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26

 ルニエは目を開ける。知らないうちに眠ってしまっていたらしい。目を開けると目の前にいる誰かが、じっと覗き込んでいた。驚いて軽く悲鳴を上げてしまう。


「あれ? 君、どこかで会わなかった?」こげ茶色の髪と眼をした青年は、悪戯っぽくニヤリと笑った。


「え? まあ! ……公園で、お会いしましたね」


 目の前にいる人物が、公園で煙草を吸っていた青年だと気付いてルニエは驚く。つまり、彼とキュラソウは知り合いなのだろう。彼はソファの前にあるテイブルに腰をかけて足を組んだ。ファーつきのジャキットから、微かに煙草の匂いが漂ってくる。


「ここはキュラソウさん宅じゃなかったっけ?」


「もちろん、わたし……留守番です」


「へえ……、珍しいこともあるな」そう言って彼はルニエをじろじろ見た。「あいつ、人見知りが激しいだろ? おまけにマイペイスだから、こっちが頑張らないと距離は一生縮まらないしさ。他人に留守番を任せるほど、簡単に人を信用するとは思えないけど……」


(あいつって、先生とラ・コスタのどちらかしら……)


 ルニエの反応はそれほど気にしていない様子で、彼は一方的に喋っている。このまえ同様にお喋りだった。


「もしかして、君はあいつに好意でも持たれてるのかな? でも、君はあいつの患者か何かでしょ? ただの患者に留守番を任せて出かけるなんて、俺が知っている限りじゃあ、信じられない!」


 患者、という言葉が出て、ルニエは彼が言っているのがキュラソウのことだと判断した。


「……好意を持たれているかどうか、どうすれば判断できますか?」


 その質問に彼は目を見開いた。「え? もしかして……君のほうは、あいつに少しは……気があるの? 本当? ……驚いた。あんな変わり者は止めておけよ。絶対、女性には興味がないんだって。いや、もちろん別に男に興味があるって意味じゃないよ。あいつに好意を持っている娘を一人知ってるんだけど、彼女のこと……それなりに大事にしてるとはしても、俺が考えるような恋愛感情は、全く見せないな。うん、でも俺としては君を応援するよ」


 少し話すだけで、どんどん情報が入ってくるなと思いつつ、彼が言った『あいつに好意を持っている女性』というのが、あの青い眼の女性に違いないと確信するのだった。念のために確かめておくことにする。


「その女性……、青い眼の方ですか?」


「え? 何で知ってるんだ……」彼は本当にびっくりしたようだ。「まさか、ラ・コスタが紹介したわけじゃないよな」


「少し、すれ違ったことがあって……」脅された、なんて言えないので、曖昧に答える。「彼女は、ラ・コスタのことが好きなのですよね?」


「…………うん、まあ、そうだね」元気なく、彼は答えた。


 そこでルニエはピンとくる。もしかすると、彼が好きなのは、その女性ではないか、ということだ。彼女がほかに好きな人がいるとすれば、彼になびかないのも無理はない。


「先生と彼女は、どういう関係なのでしょうか?」


「先生……? ああ、確かにそうか」彼は独りでなにかに納得していた。「幼馴染だろうね。俺もよく知らないんだけど、俺は魔法学校で一緒だった。そのときから、既に間に入っていけないような雰囲気でさ、彼女は……」


 そのあとも彼の世間話へ適当に相槌を打ちながら、ルニエはかかってきた電話のことを考えていた。あの電話の情報を彼に話してあげれば喜びそうだが、話がややこしくなりそうだった。少なくとも、ルニエなら聞きたくなかった。


「そういえば、その本……」


 不意にガサッっと音がして、彼は身を僅かに強張らせる。


「おおっと、もうこんな時間だ! さてと、俺は帰るか。なにやら、不吉な虫の知らせがするしな。それじゃあバイバイ」ひょっこり立ち上がると彼は帰ってしまった。


 一体なにをしに来たのだろうか。用事があって尋ねてきたみたいだったのに、住人が帰ってくるまえに帰ってしまうとは、まるで知り合いの家を物色するために忍び込んできたみたいだ。彼が最後になにを言いかけたのかは気になった。


 欠伸をして目を擦ると、ルニエは本をラ・コスタの部屋へ返しにいく。再びリビングに戻ってぼんやりしていた。


 すると、玄関のほうでガサリと音がしたので、ルニエはキュラソウが帰ってきたのかと思って見にいった。しかし、そこには誰もいない。鳥籠の入口が開いて、微かに揺れている。


「あら!」鳥籠の中に、ルニエはもう一羽のカナリアを見付けた。急いで駆け寄ると、動いていることを確認する。「まあ、戻ってきたのね。わたし、心配していたのよ、カナリアさん」


 玄関の扉は開いていなかったが、どこか二階の窓が開いていて、そこから入ってきたのかもしれなかった。カナリアは鳥籠から飛び出し、反復横飛びのような運動を数回した後、軽く鳴いて、ルニエの肩に飛び乗り叫んだ。


「ジャックは偉イ、偉イヨ。ルニエ好キ~、ルニエ好キ~」


 ルニエは、カナリアがルニエの名前を覚えていたことに驚き、よほど賢いカナリアなのだと思った。


「ありがとう、ジャック」


 カナリアは再び飛び立ち、リビングのほうに向かったので、ルニエもあとを追いかけていく。そして、カナリアが我が物顔でテイブルの上を歩いているのを見て、側のソファに座った。


「先生は、出かけているのよ。でも、もうすぐ帰ってくると思うわ」


 ルニエの言葉にカナリアは首を傾げ、アイスクリームのカップに入っていたスプーンの柄を嘴で突付く。ルニエが人差し指を近付けると、軽く突付き、羽繕いを始めた。


「ねえ……ジャック。先生は、わたしのこと好きかしら? あなたはどう思う?」カナリア相手に、ルニエの独り言だった。


 もちろんカナリアは興味がなさそうに羽繕いを続けていた。しばらくすると、身震いをして、羽を膨らませる。一枚の羽根が抜けた。


「ジャック、ルニエ好キ~。アイツ、帰ってきたヨ」ガラガラ声でカナリアが言った。


 すると、たしかに玄関で物音がする。どうやら扉が開いた音のようであった。カナリアが予言したとおり、キュラソウが帰ってきたのであろう。静かな足取りが近付いてくる。


 リビングに入ってきたキュラソウは、電撃を受けて硬直したように立ち止まり、手に持っていた花束を落としかけそうになっていた。顔をしかめてルニエを見る。かなりショックを受けているらしいことが判った。


「どうしたのですか?」


「……ルニエ、僕がいない間に……誰か来たでしょ? ひょろっとして軟派なお喋り男が」言葉尻にはどこか嫌そうな響きが込められている。


「ええ、たしかに。世間話をして帰っていきましたよ。どうして彼が来ていたと判るのですか?」


「煙草の匂いだよ。この匂いが嫌いだから来るな、って言ってあるんだけど」彼は舌打ちをしてソファの前に立った。


 そこで空かさずカナリアが、「アイツ嫌イ~、アイツ嫌イ~」と叫んで、キュラソウの肩に飛び乗る。


「はっきりとは聞いたわけではありませんけれど、彼……、あの女性のことが好きなのですか?」


「ああ、フィー? そうなんだ……、面白いよね」口元を斜めにし、キュラソウはカナリアに話しかけるように言った。カナリアも同意しているかのように身体を上下に動かしている。


 何故そのことが面白いかどうかルニエには解らないが、『フィー』というのは、その彼女の名前だろうか、と想像した。


「はい、これ。バランタインズのプレゼント」キュラソウは手に持っていた花束をルニエに差し出す。


「あ……ありがとうございます」


 受け取った花束は、この間と同じ、オリンジのアルギランセマムだった。今度はアルギランセマムだけでなく、白いジプソフィラも入っている。リボンは赤だった。


「マフラのお返し」彼は少し恥ずかしそうに言う。


 ルニエは、きっと彼はバランタインズデイに贈り物などしたことがなかったのだろう、と考えた。そして、花束を貰うことのできた自分は幸せだ、とそう思った。


「ルニエなら、一緒に暮らしても良いぞ」小さい声でカナリアがそう喋ったのを、ルニエは聞き逃さなかった。本当に小さな声だったので、もしかすると願望が生んだ空耳だったかもしれない。


 それを聞いたキュラソウはどんな反応を示すだろうと興味津々だったが、小さくなにかを呟いただけで、しかも聞き取れなかった。


「ところで……彼に、なにかされなかったよね?」


「どういう意味ですか?」


「うーんと、彼は、好きな人がいるけど、女の子が好きだから……その……」


「心配ですか?」ついルニエは微笑んでそう聞き返すと、彼はひくっと動きを止める。


「ええっと……」


「なにかされていたら、どうしました?」オリンジの花をぎゅっと抱き締め、彼の側に近付いた。


「ヤキモチ! ヤキモチ!」キュラソウの肩の上で羽ばたきのダンスを踊りながら、カナリアが騒ぎ立てる。


 よほどショッキングな質問だったのか、斜め後ろに彼は俯いてしまい、そのままなかなか顔を上げない。ルニエは花束をソファの前のテイブルにそっと載せ、悩んでいる彼を抱き締めたくなるのをじっとこらえてソファに座る。彼が悩んでいるのは、ルニエに対する認識なのだから。


「どうして……」キュラソウは顔を上げてルニエを見た。「どうして僕は、そんなことを聞いたんだろう?」その顔は明らかに困った顔をしている。


「そんなこと?」


「おかしいな。いつもなら……」彼は落ちるようにソファに座った。「あれ? つまり僕は、ほかの人よりルニエに執着を持っているってこと?」


 横を向いた彼の目とルニエの目が合う。彼は何故か目を離さないまま呆然とルニエを見つめていた。肩でカナリアが暢気にさえずる。


(先生……)彼に真っ直ぐ見つめられるのは珍しく、声を出せば、また目を逸らされてしまいそうに思えた。


 そのとき小声の早口でキュラソウがなにか言った。考えていたことを思わず口にしてしまったような感じに……だ。そして、彼は再び俯いて考え事体制に入ってしまう。ルニエはある可能性に気付いた。彼が目を逸らさなかったのは、目が合ったあの瞬間からルニエが目に入らなくなっていたのではないかと。それなら納得がいく。


 そっとルニエは立ち上がって花束を手に取る。キュラソウは考え事に一所懸命で気付いていないようだ。しばらく彼を見つめていたが、そのまま部屋を出た。さよならも言わずに……。


 カナリアはルニエの後ろをついてきて、玄関にある鳥籠の上に留まる。ルニエは廊下で、かけてあったコウトなどを素早く身に着ける。


「また明日来るわ。先生に宜しくね、ジャック」カナリアに別れを告げる。


 キュラソウにとってルニエは、一体どういう存在なのだろう? 明日になれば、彼に答えは出ているのだろうか? と一瞬考えたが、それを吹き飛ばすかのようにルニエは首を振って、花束をぎゅっと抱き締めると玄関から外へ出る。久しぶりに暗い洞窟から抜け出してきたみたいに、太陽の光が眩しすぎて目眩を起こしそうだった。


 そういえば、あの青年の名前を聞き忘れていた。考えまいとは思いながらも考えごとをしながら家に戻り、ルニエが玄関の扉を開けたら、驚いたことにそこにはコルドン氏が立っていた。


「本屋に行っていたにしては、ずいぶん遅かったな」低い声でそれだけ言うと、彼は立ち去る。


 時計を見ると、とっくに昼食の時間を過ぎていた。確かに、本屋に行ったとすれば帰るのが遅すぎる。しかも、花束を手にして戻ってきたのだ。誕生日に同じ花をキュラソウから貰ったというのは、コルドン氏も知っていることである。深く追及されなかったことにホッとしたものの、ルニエはなにか嵐の前の静けさに似た恐ろしさを感じた。

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