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 朝早くにルニエは目が覚めた。今日は、バランタインズデイだ。それに定期検診の日でもある。運良くこの日に特別な理由をつけることなくキュラソウと会えるのは、単なるラッキィとか日ごろの行いが良いとか、とにかく今年のカランダに、二 月(セカンディリス)十六日がバランタインズデイと決めた人に感謝しなければならない。


 目は覚めたものの、女中が起こしにくるまでの間、ルニエはシートの中で今日起こるであろう出来事をあれでもないこれでもないと、いろいろ空想して楽しむはずであった。しかし、彼とは満月の平手打ち事件から会っていなかったし、謝罪の電話もかかってくることはなかったし、どの面下げて今日現れるのかと考えると、おちおち楽しんでばかりもいられない。


 もちろん、編み上げたマフラはキュラソウに渡すつもりで、気がかりは彼が喜んで受け取ってくれるか、彼が花を贈ってくれるかどうかである。


 ここリキュアでは、バランタインズデイに女性へアカシアの花を贈る習慣があり、特に親しい男女の間では真紅のロウザやプレゼントも交換されるのだった。庭にアカシアを植えている家が多いのは、もちろんこの日に贈るためだ。


 何故アカシアを贈るかというと正確には分からないが、この国では黄色と緑の組み合わせが好まれているからだろう。いや、それ以前にアカシアは国樹だ。黄色と緑の組み合わせが好まれるので国樹がアカシアになり、それゆえにバランタインズデイにこの花が贈られるのだろうか。


 食事を終えて部屋へ帰る途中、コルドン氏と廊下で逢った。


「おはようルニエ、あとでアカシアを部屋に持っていかせるからな」彼は機嫌良さそうにルニエを抱き締めて言う。


「ありがとう……お父様」


 彼以外にほかの誰ともすれ違うことなく部屋に帰ると、ルニエは紙袋に入れたマフラをソファの上に出した。辺りは片付けるほど散らかってはいない。それでも片付けておこうかとそわそわしていたら、女中が零れるばかりの枝を花瓶から垂らしたアカシアを持ってくる。それを窓際に飾った。


 嬉しくなって花に微笑みかけると、鼻歌を歌いながら部屋を無駄にグルグルと歩き回る。今日は家庭教師がお休みなので、キュラソウは午前中に来るであろう、と思われた。


 扉がノックされる。キュラソウだった。彼はいつも、扉をノックするタイミングを図っているのかもしれない。


「やあ、ご機嫌だね」ルニエの鼻歌が聞こえたのだろう、入ってくるなりそう彼は言った。


 その後、キュラソウがどういった態度を示すだろうと構えていたルニエだが、彼は特に普段と何も変わらなかった。平手打ちしてしまった手前、気を揉んでいたルニエは、自分だけいろいろと考えていたのが馬鹿らしくなる。


「先生……少し宜しいですか?」通常通りの診察が終わったあと、ルニエはそう切り出した。


「……なに?」


 了解の返事を確実に聞いてから、ルニエはソファの上においていた紙袋をキュラソウに渡した。彼は不思議そうな顔をしてそれを受け取る。


「差し上げます」


「……あ、今日はバランタインズか、忘れていたよ」花瓶に挿されているアカシアの花にやっと気付いたようで、しばらく眺めて答えた。「僕も、なにか君にあげないといけないね」


「先生にお話があるのですが、この家以外の場所で、聞いていただけませんか?」


「ええと、まえに言っていた話? 話くらい、いくらでも聞いてあげるよ。そうだね……僕の家に来る?」ルニエは『話くらい』という扱いの低い言い方に少しムッとしたが、頷く。「そうだ、……じゃあこのお返しはやっぱり花にしようか。ところで、その話はいつ聞けば良いの?」今ごろになって彼は紙袋の中身を覗き込む。


「ご都合が宜しければ、いまから」


「これ、君が編んだの? ありがとう、上手だね」


 嬉しそうに彼が言っているように見えたので、ルニエはホッとした。もし困った顔をされたり、要らないなどと言われたりした場合の心構えができていなかったのだ。演技でなく自然と笑顔で、出かける準備を始める。


 コウトを着て、マフラを巻き、ブーツを履く。


「ルニエ、ちょっとフォンを借りて良いかな?」


「ええ、どうぞ」


 キュラソウは電話をかけに行ってしまう。ルニエも身支度を整えて廊下に出ると、そこには偶然通りかかったコルドン氏がいた。


「ルニエ……出かけるのか? キュラソウ先生も帰られるようだが……」彼は立ち止まり、声を低くして確かめるように言う。


「わたしは本屋さんへ……行こうと思って……」嘘を吐いた。


「そうか、気を付けて行くのだぞ」


 立ち去るコルドン氏を見ながら、ルニエがもし本当のことを言ったのなら、彼は何と言ったのだろう、と考える。行くな、と止められていただろうか? 彼も薄々ルニエが単に診察目的でキュラソウの家を訪ねているのではないと、気付いているはずだ。


 電話をかけ終わったようなキュラソウの隣を横切り、ルニエは玄関の扉を開ける。外は晴れていた。日傘を差そうと傘立てを見ると、そこに日傘はなかった。


「あら?」


「ああ、このまえ僕の家に忘れていったでしょ」近付いてきた彼が言った。


「気付かれていたなら、今日持ってきて下されば良かったのに」ルニエは愚痴を零す。


 そんなルニエを横目で見ながら、キュラソウは玄関を通り抜ける。仕方なく、ルニエもあとを追った。差し込む日差しが遮られ、ルニエは佇んだ彼の手に、自分の日傘があることに気付いた。


「さて、お嬢さん。どうぞ」広げた日傘を差し出される。


「あ……ありがとうございます」


 驚いたルニエは、お礼を言うことが精一杯で、愚痴を言ったことを謝ることができなかった。このまえ見せてもらった手品のように、ルニエを驚かせるために水面下でいろいろと仕組まれていたのかもしれなかった。


 満開のアカシアが垂れ下がる家々を横目に、二人は並んで歩く。キュラソウは少し、そわそわしているように見えた。ルニエが彼を見つめていると、彼は首を傾げた。


「先生、いただいたあのお花、朝になって色を確かめようとしたら、もう萎れてしまっていたわ」この話題を出すことで、キュラソウがあの晩のことを思い出すかどうか、試してみる気持ちでルニエは尋ねる。


「それは……萎れているだろうね。あの花は、夜にしか咲かない」


「何故、夜にしか咲かないのですか?」


「さあね。花にでも聞いてみないことには……」彼はくすりと笑う。「それに、君は何故怒っているの?」


「え? 怒っていませんよ、わたし」


 突然の質問に驚いたルニエは、全面的にそれを否定した。が、たしかに特定分野に関して怒っていたので、彼の反応を見つつ、訂正を加えることにした。


「いえ、やはり怒っています、わたし……」


「やっぱり怒っているんだ……。ふーん」キュラソウは半分くらい興味なさそうに呟いた。


「先生は、何故わたしが怒っているのかご存知?」ルニエは満月の夜のことを思い出すと、やや怒りが再び込み上げてこないこともなかった。


「それは……その、僕が君を抱き締めたからでしょ?」少し言いにくそうに、彼は答える。


「それはそうですが、何故抱き締められたわたしが怒っているか、お解りになりますか?」


 あまりにしつこくルニエが尋ねたので、キュラソウは当惑したように顔を強張らせ、歩くスピードが少しだけ遅くなった。


「……嫌だったからじゃ……ないの?」


「わたしは……」


 嫌ではなかったから、無神経にああいうことをされて怒っているのだ、とルニエは言いたかったのに、言えなかった。言葉の続きと共に、ルニエの歩みも止まる。彼も止まったようだった。


「ルニエ……?」キュラソウがルニエの肩に手をかけた。


 言葉に詰まり、日傘を斜めにし、顔を下に向けたルニエだったが、このまま下を向いていると、涙が零れ落ちてきそうだったので、顔を上げる。彼と目が合う。しかし、彼はその目をすぐに逸らせた。


「あ……」


 目を逸らされたルニエは、ガッカリした自分が思わず声を出したと思ったら、どうやらその声は、キュラソウが発したものらしかった。


「えっと……あ……、僕ちょっと忘れ物してきたみたいだから、先に行っておいてくれないかなぁ?」


 その台詞があまりにも場違いな気がしたので、ルニエはついさっきまで、自分がどんな状態であったのか、半分くらい忘れてしまった。


「忘れ物……ですか? わたしの家にでしたら、わたしが取りに戻ってきましょうか?」


「あ、いや、大丈夫だから。先に行っていて欲しい」


 どうも怪しい、とルニエは思った。だが、ルニエが一緒にいて欲しくないようなので、半分ほど妥協して先に行くことにする。ゆっくりと歩いて角で立ち止まり、後ろをちらっと振り返ってみた。キュラソウは、忘れ物を取りに戻るといって一度通り過ぎた道を、また戻ってきて、迷わず公園へと入ってく。


(公園に何の用なのかしら?)


 ルニエは訝しく思ったが、先に行くことにした。


 再び歩き出し、角を曲がったところで、ルニエは向こうから歩いてきた誰かと鉢合わせになった。日傘は何とか免れるが、肩がぶつかる。誰かの髪がルニエの顔を掠め、甘い香りがした。


「あ、ごめんなさい!」驚いたルニエは謝って、相手の顔を見た。


 そこに立っていたのは、あの日、ラ・コスタを尋ねてきた女性だった。色白でほっそりとしており、目深に被った帽子からは、空の色に似たサラサラの髪が流れ出ている。顔はよく見えない。


 ますますルニエは驚き、どうしたら良いのか判らなかった。


 彼女は立ち止まったまま動かなかったが、しばらくして軽く唇を噛み、ゆっくりと言った。「彼にこれ以上、近付かないで。彼をこれ以上、惑わさないで」小鳥のように綺麗な声なのに、低く、憎しみが込められていた。


「あ……わたしは……」寒気が細波のように押し寄せ、ざわざわと頭のあちこちでルニエに警鐘を鳴らした。


わたくし、許しませんから……!」そう言って、顔を上げた彼女の目をルニエは見た。深い青、とても綺麗な眼だったのに、その中は怒りで満ち溢れている。


 それはとても強すぎて、ルニエを押し潰してしまいそうだった。手が、脚が、肩が震える。ネコに羽を抑えられた小鳥のように、動けなくなってしまった。もはやルニエは、自分がどうして立てているのかも分からなかった。


「ルニエ!」


 用事が済んだらしいキュラソウから後ろからポンと肩を叩かれたときも、どうにか枝に着いていた枯葉に息を吹きかけたように、ごく自然とバランスを崩した。彼は慌てて倒れかかってきたルニエを受け止める。日傘が地面を跳ねた。


「……どうしたの?」彼は心配そうにルニエの額に手を当てた。


「あ……青い」とても息苦しく、一所懸命にルニエは呼吸をする。唇が震えて、上手く喋られなかった。


 いま、キュラソウに抱き付けたら、どれくらい安心できるだろう? とルニエは思ったが、あの女性がどこかで見ているかもしれないと思うと、このまえの彼の反応を思い出すと、自分が傷付くリスクがとてつもなく大きそうだった。


「大丈夫だよ、落ち着いて……。ほら、深呼吸をしてみてごらん」


 キュラソウに促され、ルニエは徐々に落ち着きを取り戻した。


 支えがなくても独りで立っていられるようになると、ルニエはお礼を言って、彼から少し離れる。


「もう……大丈夫です。ごめんなさい、行きましょう」


 日傘を拾って再び歩き始めたルニエの横を歩きながら、キュラソウはしばらく心配そうな顔をしていた。それが、医師としてなのか、個人的になのかは分からない。


「青い……なにかを見たの?」ルニエがちゃんと言わなかったので、遠慮がちに彼が尋ねた。


「ヘビです」少し考えてルニエはこう答える。「わたし、足がないものや、足がたくさんあるものが苦手です。気を失うかと思いました」


「そう……」


 納得したのかどうなのか分からないが、それ以上キュラソウは聞かなかった。そのため、二人は他愛のない会話をしながら歩き、彼の家にたどり着く。

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