02
ふと、微かに聞こえる鼻歌で、ルニエは目を覚ます。枕元の時計を見ると、短針は2を指していた。
風に揺れる木の葉が擦れるのに似た鼻歌は、不規則に抑揚が取り入れられ、ルニエの心に僅かな不安感と大いなる好奇心を掻き立てた。
(誰かいるのかしら)
前髪を掻き揚げながらゆるゆると起き上がり、辺りを見回す。少し肌寒い。バルコニィへと続く扉の前のカーテンに映る人影。ルニエがやっと気付いたときにはもう、いつの間にか歌は聞こえてこなくなっていた。
急いでカーディガンを羽織り、できるだけ足音を立てないようにゆっくり、少し離れた窓に近寄ると、カーテンの隙間からバルコニィの人物の正体を突き止めようとした。先ほど聞こえた鼻歌が、原形を留めてないくせに、頭の中でやけにリピ-トされてくる。
隙間から差し込む月明かりは、予想外に強くて眩しい。ルニエは少し目を伏せて、目が慣れるのを待った。
ルニエの部屋にあるバルコニィは、それほど広くない。大体、人が三人並べるくらいで、隣にある妹の部屋にバルコニィはなかった。天気の良い日に椅子を出して座ったりするベンチがあるが、それ以外は特別なにも置いていない。
もう一度外を見たとき、今度は、背の低い男の子が懸命に空を見上げているのがぼんやりと確認できた。バルコニィは落ちないように、ルニエの胸くらいの高さの手摺がぐるりと取り囲んでいる。どうも男の子はその手摺に腰をかけているのだ。二階であるルニエの部屋に、どうやって彼は侵入したのだろうか。背をこちらに向けているので顔まで見ることはできなかったが、きっとルニエよりは年下だろう。
彼が着ている黒っぽいブレイザには見覚えがあった。魔法学校の制服だ。
こんな真夜中に他人の家のバルコニィで、彼は一体なにをしているのだろう? 好奇心はふつふつと煮詰まっていく。ドキドキする心臓の音が周りにも聞こえそうなくらいに高く鳴る。ついにルニエは、バルコニィへの扉に近付いてノブを回した。鍵がかかっている。ルニエは鍵を外した。
何故だかどうしても、その少年の顔が見たくなって……。
隙間から入り込んだ冷たい風が、扉を押し開けてルニエを包む。
扉は静かに音を立てて開き、その音は少年にも聞こえたはずなのに、彼は振り返ろうとしなかった。ルニエはごくりと唾を飲み込み扉を閉め、そのまま数歩近付いた。
「……きみは、誰?」ルニエの声は静かすぎる夜に染み渡るかのようだ。
躊躇せず尋ねたその声を待っていたかのように、少年がやっと振り向いてにっこり笑う。月の光のせいか、ルニエには少年の眼が一瞬だけ赤く見えた。
「誰…………?」少年が質問に答えてくれなかったため、さらになにか特別な答えを期待するようにもう一度尋ね、少年相手に大した警戒心も働かなかったのもあって、彼の顔をよく見ようと近付く。
風は寒く感じなかった。
キラキラと月の光を浴びている彼は、ルニエが思わず見とれてしまうほど綺麗だった。色素の薄い髪、青白く照らされた肌、月光の下で強調されているとはいえ、どこか作り物じみて見える少年の容貌を『人形のような』と形容しても強ち間違いでない。
「こんばんは、お嬢さん。月の綺麗な夜ですね」彼は大きな目を細める。
彼の声は、まだ高い子どもの声で、こんな月夜には不似合いだった。
ルニエは風に流される髪を押さえて、まるで蝶をそっと捕まえようとする子どものように、ゆっくりとさらに近付いた。昔、月夜に妖精が子どもを攫いにくる絵本を読んでもらったことがあった。もしかすると、彼もその類なのかもしれない。そのほうが、しっくりとする。
だが、魔法学校の制服を着た男の子の妖精というのも変で、しかも彼の制服は大きすぎて、ぶかぶかだった。
「こんな夜更けに泥棒さん……、かしら。どんなご用?」
ついに手が届く距離まで来ると、ルニエは改めて少年の顔を見上げる。
一瞬、風が止んだ。
さっきまで耳に響いていた心臓の音も、急に静かになって、いまはもうルニエには聞こえない。
「うーん、僕は、悪い魔法使いに呪いの魔法をかけられていてね。満月の光を浴びないといけないんだ」くすぐったそうにそう言って、少年はルニエに顔を近付けた。
息がかかるくらい側にある、吸い込まれそうな瞳を見つめ返す。
「……呪い?」
彼はルニエのぼんやりした呟きに対して「そう……」と答えると、息をするよりも自然にキスをしてきた。
なにが起こったのか、全然解らなかった。
ただ、冷たかった唇が離れると、ルニエは軽い眩暈を感じて手摺を押さえる。驚きで涙が出そうになるのを必死でこらえ、現状を理解しようと少年を見た。
彼は、きょとんとした表情でルニエを見ていた。
「あれ、おかしいな?」彼は首を傾げる。「たしか悪い魔法使いの呪いは、お姫様のキスで解けるって、本に書いてあったのに……」
少年は少し笑うと、ちょっと舌を出した。
「お姫様のキス……?」ルニエは深呼吸をしながら、なかなか洒落のきいた悪戯だと思った。
「あれ? 怒らないんだ、君は」少し残念そうに、少年は言う。
それを見てルニエは仕方なく微笑んだ。そもそも悪戯の目的は、相手を驚かせたりして反応を楽しむことなので、ルニエが怒らなかったことは理にかなっているのだが、本当は怒るどころか、ただなにも考えられなかっただけだ。油断していたとはいえ、たとえ悪戯だったとしても、いきなりキスをされるだなんて考えられない。
「ええと、きみの名前、教えてくれる……?」
ルニエが尋ねると、彼は恥ずかしそうに顔を伏せて答える。「僕はラ・コスタ……。名前を聞くってことは、やっぱり怒ってるんでしょ?」
たしかに、キスをされた相手に興味を持っているのは本当だったが、拗ねたように悪戯をした張本人の彼が言ったので、ルニエは可笑しくて笑ってしまう。
「本当に、怒ってないから……」
ラ・コスタはちらっとルニエを見る。「ふーん、君は悩み多きH型にしては割り切りが良いね。それに、綺麗な青い眼だ……」
ルニエは驚き、血液型を当てられたのを疑問に思うよりもまず、咄嗟に左目を押さえて少し後退した。
(忘れていたわ! 今日は満月だったのに……)
好奇心に駆られて迂闊な行動を取ってしまったことをルニエは悔やむ。その後悔は、舌打ちを何回しても足りないくらいだ。
「何故、隠すの?」ラ・コスタは不思議そうに尋ねると、手摺から飛び下り、ルニエが離れた分だけ近付く。
同じ高さに立つと、ルニエの背が頭一つ分くらい高い。
ルニエはさらに一歩後退した。
「ねぇ……ルニエ、逃げないで」伸ばしたラ・コスタの手がルニエの髪に触れそうになる。
「目が光るだなんて……、気味が悪いでしょう」ルニエは小さく叫ぶように言って目を閉じ、自分自身を隠すために両手で顔を覆う。
しかし、触れそうだった彼の手は、いつまでたっても届く気配はなかった。恐る恐る目を開けて指の隙間から見ると、彼は背を向けてくれていた。
「……ごめん、軽率だった」彼は少し間を置いた。「……それ、『青き月の涙』だよね? 本とか話とかでは知ってたんだけど、実際に持っている人を見るのは初めてだったし、嬉しかったんだ。綺麗で、もっと見たかったから、君が嫌がっているって、すぐに気付けなかなかった」
ルニエは左目を隠していた手を離し、悲しみで顔を曇らせる。
『青き月の涙』は、ルニエが持つ形質の名前だ。家族の中では、死んだ祖母とルニエの左眼だけが青かった。しかしそれは、昼間ではほとんど区別がつかず、夜、月の光を浴びて青く淡い光を放つ。
この眼は、ルニエの最大のコムプレクスだった。
「わたし、この眼が嫌いなの……、大嫌いなの! 普通の青い眼なら良かったのに」ルニエの両方の目から涙が流れた。
「……僕は空が飛べるよ」ルニエに背を向けたまま、ラ・コスタは呟く。
「それは素敵ね……」
そうルニエが答えると、少しの沈黙のあと、再びラ・コスタがそっと呟いた。
「……僕は、普通の青い眼よりも、まるで、月の祝福を受けたみたいな君のその、青い眼が綺麗だと思うよ」
涙は止まらない。しかし、ようやくラ・コスタがルニエを何とかして慰めてくれようとしていることに気付く。これを見た家族以外に、綺麗だと言われたことは初めてだった。お世辞でも嬉しい。月光が照らすその小さな紳士に向かって思わず微笑んだ。
「ありがとう……」
すると、ラ・コスタは続ける。「緑は太陽だけど、青は月の色。僕は気紛れで神秘的な、その青い眼が好きだよ」
緑がどうして太陽の色なのかルニエには分からなかったが、いま流れているのは、きっともう悲しい涙ではないと思った。
昔からルニエは、この眼に関してろくな目には合わなかった。それなのに、まさかこんな少年に慰められるとはとても意外だった。深呼吸をして、涙を拭う。
「……もう、こっちを向いても大丈夫よ。これは……、キスの代償ね」
「やっぱり怒ってたんだ」ラ・コスタはボソリと呟き、初めと同じようにゆっくりと振り向く。そして、様子を窺いつつ側に寄ってきた彼は、ルニエの手を取って跪いた。
その手もやはり冷たい。
「それはそれは、身に余る光栄。ついで、……といっては何ですが、今宵、貴女の部屋のバルコニィにお邪魔したことも許していただけますか?」
ラ・コスタのまるで騎士のような行動が可愛らしかったので、ルニエは思わず吹き出しそうになった。だがこらえて、毅然と振舞う王女のように、ラ・コスタの手を軽く握り締める。
「許しましょう。だけど……どうして、この場所にいらっしゃったのかしら?」
「知らないの? ここって、綺麗に満月が見える場所なんだよ。でも……、見つかっちゃうなんて、不覚だなぁ。普通は夜中に起きないものでしょう?」許してもらうと、さっさと騎士の真似は止めたラ・コスタは、本当に残念そうに言う。
普通は、夜中に人の家のバルコニィでお月見なんてしないでしょう? という反撃を思い付いたが、ルニエは実行しなかった。どこまで彼が本気なのかは判らなかったが、お月見という理由で、今夜彼がこの場所にいたことを責める気など、ルニエにはもうなかった。




