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夕食の時間に、コルドン氏から『機嫌が良いな』と言われたルニエは、否定しなかった。機嫌が悪くないことは自覚されていたし、あえて否定する必要はないだろうと思われたからだ。コルドン氏も、機嫌が良い理由を聞かなかった。
もし、尋ねられていたとすれば、ルニエは一体何と答えていただろうか? きっと、もう直ぐバランタインズデイだから、だったに違いない。
ルニエの妹は、ルニエと目が合うと無言で微笑んだ。彼女はかなり高い確率で、姉の機嫌が良かったのはキュラソウと会ったからだ、と思っていたのではないかと思われた。彼女の想像は半分くらい間違ってはいなかったが、正確とは言いがたい情報を中途半端にコルドン氏へ伝えられることがないだろうか、と密かにルニエは心配していた。
部屋の照明を消し、ルニエは目を閉じる。深呼吸をして目を開ける。十分に部屋は明るかった。誕生日にラ・コスタに貰った花が、いくつかの蕾をつけていて、窓際の月光の下で青白く輝いていた。カーテンを開けてバルコニィへと出てみると、丸い月が斜め上に見えた。オリンジに似た月だった。
やや雲が多く、月に纏わり着くように隠したりもしたが、風も強かったため、そう長くは続かなかった。
気がすむとルニエは部屋に入り、そのままシートの中に潜り込む。
十時まえだった。
ラ・コスタが今夜もやって来るかどうか、不確かで曖昧で何の確信もないまま、保険をかけるようなつもりだった。もし、彼が来た場合、また寝不足で倒れてなんかはいられない。
普段はなかなか寝付けないルニエも、今日だけは眠れそうだった。
十時少しまえに、女中と思われる足音が近付き、すぐに遠ざかっていくのを聞いた。
眠りつくまでの間、ルニエは何度も何度も、『彼が来たら絶対に目が覚める』と、心の中で暗示をかけた。アロマテラピィのポットを今日はつけていないはずなのに、微かに甘い香りが辺りに漂っているように思えた。
だんだんとルニエは、頭がボーっと痺れたようになり、いつから始まったのか、夢を見る。
夢の中で、ルニエは魚だった。温い海を泳いで、水面にキラキラ輝く丸い月を目指していた。ようやく水面にたどり着くと、船の上で誰かが『月が綺麗だね』と言った。ルニエが自分に話しかけられたのだと思って答えようとすると、別の誰かが『月の光は、蜜のように甘い』と答える。何故月の光が蜜のように甘いのかを考えていると、誰かが『僕には甘すぎるよ』と答えた。
(この人が、ラ・コスタなら良いのに……)
『おい、彼女を起こしてやらんのか?』別の誰かが問いかける。ルニエは船の上を見上げたが、大きな船だったのではなしている人物たちの姿は見えず、人影が水面でゆらゆら揺れているだけだった。誰かの返事は聞こえてこない。首を振るか頷くかのジェスチャだけが行われたのかもしれなかった。
『おい、ラ・コスタ』別の誰かは、相手のことをラ・コスタと呼んだ。ルニエは妙に、そのことが嬉しかった。『僕は……』ようやく、夢の中のラ・コスタが話し始める。『僕には、彼女を起こす権利はない』『ふん! この小心ものめが!』ラ・コスタらしい発言を、別の誰かが詰る。
二人はまだなにかを話していた。その声はもう、ルニエには聞こえない。ルニエは、起こしてもらえないなら、自分で起きなくては! と思った。寝るまえにかけた暗示のお蔭で、夢の中で誰かが起こそうとしてくれているのかもしれない。
なにかがバルコニィの手摺に当たった音がした。ルニエは目を開ける。
部屋は甘い香りが充満している。
カーテンに映った影がベッドの上まで伸び、ゆらゆらと揺れていた。鳥が羽ばたくような騒めきが聞こえる。
深呼吸をしたルニエは、これが現実であることを自覚した。時計を見ると、零時過ぎである。かけてあった厚手の上着を羽織り、ルニエはシートの中から抜け出した。
バルコニィへの扉の鍵を外すと、甲高い鳴き声のような音が聞こえて、思わず扉を開ける手を止める。それ以上、その音はしなかったので、今度こそ扉を開けた。
ふんわりと風が流れていた。風に流される雲の速度は速い。月は雲に遮られたり、現れたりを繰り返していた。
「こんばんは、お嬢さん。月の綺麗な夜ですね」手摺にもたれていた彼が言った。
その台詞は以前と同じものなのに、以前とは違っていた。ルニエは今更になって、あのときラ・コスタが名乗ってもいないのにルニエの名前や血液型を知っていたことに気付く。
「え…………? 誰?」そこにいた人物は、ルニエの想像と違っていた。
月光が彼の顔を照らし出しても、ルニエはすぐに彼が誰であるのかが判らなかった。何故なら、彼は眼鏡をかけていなかったからだ。トレンチコウトのベルトの端がゆらゆらと揺れていた。
「僕だよ」
「もしかして、先生ですか?」ラ・コスタがいるとばっかり思っていたルニエは、驚いて答える。
「もしかしなくても、ね。はは……僕じゃないほうが良かったかな?」
「……ラ・コスタは……どうしているのですか?」冗談っぽく言った彼に近付き、恐る恐るルニエは聞き返した。
「ラ・コスタはずっと寝ているよ。あ、ラ・コスタって……いや、何でもない」キュラソウは、なにかを言いかけて自己完結させてしまった。そして、そっとルニエの髪に触れる。「寒くない? 上着を貸そうか?」
「大丈夫です。今夜は厚めですから。先生は何故こちらに?」
こんな場所でキュラソウに会うとは思ってもみなかったルニエは、多少混乱した頭で質問する。ラ・コスタのときも驚いたが、キュラソウがバルコニィに侵入していたとすると、笑い話ですまないのではないのか? ルニエはラ・コスタを許したことを考慮すると、キュラソウだけを咎めるのも悪い気がした。
「何故って……満月だからかな。それに、せっかくだから、僕が君にあげた花が咲いているのを見せてあげようと思ってね」
「花……?」ルニエにはどの花か判らなかった。
「そ、あれ」彼は窓際を指差す。
窓際には誕生日に貰った鉢植えが置いてあり、一度眠るまえには蕾だった花が咲いていた。近付いてよく見てみる。甘い香りは、この花から発生しているようだった。
(そういえば、この鉢植え、ラ・コスタの隣の部屋で見たものだわ。彼も、甘い香りが花のものだって……)
「この花は食べられるよ。それに、綺麗な青い色なんだ」
彼に言われて、ルニエはバルコニィからじっくりと花を観察する。あとでまた明るいときに見てみよう、と思った。花はそれほど大きいものではなく、五枚の薄い花びらが合わさっていた。
「こんな小さな花から、どうやって蜜を集めるのかしら?」言ってから、ルニエは、キュラソウに尋ねるべきではない質問だったかもしれない、と少し後悔する。
「妖精が集めるんだよ」笑いながら彼は答えた。
別にルニエの質問に対して、特別な反応をしているわけでもないように見えた。この答えも、どこまで本当なのか分かりにくい。
(ラ・コスタは、蜜をわたしにくれたこと先生に内緒って言っていたけれど、鉢植えのことも知っていらっしゃったし、大丈夫みたいだわ)
ルニエは独りで安心する。キュラソウは手摺にもたれて、空の月を見上げていた。先月の光景によく似ているが、立っている人物のサイズが違っていた。
ラ・コスタが来なかったのは残念だが、キュラソウと一緒にお月見をするのも良いかもしれない、と思ったルニエが彼の隣で自分も月を見ようとして、途中でなにもないのに躓く。悲鳴を上げる暇もないまま、彼の背中にぶつかりそうになったが、彼がサッと振り向いて手を広げて受け止めてくれたので事なきを得た。
「あ……ありがとうございます」
「大丈夫?」
確認を取ってから、彼はルニエの上半身を支えていた手を緩める。
真っすぐと立ち上がろうとしたルニエだったが、足に力が入らず、彼の胸元に顔面がぶつかった。鼻先が触れているコウトからは、キュラソウの匂いがした。あの家の匂いだった。
(これではまるで、わたしが先生に抱き付いているみたいだわ!)
急に恥ずかしくなったルニエは、慌てて足を動かそうと試みる。が、予想もしなかったことに、キュラソウにそのまま抱き締められた。呼吸が止まりそうになって、目の前がくらくらしてくる。
体温が低いせいなのか暖かい、とまではいかない彼の腕の中。恐る恐るルニエも彼の背中を抱き締め、頬を彼の左胸に当てる。服の厚みがあるせいなのか、心臓の音は聞こえてこなかった。
ルニエがラ・コスタに抱き付かれたときもドキドキはしたが、いまが一番ドキドキしていると思った。ルニエの頭の中が、キュラソウでいっぱいになる。
「先生……わたし……」
その想いを、勢いに任せて言葉にしようと顔を上げたルニエは、キュラソウを見上げる。
彼は締め付けていた腕を放し、微笑んで言った。「嬉しかった?」
ルニエはその台詞の意味を考えた。沸騰気味だった頭に冷水が注されたのが自分でも判る。
「何故……何故、先生はわたしを抱き締めたの?」
「君が僕を好きだって言っていたから、喜ぶかなと思って。嬉しくなかった?」彼の答えからは、何の罪悪感も読み取れず、それだけにルニエは悔しくて悔しくてたまらなくなる。
「先生は、誰かを好きになったことがありますか?」ルニエの頬を涙が幾筋も流れ落ちた。
「えっと、ない……かな」
戸惑いつつも即答したキュラソウの左頬を、力の限りルニエは平手打ちした。深夜には不似合いな破裂音が響く。彼がもし、眼鏡をかけてきていれば、眼鏡が吹き飛んで壊れてしまっていたかもしれなかった。
「残酷すぎるわ! わたし、謝りませんから。帰って下さい!」できる限り感情を抑えつつも、ルニエは叫ぶ。
彼は驚いたようで、動きを止めたまま、少なくともルニエが部屋に戻る間は立ち尽くしていた。ルニエは部屋に入ると、もう一枚カーテンを閉める。しばらく立ってもルニエの怒りは収まらず、家具に八つ当たりでもしそうな勢いだった。
「酷い! 信じられない! 反対の頬もぶてば良かったわ」後悔と共にルニエは部屋中をぐるぐると歩き回った。
(あれがラ・コスタだったら、やはりわたしはぶったかしら……?)誰が一番好きなのか、ルニエの中で解らなくなりつつあった。(……判らない。ラ・コスタが好き? 先生のほうが好き? 変なわたし、二人とも同じくらい好きなのかしら……?)
少し落ち着いたルニエは、カーテンの隙間からそっとバルコニィを覗いてみた。もちろん、そこには誰の姿もなく、あざ笑うかのような鳥の声が響いた。




