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まだ掴まれたままになっていた右手を伸ばし、人差し指の第一関節辺りで彼の唇に軽く触れる。「わたしのこと……、好きになってくれませんか?」
彼の唇は冷たい。
「好きってどんな気持ち?」彼はルニエの手首ではなく、今度は指を握り締めて囁いた。「……君が僕を好きだと言ってくれて、とても嬉しかったんだ。君を特別に思っている、いまの僕の気持ちが『好き』?」
ルニエは瞬きをする。なにを問われているのか解らなかった。
「わたしが肯定すれば、先生はわたしを好きになるのですか?」
「そうだよ。君によって僕の気持ちが『好き』に相当すると判断されれば、――つまり今まで無名だった感情に名前が与えられるわけだね、僕は君が好きだということになる。逆にこの気持ちが『憎しみ』だと判断されれば、僕は君を憎んでいることになる」
ルニエは戸惑う。彼が説明している過程は理解できたが、『好き』の定義がまず存在し、それに当てはまる気持ちが『好き』ではなく、まず『感情』が存在し、存在する定義からズレていようがそれを『好き』と決めると、その感情が『好き』という名前を持つようになるという、そのような話などは初めて聞く。
「難しい? 簡単だよ。そもそも感情の類を正確に定義することが無理なんだ。極端に言うと、君の『悲しい』と僕の『嬉しい』は同じ心の動きかもしれない」
何となくルニエは納得できる。
「駄目です。仰っていることは解りますが、わたしが決めても……嬉しく……全然嬉しくありません……。先生が決めて下さらなくては」
キュラソウは考えるような仕草をして、興味深げにルニエを見た。「ルニエは、もし僕と婚姻したら、そのあとどうするの?」
その気もないのに聞いているのだとすれば嫌な質問だな、とルニエは思いながらも、しっかりと考える。現実は、コルドン氏に言われるままにシャンと結婚しなくてはいけないのかもしれないが、もしキュラソーと結婚したら……。想像するのは自由だった。
「そうですね……、先生と結婚したら、リキュア以外の国へ行って、三人で暮らして、相談員の学校へ行ってライサンスを取って、仕事をしてみたいかしら?」
「えっ?」
やけに彼が驚いた声を出したものだから、ルニエは変なことを言っただろうか、と首を傾げる。彼は焦ったように口元に手をやって、軽く息を吐く。
「変ですか?」
「あ……いや、ルニエがしたいのって、そういう普通の結婚なんだね?」
「普通じゃない結婚とはどういう結婚ですか?」訝ったルニエは尋ねる。
「そ、そうだよね……。ごめん、自分の物差しで考えていたよ。ああそうか、ルニエはそうだよね」
なにがそうなのか、ルニエはチンプンカンプンだった。
そのとき、フォンが鳴り出した。ルニエは、キュラソウの家で、いつも電話に邪魔をされている気がした。彼は口元に人差し指を当て、フォンの近くまで行くと手を伸ばして受話器を取る。ルニエはそっと聞き耳を立ててみた。
「もしもし……僕だけど。うん、独りだよ……」彼は苦笑いをしてみせる。「……仕事でしか会っていないよ。……いまから? まだ仕事が残っているんだ。一時間後くらいなら……、ああ分かった、分かったよ。じゃあね」
受話器の向こう側の声は全く聞こえなかった。「いま……独りなのですか?」ルニエが嫌味を言ってみると、彼は肩を竦めて受話器を置く。
「仕方ないじゃない。君と一緒だなんて言ったら、彼女が乗り込んでくるよ?」冗談かとも思ったが、彼は至って真面目そうである。「ごめんね、あんなに怒るとは思わなかったんだ。彼女に君のことはただの患者だから、もう会わない、って言ってあるんだよ。そう言わないと、納得してくれなくて……」
「謝られたのは、『ただの患者』の部分ですか?」やはり乙女心には鈍感そうだなと思いながらルニエは答えた。
「君の判断に任せるよ」
キュラソウが他の女性といることを怒るとなると、それはもう独占欲でしかない。彼女のどこかで、彼を取られたくないという感情が働いているのであろう。
「わたしの気持ちが嬉しかったと先生は仰ったけれど、彼女の気持ちは嬉しくなかったのですか?」
その答えを聞きたくはなかったが、あえてルニエは尋ねずにはいられなかった。彼は質問に対しキョトンと首を傾げ、鼻の頭を掻く。
「嬉しいもなにも……、そりゃあ嬉しいけどね。大切な人だし。まえにも言ったけど、恋愛感情じゃないよ。君もコルドン氏やエル・テソロが好きでしょ?」
「ええ、それに近い感情なのですね」
「そう……、問題は彼女が僕と同意見じゃないことさ」彼は眼鏡を外して、レンズについていた水滴を白衣で拭った。
「わたしと先生の気持ちも違うのでしょう?」
何だか質問してばっかりだと思いながらも、ルニエはついつい質問してしまう。この質問・回答の形式だと、キュラソウとの会話が続きやすいらしい。普通の世間話を口にすれば、相づちだけで終わらされてしまいがちなのだ。
「たしかに……、僕が君を好きなんだと仮定しても、君と僕とではその『好き』の質が違うとは思う。でも君は、僕と一緒にいられれば幸せなんでしょ? もし君が、そういうことを望むなら、君となら一緒にいても良いかな……とは……少し思うんだ」半ばもごもご口ごもって彼は呟く。
「本当?」また泣いてしまいそうになる。
「でも……でもね、僕は、駄目なんだ」彼は首を振る。
ルニエはソファから立ち上がり、近付いて彼の顔を覗き込んだ。
「なにが駄目なのですか?」
「自分の感情もまだよく解らないし、人を信じるのが怖いんだ……。君の言葉も信じたいけど、やっぱり……やっぱり駄目なんだ」そんな自分を呪うかのように彼は身を震わせた。「君はまだ若い、ましてや女性だ。僕を好きだと言ったその心は、季節のように、移ろいやすいものなのかもしれない。もし、それが一時のものだったら、と考えると、信じるのが怖い」
彼の生い立ちと関係あるのかもしれない。もっともらしい慰めをかけることは簡単だったが、きっとそれも信じてもらえないだろう。言葉を失ってルニエは背伸びをして彼の首元を抱き締める。彼は抵抗しなかった。
「どうすれば信じてもらえますか?」
「……判らない」彼はジッとしていた。
「これから先生に会うたび、好きだと言えば良いですか? わたしがもっと、大人になってからでなくてはいけない、ということですか?」
「……判らない」
「わたし、待っても良いです。先生がわたしを信じられるようになるまで……」
彼がそっと、ルニエの髪を撫でる。
「……もしそれが、四年でも?」
「四年……ですか?」
半年や一年ではなく、彼が言ったのは四年だった。いくらなんでも長すぎるような時間。そうでもしないと、彼は他人を信じられないのだろうか。
「そう……四年。四年経てば、君は二十歳、リキュアでは成人だ。君が二十歳になった満月の夜、僕は君に会いにいく。そのとき、大人になった君が、まだ僕のことを好きで、一緒にいたいと思っていてくれたなら、……僕は信じる」契約を持ちかける魔法使いのように、彼は耳元で囁いた。
彼がルニエの言葉を信じられないだけでなく、暗に言っているのだ、ルニエが未成年だから駄目だ、と。このまま本当に他国へ一緒に行ってしまうとすれば、誘拐騒ぎにもなりかねない。だが、成人していたとすれば、少し違う結果になるだろう。そのために四年必要だ、と。
(……待てるかしら? ううん、待ちたい……)
ルニエは決意する。
「解りました。絶対? 絶対ですよ! わたし、そのときも絶対に先生のことを好きでいます。そうしたら、結婚して下さいますか?」
「ああ」彼は小さく頷く。
「ねえ先生……、約束のキス……して下さいませんか……?」甘えたようにルニエは言う。
ほかの人を好きになることがないであろうことは、ルニエには自信があった。その自信がどこから来るものなのか、ルニエには解らないのに。でも、ただの口約束であることには変わりない。ルニエを諦めさせるために、彼が言っている可能性だってある。少しでも確実な、支えになる何かが欲しかった。
「分かった。目を閉じて」
首に絡めていた腕を解き、そっと目を閉じると、彼が両肩をそっと押さえる。眼鏡のフレイムが額に軽く当たったすぐあとに、左の瞼に冷たい唇がそっと触れ、そっと離れた。
唇ではなく、瞼へ。
ジェイが言ったのが本当であれば、それは求愛だという。
「先生……」
目を開けると彼は照れ臭そうにパッと両手を離し、その手を後ろに隠した。そんな彼の反応を見て、ルニエは本当に求愛の口付けだったのかもしれない、と信じた。
「温かい飲み物、作るよ」
キュラソウがキッチンへ去っていったので、ルニエはほとんど夢心地のままソファへ座った。ソファはやたらとふわふわに感じられ、沈んでいきそうな錯覚に陥りそうだった。
しばらくして、彼が持ってきたあの甘い蜜の香りがする飲み物を飲みながら、とても些細な会話を楽しんだ。
時間すら忘れていた。ましてや、ルニエは自分が家を飛び出してきたことすらも、忘れていた。丸一日ほどまともな食事をしていなかったが、空腹すら感じさせないほどの甘さだった。
しかし、不意に、その現実の一つをルニエは思い出した。
「あ……」
キュラソウはルニエの目線の先にあった時計を見る。「送っていくよ」
ルニエはカップを置き、黙って頷いた。彼はそっと右手を取る。ルニエは黙って手を握り返した。
廊下を抜けて玄関を出るといつの間にか雨が上がっており、薄っすらと光が差し込んでいる。
「寒いだろう? 僕ので悪いんだけど……」薄着で家を飛び出してきたルニエに、彼は上着をかけてくれた。まえにラ・コスタが着ていたものだ。
そして、二人並んで表面に雨水が敷かれた道をコルドン家まで歩いた。
家に着くと、彼はコルドン氏に用事があるというので、特に深く考えずルニエはそこで彼とお別れする。部屋に帰るまでの廊下で、抜け出してくるときに利用した可哀相な女中とばったり会ったが、彼女はルニエの顔を見るなりこらえ切れずに泣き出してしまった。きっとコルドン氏に散々叱られたに違いない。
「ごめんなさいね」彼女をそっと抱き締めると部屋に戻る。
真っ先に目に入ったアルギランセマムの花は、真っ白になってしまっていた。




