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キュラソウの家に着くと彼は雫を零す傘を入口に立てかけ、ルニエの手を軽く握り締める。「こんなに手が冷たくなっているじゃない……。シャワを浴びる?」
正直なところ、ルニエは彼の手のほうが冷たい、と思った。そこでふと、彼はなにかを思い出したようだ。
「あ、着替えがないな。困った……あ、ねぇ……ルニエ、魔法を見せてあげようか? ちょっとスカートの端を押さえて動かないでいてくれる?」ルニエの返事を聞かずに、彼は少し離れると、指をパチンと鳴らした。
足元の地面を緑色の閃光が走り、それがルニエの周りを囲むように円を描き終わるや否や、中から熱風が勢いよく吹き上がる。
「きゃ!」驚いてスカートを離してしまう。
スカートは風に煽られて膝の上辺りまで捲れ上がった。キュラソウは慌てて顔を逸らす。ルニエは慌ててスカートを押さえる。ほんのりと熱い吹き上がる風は、その温度に反し何事もなかったように、たちまち服の水分を飛ばしてしまった。公園であの青年が使ったのも、この魔法かもしれない。
「どう、乾いた?」
「もう……! 先にどういう魔法か説明して下さい、情報と同意です」
ルニエが怒ると、彼は笑いながらルニエを家の中に引っ張っていく。やはり、彼の手のほうが冷たかった。
中に入ると、ルニエはつい、鳥籠を見る。鳥籠にはカナリアは一羽しか見当たらない。本ものは、またどこかに行ってしまったらしかった。
いつものソファにやって来ると、キュラソウは座った。ルニエも隣に座る。
「話がある……だったよね。そのまえに、さっきの魔法、説明しようか?」
ルニエが説明不足を怒ったからなのか、真面目な顔をして彼が言った。
「……では、簡単に」説明しろ、と言った手前、――もちろん、前もってだが、ルニエは一応説明してもらうことにする。
「えーと、このまえ使ったのは白魔法の回復光の応用。さっきのは精霊魔法の乾燥」
本当に簡単な説明だった。
「……ありがとうございます」形式的に礼を言い、ルニエは意を決して、何度か深呼吸をした。
「では先生……いまから本題に入ります。私の話、真剣に聴いて下さいね? 確認しておきますが、普段の先生の態度は、あまり真剣ではないと思います」
「真剣じゃなかった? じゃあ、具体的にどんな風に聞けば良いの」心許なさそうに彼が聞き返す。
「そうですね、わたしの目を見て、話を聞いて下さい」
「え? それはちょっと……。心が読まれそうだから嫌だなぁ」
眉をしかめて顔を逸らす彼を見たルニエは、可笑しすぎてくすくす笑う。そんな子どもっぽい理由で目を逸らされていたと知り、笑わずにいられなかったのだ。
「では……わたしを見て、話を聞いて下さい」顔を上げて彼を見る。「わたし、先生が、好きです……」
そのままずばり、直球だった。これでちゃんと伝わらないのなら、どこか根本的に考え直さなければいけないだろう。
「……うん、知ってる」
驚いた素振りすら見せず、平然と答えたキュラソウにルニエはショックを受けた。それほど、自分の態度は判りやすかったのだろうか、と。
(うっ……、そういえば、バルコニィで抱き締められたときも、私が先生のことが好きだから、と言って気がするわ……)
何だか恥ずかしすぎて、ルニエは少しだけ開き直った。
「このまえ怒っていたのは、私がすごく嬉しかったのに、先生は私のこと何とも想って下さってないことを知って、ショックだったのです!」
「え……あ、そうなんだ」ちょっと圧倒されたように、彼が返事をする。「ごめん、君が喜びそうなことをしてあげたかっただけで……難しいな」
「え?」ルニエは耳を疑う。「わたしを喜ばせて、なにか意味でも?」
「うーんと、よく解らないけど……面白いから? 僕を見て、嬉しそうにする君を見るのが……」
何ともいえない表情で言ったキュラソウに、ルニエは判らなくなる。
(先生は、わたしに興味を持って下さっているのよね? でもそれは、好きということでは、ないの……よね?)
「……先生、わたし以外にも興味がある方はいらっしゃいますよね?」
「そりゃあ、いるよ。怒られるから、だいぶ改善したんだけど、僕は基本的に興味のない相手は無視するから。……もちろん、仕事は別だよ」
ルニエは思わず絶句する。
そして、あの無表情さを思い出した。
ルニエは悩む、その他大勢より特別には思われているらしい。でも、それはルニエが想っているものとは違うだろう。
「先生、わたしがなにをしてもらったら嬉しいか、お教えしましょうか?」
「え? うん」
彼が肯定するのを見て、ここで一呼吸。
「わたし、先生の恋人にしてもらえたら嬉しいです」
「……えっと、それは僕と婚姻したいってこと……?」
何故か付き合ってもらえるように仕向けたのに、結婚まで話が飛躍したのか理解できないながらも、ルニエはどうせ、付き合いだろうが結婚だろうが、どちらにしてもコルドン氏に反対されて、きっと叶わないに違いないだろう、と思った。
(どうせ叶わないなら、結婚のほうが嬉しいわ)
「ええ、結婚して下さいますか?」
「それはまえの続き?」やはり困った顔をして彼は言った。
「今度は、絶対に冗談などではなく本気です」
いまとなっては恥ずかしい、プロポウズ事件を思い出してルニエはもじもじする。あれのせいで、今度の告白も冗談ではないと断っていても、冗談だと取られる可能性が大いに存在するのだ。
「本当に?」
「本当に……あのときはごめんなさい。先生のことが知りたくて、なにかお話したくて、冗談にして良いことと駄目なことの区別ができなかったのです。ちゃんと反省をしました。でも、反省していたら先生のことが気になって……」
ルニエは言葉を噤む。大切なものをなくして気付く、の変形だろうか。
「気のせいとか、錯覚とか、騙されているとかの可能性は?」
彼はまだ、困った顔のままだった。
「酷い……先生はわたしのことが嫌いなのですか?」ジッとキュラソウを睨み付ける。
「嫌いじゃないけど、好きかどうかは判らない。でも、最近よく君のことは考える。君と一緒にいるのは嫌じゃない」彼はぼんやりとした表情になり、少し俯いた。
ルニエは黙ったまま、彼を見ていた。
「……ちょっと聞きたいんだけど、ルニエはその……、本当に僕のことが好きなの? 僕を、ラ・コスタじゃなくて僕を、好きでいてくれるの?」なにかに言い訳するように、少し俯いたまま言葉が呟かれる。
その言葉は、ルニエにとって辛い言葉だった。
(ごめんなさい、先生。ごめんなさい……)
「……先生に、言わなくてはいけないことがあります」また、一呼吸。「わたし、ラ・コスタに初めて会ったとき、彼の不思議な魅力に惹かれて……、また会いたいと思ったのです。それから、いままで気にしなかった先生のことも意識するようになって……」もう一呼吸。「ごめんなさい……わたし、先生もラ・コスタも好きです。どちらがより好きだ、なんて判断できません。自分でもおかしいのは解っています。でも、どうにもならないのです。わたし、どうすれば良いのですか?」
キュラソウは、いつの間にかルニエの目に溢れていた涙を拭ってくれた。
「そうか……、君にとってラ・コスタと僕は同じなんだ」なにかに安心したみたいだった。「僕にすれば良いよ……」ポツリと彼は呟く。
「わたし、ラ・コスタも同じくらい好きですけれど、恋人になりたいとは思わないのです。一緒にいるだけで良いというか……。それに彼には、恋人よりも、母親が必要なのではないかしら? だって、とても寂しそうだから……。わたしが先生と結婚すれば、ラ・コスタの良いママにもなれると思うの……」
一生懸命考えた結果だった。
「ママ? そんな歳じゃないよ」ママで彼は噴き出す。
ルニエは本気で言っていたのに、笑われてしまって頬を膨らませた。
キュラソーはルニエを見て笑う。
「ちょっと休憩して、温かい飲み物を作ろうか。待っていてくれる? あ、ルニエ……ちょっと」
立ち上がった彼がルニエの前髪を掻き揚げ、顔を近付けてきたので、思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。額がこつんとぶつかった。恐る恐るルニエは目を開け、恨めしい表情で彼を見つめる。
「顔は赤いけど、熱はないね……。あれ? どうしたの。まさかキスでもされると思った?」
「酷いわ、何故……今日だけはそんな体温の測り方をするの」
顔を真っ赤にしてルニエは立ち上がり、彼を叩こうと手を上げた。手首が彼に掴まれてしまったので、叩くという行為は実行されないまま終わる。彼は掌を額、首筋もしくは頬に当てるだけで検温できるはずなのに、今日に限ってわざわざ紛らわしく、親が子どもの熱を看るように、額を当てて検温するなど納得がいかなかった。
「君が喜ぶかな、と思って」
「からかわないで下さい」思わず涙が零れる。「わたしのこと、好きではないのでしょう?」
「ごめん、泣かないで。君を泣かせるつもりはなかったんだ」キュラソウはルニエの頬を流れた涙に、そっと唇を当てた。
期待させるようなことをして、どこまで彼が本気なのだろう、とルニエは少し身を強張らせる。
「それなら、どんなつもりだったのですか……?」
「何だろう……、一度してみたかったのかな? もう忘れてしまった。それより君は、いつも泣いてばっかりだね」
仔犬を覗き込むような彼の、一瞬の優しい眼差しをルニエはしっかりと両目で受け止める。零れた涙はあれっきりで、それ以上は溢れてこなかった。




