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 玄関を入ると、相変わらず動かないオリンジのカナリアが鳥籠の中にいる。今日は一羽しかいない。ルニエが鳥籠の中を覗き込んでいる間に、キュラソウはコウトと帽子を脱いでかけた。


「綺麗だろう? 貰い物なんだ。ところで……コウトと帽子を、わたくしめがおかけいたしましょうか、お嬢様?」


「あら、お願いします」日傘を傘立てに入れ、コウトと帽子とマフラを渡す。


「ではこちらに」それらもかけてしまうと、彼はルニエの手を取った。


「先生、あのカナリア……戻ってきましたか?」


 自分の不注意でカナリアを逃がしてしまった、と思っているルニエが心配そうに尋ねると、キュラソウは肩を上下させて言った。「もちろん」


 案内されたのはリビングで、ソファを勧められる。なにか飲むかと聞かれたが、どうせ砂糖がないことが分かっていたので断った。


 ソファに座って横を見ると、幸か不幸か、本屋で会ったラ・コスタが巻いていた赤いマフラがかかっていた。素早くルニエはそれを手に取る。間違いなく手編みだ。2目リブ編みで編まれたそのマフラは、パッと見た限りで一ヵ所編目が反対になっていた。


「わ! 下手くそで恥ずかしいから、あまり見ないで欲しいな……」ルニエが真剣にマフラを眺めているのを見て、キュラソウはびっくりして言う。


「先生が編んだのですか?」その可能性は全く考えていなかった。


「うん……。診察に行った先の手芸店で何故か毛糸を貰うことになって、ついでに編み方を教えてもらったんだ」


 照れているのか困っているのか、それとも両方なのか、そんな顔でソファの隣に座った彼をルニエはジッと見る。


「ルニエは、アイスクリーム好き?」


 何の脈絡もなく、投げかけられた質問にルニエは戸惑いつつも、もちろんアイスクリームは大好きだったので、迷わず「はい」と答える。その答えを聞いた彼は、少し嬉しそうだった。


「じゃあ、食べる? 僕も好きだから買ってきたんだけど、独りで全部食べられないから……」


 特に断る理由もなかったので、ルニエはアイスクリームを貰うことにした。独りで食べ切れないというくらいだから、大きな容器で買ったのかと思いきや、キュラソウが持ってきたのは小さなカップとスプーンだった。


「このままで構わないかな……」苦笑いしながら彼は言う。多分、盛り付ける皿がないのだろう。


「ありがとうございます」


 受け取ったアイスクリームは、人気があるメイカが出しているヴァニラ味であった。ルニエは蓋を外して前にあるテイブルに置いた。冬場のアイスクリームは少し冷たかったが、やはり味はおいしかった。


 キュラソウはアイスクリームを食べているルニエを見ていたので、ルニエは少し恥ずかしかった。食べる邪魔をしたら悪い、と思われたのか、彼は話しかけてこない。


 ところが、カップの半分くらいアイスクリームを食べたところで、彼はルニエがびっくりするようなことを言う。


「僕も一口、貰っても良い?」


「え!?」かなりルニエは動揺した。


 つまり、ルニエが食べている途中のアイスクリームを一口だけ分けてもらっても良いだろうか? という提案なのだ。


 そもそもキュラソウが食べたくて買ってきたアイスクリームであるのだし、彼が食べたいといっても文句を言える筋合いはないのだが、普通はこんな申し出はしないものだ。だが、キュラソウは普通で括られる中から僅かにはみ出しそうな気がルニエはしたし、食べかけがどうのこうのなんて彼は思いもよらず、いま単にアイスクリームが食べたいだけなのであろう。


 渋々ルニエはスプーンで一すくいして、キュラソウに食べさせてあげた。


「ありがとう」彼は微笑んで、ソファにもたれかかり、目を閉じた。


「……わたしに下さるまえに、召し上がられれば良かったのに」非難がましくルニエは言う。


「うーん、僕は少し融けたくらいのが好きなんだ」彼は目を瞑ったまま答えた。


 キュラソウが口付けたスプーンを前に、どうにかルニエは自分を納得させて、アイスクリームを全部食べ終える。キュラソウを見ると、まだ目を閉じたままソファにもたれかかっていた。ルニエは空になったアイスクリームのカップをテイブルの上に置き、彼に少し近付く。動きがなかったので、また、このまえみたいに具合が悪いのかもしれないと思ったのだ。


「……先生?」


 顔の近くで話しかけると、彼はゆっくりと目を開けた。


「あ、ごめん。半分くらい眠っていた。……そうか、君はアイスクリームを食べに来たんじゃなくて、なにか話があったんだっけ」


 あの状況から、どうして眠れるのだとルニエは思ったが、とてつもなく眠かったのか、気を許されていたのだろう、と良いほうに解釈しておいた。


 キュラソウは話を聴く体勢らしく、きちんとソファに座り直す。ルニエは心を決めなければならなかった。ここまで来てしまった。ここまで来れば、あとはもう言うしかない。


 今回、ルニエは言いたかったことは、これまでのように単なる話をするキッカケとしてのものではなく、ルニエの気持ちだった。いろいろと考え、自分がキュラソウのことをどう思っているのか? ちゃんと言っておかなければならない、とルニエは感じていたのだ。それを口にすることで、ルニエが傷付くことはかなりの高い確率で明白だ。たとえ相手に傷付ける意思がなかったとしても。


 しかし、言わなければ彼はずっと気付かないだろう。言ったとしても理解してくれるかどうかもはっきりしていないのだから。


「……わたし、好きな人がいます」


「うん、知ってるよ」


「ええ、先生がよくご存知の……」言いかけて、ルニエはふと気付いた。(……そういえば、このまえ先生は、『わたしが彼のことを好きだから』と仰っていなかった……? さっきの『知っている』は、そのことかしら? それとも、わたしがラ・コスタにした告白のことかしら?)


 しばらく様子を窺うように、ルニエはキュラソウを見つめる。


「あの、その……先生がご存知の『わたしが好きな人』はどなたですか?」勝手に想像して間違っていたら、それこそ恥ずかしいので、ルニエは尋ねた。それによって、今回の告白の様式も変わってくる。


「えっと……、まえに君が言わなかったっけ? 勘違いじゃなければ……」


 『勘違いじゃなければ?』とルニエが身を乗り出したとき、電子音が部屋に響いた。言いかけた言葉を飲み込んだキュラソウをルニエは見つめる。コールは一度で止まり、彼はフォンに目を向け、「ごめん」と小さく謝って立ち上がると、再び鳴り出したフォンの受話器を取った。


「はい、キュラソウです。うん、さっきのこと? え……?」キュラソウは驚いた顔をしてルニエを少し見た。「いまはちょっと、ルニエがまだいるんだけど。うん、そうか、分かった……すぐ行くよ」受話器を置いた彼は困った顔をしてルニエを見る。「本当にすまないんだけど、続きはまた今度にしてもらえないかな」


「急患ですか?」


「いや……、手を貸して欲しいって言われて……」ソファに座ったキュラソウは、力なく首を振る。「ここに来る途中、僕がどこかへ行ったじゃない? あのとき、ルニエは誰かに会ったの?」


 ルニエはドキリとしたが、事実なので「ええ」と答えた。


「あのとき、なにか君の様子がおかしいとは思ったけど、まさか……彼女が君の前に現れただなんて、思いもしなかった。で、なにか言われたの?」


「あなたに近付くな……って」ルニエはあの、青い眼を思い出す。


「僕は……ラ・コスタじゃないのに……」彼が小さく呟いた。


 あまりにも、その呟きが悲しげだったので、ルニエは自分が責められているような気にさえなった。


「ああ、ごめんね。ルニエが悪いんじゃないんだ。僕の患者に干渉されたことなんて初めてで、彼女がどうしてこうもヒステリアになるのか解らない。でも、僕が行けば落ち着くだろうと思う。だから……」


 ――彼の患者。それは間違った言葉ではない。けれど、彼とルニエの関係が仕事上のものだけだ、と言い切られたようで、ルニエは少し寂しかった。


「遅くなりそうですか?」


「いや……はっきりとは言えないけど、一時的なものだろうから」


「待っています。迷惑でなければ、わたし先生が帰ってくるまで待っています。駄目ですか?」


 せっかく決意したのに、電話で邪魔されてしまった。ここで帰ってしまえば。いままでの全部が無駄に終わってしまいそうな気がした。


「君がそうしたいなら。そこら辺にある本とかでも読んでいて、ね?」彼はそのままリビングを出ていってしまう。


 ルニエはソファで思い切り背伸びをして、深い溜息を吐いた。今更ながら他人の家で独りきりの留守番は無謀かとも思った。だが、よく考えれば似たようなことを既にしているではないか。


 しばらくの間はぼんやりと周りを眺めて過ごす。


 そして、自分自身を落ち着けるために、キュラソウがいない間、改めて気持ちを整理しておくことにした。特に、キュラソウとあの女性の関係がよく分からなかった。


(あの女性は、ラ・コスタのことが好きで、ラ・コスタは……どうなのかしら。先生はあの女性のお友達で、彼女は先生に干渉する……?)考えれば考えるほど混乱しそうだ。


 しかし、彼女がルニエに不快感を抱いていることは確かそうだった。


 これはルニエが喜んで良いものだろうか?


 また溜息を吐くと、ルニエはあの童話がまた読みたくなって、ソファから立ち上がる。ラ・コスタの部屋から本を持ってきて、再びソファに座って読み始めた。

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