか彼のことをもっとよく知りたくなる。子ども特有の純粋さと、スパイスのような大人っぽさが共存した人格はとても興味深い。この、中途半端に先が読めない反応が探究心をくすぐるのだ。
「家に帰らなくても良いの?」
話を続けるために切り出した話題だったが、ルニエはこの話題のせいでラ・コスタが帰ってしまうのではないか、と言ったあとで後悔した。しかし、普通に考えれば当然の質問であるし、こんな夜中では両親が心配しているだろう。
「両親は一緒に暮らしてない。それに今日は帰っても誰もいないから心配されないよ。といっても、彼は僕のこと心配なんかしないし」
どうもラ・コスタは、誰か男性と二人暮らしをしているらしい。
ルニエの後悔を一瞬でリセットすると、彼は背中に翼でもついているかのように、ふわりと軽く飛び上がり、再び彼の顎ほどの高さがある手摺の上に腰をかける。彼の視線の先には一つ、丸い満月。
なにかを誤魔化すための冗談かとも思ったが、彼は本当にこの場所へお月見に来ているらしかった。一所懸命に満月を見上げる様は、幼いころのルニエに似たなにかを髣髴させる。月は手に入らないものの象徴であり、コルドン氏もルニエに母は星になったと言ったではないか。
ルニエは、いまで感じたことのないほど心が弾んでいた。子どものころ、誕生日の前日に感じたワクワクに近い。新しい冒険でも始まりそうな。不思議なラ・コスタのすぐ隣で彼の横顔を見つめて、これからなにか起こらないだろうか、と少しだけ期待した。彼の繊細で壊れそうな表情を眺めているだけで、思わず涙が出そうだ。綺麗なものを見たときに感動するのと似ている。
全然飽きない。このまま、時間が止まれば良いのに、と思ってしまった。
「なに?」ラ・コスタは恥ずかしそうにルニエを見る。
「いえ……、本当に魅力的だと思って」
すまして答えるルニエの意図に気付いたのかどうか分からないが、ラ・コスタは眩しそうに目を細めた。
「当然さ。月には人を魅了する魔力がある。出始めの満月が色といい、大きさといい、視覚的に一番好きなんだけど、高く昇らないと、澄んだ空気を伝わって魔力が降りてこない」
ふわりと風が吹き、二人の髪が揺れる。
「魔力が必要なの?」
「まあね。僕の場合、なければ君とも逢えなかったかも」
「まあ……!」彼が冗談を言っているのだと思った。大げさに驚いた振りをして、ゆっくりと微笑む。「じゃあ、満月ではない明日は、もう、ここには来ないの?」
さり気なく口にしたが、彼女がいままで口にしたことのない類の意味を含む台詞だった。お月見を理由とすれば、単純に誘いやすかったのだ。それに対してラ・コスタは小首を傾げ、ルニエを見下ろす。その目はなにかを訴えているようでもあり、それを読み取ろうとしてルニエも目を見つめる。
「どうして?」ラ・コスタは目を逸らした。
「それは……!」目を逸らされて、つい言葉に力がこもってしまう。「明日もまた、きみに会えればと思って……」ルニエは自分の顔が熱くなるのを感じ、急に恥ずかしくなり声を萎めた。最後の辺りはちゃんと聞こえたかどうか分からない。
「僕に?」
「そう……、駄目?」
今日、出会ったばかりの人になにを言ってるんだろう、と思った。しかも、相手は年下で、それでもまた会ってこんな時間を共有したいと思っている自分がいるのだ。彼ともっと話したい。彼のことをもっと知りたい。
だが、彼はルニエにとって名前しか知らない人だ。次にまた会う機会は、ルニエが作らない限り、訪れないだろう。
「どうして僕に会いたいの?」
「会って、話をしたいの」
ラ・コスタは、呪いがお姫様のキスで解けると言っていたが、今回、ルニエはそのキスで魔法がかかってしまったのかもしれない。好奇心、という魔法が。
「僕と話を? どうして……?」納得がいかないように、また質問を繰り返す。
「きみのことが知りたいからよ」
「僕のことをどうして知りたいの?」
「きみに興味があるの」
「僕に……? 何故?」彼は決まって『僕』を強調して言った。
ラ・コスタが聞き返してくることは、どうして? ばかりで、このままでは埒が明きそうになかった。
恥ずかしさと後悔することを天秤にかけ、仕方なくルニエは、覚悟を決めて深呼吸をした。それはまだ、名前を付けるのは早すぎる感情だと思える。
それでも、彼と二度と会えないよりは、それでも良いかとルニエは思った。
「わたし……、きみが好きになったみたい」思いのほか、唇はちゃんと動いてくれた。
「きっとそれは、月のせいだよ」
また泣きそうになるくらい、ラ・コスタは優しく答える。けれど、どう見ても本気にしていない様子だ。
「そうね。きっとわたし、月の魔法にかかったのね……」
せっかく天秤にかけたのに、恥ずかしさも後悔も味わわなければならなくなったルニエがぽつりと呟く。まるで他人事のようにぼんやりと月を見つめていたラ・コスタは溜息のように一息吐き、座っていた手摺の上に立ち上がる。
「それじゃあ……僕、そろそろ帰るね」そう呟いて庭に飛び降りようとした。
突然の展開にルニエはびっくりして、飛び降りたラ・コスタが落ちたと思い、助けようと咄嗟に彼へしがみ付く。ここは二階のバルコニィで、しかも彼は手摺の上に立っていたわけだから、地面までミータはある。下に落ちたら絶対に怪我は避けられないだろう、と思ったのだ。
ラ・コスタの驚いた顔。
スロウモション。
浮遊感。
落ちるラ・コスタに引っ張られる形で、ルニエは手摺を乗り越える。そして予想外に小さい衝撃と共に、二人は近付いてきた地面に落ちた。下は、芝生だった。乾いた草の匂い。ルニエは恐る恐る身体を起こし、下敷きになっていたラ・コスタの顔を覗き込んだ。彼は目を閉じて、眠っているようにも見える。
肩を軽く叩いて、小声で彼の名前を呼ぶ。あのときは助けようとして、無我夢中でしてしまった行動だったが、結果的に彼が一人で落ちるよりもルニエの重さが加わった分、さらに悪い状況のようだ。身軽な人物であれば、これくらい飛び降りられるのかもしれなかったが、そんな危険な挑戦をしたこともなどもないルニエには、判断がつくわけもない。
「ラ・コスタ……」彼が反応を示さないので、頭を打ったのかもしれない、とルニエは泣きそうになる。
次の瞬間、唇が微かに動き、彼は目を開けた。そしてすぐに上半身を起こしてルニエを睨んだ。「……ってえな。なにすんだよ!」
今度は嬉しさで泣きそうになりながら、ルニエはラ・コスタに抱き付き、彼から乱暴に両手で突き飛ばされた。いきなり抱き付いたルニエもルニエである。しかし、バルコニィで見せた彼の優しさからは想像できない行動であった。
「誰だ……、お前?」
真っ直ぐに見つめる別人のような目は、少し怖い。どこか打ったからなのか、明らかに態度が変わっているように思えた。ルニエは目の前にいる彼の目をじっと見つめる。鋭い視線はルニエを見つめ返したまま、揺るがなかった。
ルニエは驚いた。
彼と視線を合わせたまま、ぷくりとルニエの中で一つの疑問が湧き上がる。――彼は誰だろう? と。そしてルニエはついに、全てを丸く収めるべく、いままでの記憶と知識を掻き集め、それ相応に自分が納得できる仮説を思い付くことができた。
ほっと溜息を吐く。
「わたしはルニエ。きみは誰?」
「オレは……、ラ・コスタだ」彼は少し動揺して答える。
否定されることも予想していたルニエは、微笑んで優しく尋ねた。
「いいえ、さっきと違う人でしょう。きみの名前は何というの?」
彼はショックを受けたように身を震わせ、しばし沈黙をする。
仮説はそこで確信となった。
「ねぇ?」
「…………お前は、オレがさっきと違うやつだって判るのか?」
ルニエは微笑んだまま頷いた。ラ・コスタとは違う真っ直ぐな眼差し、硬めのインタネイション、それだけを取ってもかなり差を見付けることができる。
「ええ、全然違うもの。だって乖離……いえ、違う人格なのでしょう?」
ラ・コスタがやたらと『僕』を強調していたのも、彼という人格を指していたに違いないのだ。
ルニエの答えを聞いた彼は、恥ずかしそうにルニエを見た。
「ジェイ……、オレはジェイ。いつも、誰も、オレを見てくれなかった。オレが『キレたラ・コスタ』としてしか見られないなら、いっそのこと……」そして彼は顔を伏せた。
ルニエはジェイの頬に手を当てる。泣いているかと思った。
外にずっといたからなのか、やけに冷たい頬だった。
「でも、ルニエは違った」
彼は照れ臭そうに笑う。それはさっきまでとは全く違う、別の少年の微笑だ。
(そう……全然違う。この子は純粋に喜んでいる。そもそも自分が認めてもらえないことに憤りを感じても、怖れを感じてはいなかったみたいだわ)
見つめても逸らされない目が、ルニエにとって嬉しい、よりも、残念、な感情を引き起こす。同じ綺麗な顔をしていても、彼とジェイはルニエにとって同じではないらしい、と判る。
「ルニエ、そういえば大丈夫か? オレは魔法で傷を治したりできないけど、怪我、ない?」
「あ、ええ、大丈夫みたい……」
ルニエは答え、怪我の心配よりもむしろ、どうやって自分の部屋へ帰ろう、と思った。玄関から帰るわけにもいかないし、二階へよじ登るわけにもいかない。バルコニィを見上げていると、彼がバルコニィとルニエを見比べた。
「上に戻る?」
「え?」
いきなり握手をするくらいのさり気なさで、彼がひょいとルニエを抱き上げる。ルニエは驚いてしがみ付いた。彼は信じられないことに、そのまま、ふわりと二階のバルコニィに飛び上がり、ベンチにルニエをそっと下ろす。
自分よりも小柄な少年に抱き上げられ、しかも二階まで運ばれたのだ。ルニエは信じられなくて、ベンチに下ろされたのに、彼にしがみ付いたまま離れられなかった。それでも、頭の片隅で、これならバルコニィに侵入するのも容易いだろう、と思った。
「ルニエ?」彼がルニエを覗き込む。
「え、あ、ああ……」
ようやくルニエは引き攣っていた緊張を解いた。目が合うと、ジェイは嬉しそうに数回瞬いて、ふと視線を宙に漂わせる。
「そうだ! 決めた。ルニエ、目を瞑って」ルニエの手を掴み、首から離す。
まだ中途半端にぼんやりしていたルニエは、大人しく言われたとおりに目を閉じた。頬にジェイの髪が微かにかかる。彼が早口でなにかを呟き、そして左瞼に柔らかな感触があった。
(なにかのお呪い?)
よく分からないながらも、握られていた手が離れ、急に彼が飛び退いた気配がしたので、ルニエはゆっくりと目を開ける。彼は俯き気味にさっと視線を逸らした。
「ねぇ……」
「ごめん! あいつ自分勝手で、君の気持ちも考えないでさ……。いまのはなかった……いや、できればすぐにでも忘れて欲しいんだけど」勢いよく彼は、歌うように答える。
そこにもう、ジェイはいなかった。
「お帰りなさい」ルニエは微笑む。「ジェイのときの記憶があるのね」
「ああ、もう少しだけ早く戻ってこられたら、こんなことは……。あとで彼に、よく言っておくから」
いきなり謝るところから始まったラ・コスタの話は、ルニエには全く要領を得ない。それにしてもラ・コスタは唇にしたくせに、ジェイはただ瞼にキスをしただけなのに大げさだ。
だが、ここはチャンスだ、とルニエは思った。
「気にしてないわ。その代わりお願いがあるの」
やっとラ・コスタはルニエのほうに目を向ける。ぎこちなく首を傾けて、髪を掻き揚げる仕草は、年齢に合ってなくて逆に可愛らしい。
「そう、相手にされてないってちゃんと分からせないとね。えっと、何だっけ?」
「また会う話よ。前向きに考え直してもらえる? 『きみ』と会いたいのだけど」今度こそルニエは、しっかりラ・コスタの目を見つめて言うことができた。
しばし沈黙。
「えっと……、しょうがないな」ラ・コスタは左腕の時計を見た。「明日……ね、夜の十時くらいからで良いなら。ところで、寒そうだね。早く部屋に入ったほうが良い。僕も帰らないと、……じゃあね」
彼は早口でそう言い残すと、暗闇の中に消える。当たり前のように手摺から飛び降りて、カサリという草の揺れる音がしたかと思うと、もう気配は全く消えてしまっていた。魔法学校の生徒はすごい、とルニエはこっそり思った。
丸い満月が綺麗に見えるバルコニィに独り残された少女は、幸せな夢から覚めないようにゆっくりと、暖かい部屋の中に戻った。
外気よりも温かい空気に促され、ルニエの顔は熱くなる。身体も震えた。時計を見るともうすぐ三時。あっという間だと思ったが、実際は一時間ほども、二人は一緒にいたことになる。
(ラ・コスタは、確かに明日も会えると言ったわよね)
彼の言った『じゃあね』という台詞を反芻する。
シートの中に倒れ込む。嬉しくて、また眠れそうにない予感がした。




