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今日のルニエは、割りと機嫌が良かった。昨日は家を飛び出してキュラソウに会いにいったので、帰ってきたらかなり怒られると予想していたが、何故かコルドン氏は上機嫌であり、自分がどれだけルニエを大切に思っているかをしつこく聞かされただけで終わってしまったのだ。
(先生がなにか言って下さったのかしら)
昨日のお説教で彼は、いつものように心配させるなと何度も繰り返していたのに、もうキュラソウに会いにいくな、とは言わなかったのだ。気にはなったが、監禁状態も解かれたので今更話を蒸し返すべきではない、とルニエは本能的に止めてしまう。
キュラソウと交わしたあの約束は、誰にも言わなかった。ルニエ自身、彼ではないが、まだ信じ切れていないのかもしれなかった。コルドン氏の勧めるお見合い話に反発していたルニエだが、本当は彼を悲しませるようなことをしたくなかった。キュラソウと一緒に行くということは、この家との別れを、同時に意味することなのだ。
エルはルニエの自部屋謹慎が解かれたことを喜んでくれ、キュラソウのことも追及されずに終わる。しかし、時期が近付いたら、彼女にだけは話しても良いように考えていた。誰かに話すとしたら、彼女が、最もルニエの気持ちを理解してくれそうに思えた。最後まで諦めないように、と言ってくれた彼女へ。
ルニエは椅子から立ち上がる。昼食のときコルドン氏が、三十分後くらいに彼の部屋へ来るように言ったからだ。どんな用事だろうかとぼんやり考えながら廊下を歩いて部屋をノックした。返事があって扉を開ける。
「ルニエです」
「ああ、こっちに来なさい。紹介しよう、彼女が新しいお前の主治医だ」
コルドン氏の隣には三十代後半くらいの女性が立っており、笑顔を浮かべて会釈する。ルニエは現状が把握できず、『新しい主治医』と聞こえたのが空耳であって欲しいと切実に願った。
「キュラソウ先生は……?」震える声で訪ねるのがやっとで、気を抜くと泣いてしまいそうになる。
「彼は引越しするそうでな。昨日、突然だが辞めさせて欲しいと言ってきた」
「そ……そう」
不意打ちを喰らったルニエは、息苦しさを覚える。急に、コルドン氏が上機嫌だった理由が理解できた。
「これ、ちゃんと挨拶せんか」ルニエが黙り込んだので、彼が困ったように眉をひそめた。
「ごめんなさい……!」こらえ切れなくなって部屋を飛び出す。
もちろん行き先はキュラソウの家だった。昨日の今日でいきなり引越ししてしまうなど考えられない。なにかの冗談であれば良いと、ずっとそれだけを考えた。
(嘘だと、嘘だと言って!)
息を切らせて走り、キュラソウの家にたどり着く。そこは空き家になっていた。ルニエの願いも届かずに、キュラソウはいなくなってしまっていた。玄関の扉を開けると、あの甘い香りの残り香がまだ存在していたが、鳥籠もカナリアも、本の山も、なにもかもなくなっている。
ポツンと残されていた傘立てに、ルニエが以前忘れていったらしいレイスの日傘が入っていた。
絶望感がルニエを押し潰しそうになった。日傘を手に、ふらつく足で家に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。心を盗まれてしまったような、どこか大事な部分が欠けてしまったような空虚な感覚で、昨日の会話を頭の中で気が遠くなるくらい反芻してみた。
(あの約束は嘘だったの? それとも、先生はわたしを試しているの? ずっと会わないでいても好きでいられるか……)
唇をきゅっと噛んで、ルニエは決心した。彼が試したいのなら、試されてやろう、と。彼が迎えにこなければ、ルニエが望もうと望むまいと、コルドン氏の言うとおりの相手と結婚させられるだけだ。だから、約束の日にきっと彼が迎えにきてくれる、と。……そう信じて。
そう、それからキュラソウには会っていない。彼が引越しした二、三日後にルニエはたった一度だけ、彼があの女性と腕を組んで歩いているのを見かけたが、どうしても声をかけられなかった。
それっきり、彼を見かけることはないまま、時間だけが過ぎていった。




