22
先日の誕生日でルニエは十六歳になり、憂鬱なことがまた一つ増えた。そろそろ結婚しろと、父がしきりに見合いを勧めてくるようになったのだ。母が結婚したのは彼女が十六歳のときなので、この歳で結婚するのが良いと思っているらしい。
(わたし……結婚はまだ良いから、相談員になりたいの)
父に見合いを勧められるたび、その言葉を飲み込む。誰かに話すことで苦痛を軽減できることを経験したルニエは、相談員という職業があると知って興味を持っていた。本格的に学ぶとすれば、学校に通って資格を取らないといけないようだ。普通の学校にさえ通っていないのに、たとえ口にしても、まさか許してはくれまいだろう、という確信がルニエの中にいつもあった。余計に見合いを勧められるに決まっている。
しかし、見合いとはいっても、パーティで会ったシャン・ドマールと形式上見合いをして、そのあと婚約をする、というものであった。お見合いに行ったら最後、婚約を交わしたということにされてしまうのであろう。
ルニエが渋っているにもかかわらず、しつこくコルドン氏は見合いを勧めたが、ルニエがついに耐えかねて、『二十歳までは結婚しない!』と宣言したため、渋々ながら折れた。その後、彼がどうしたのかよく判らないが、もしかすると両家の間で婚約扱いとなり、ルニエが二十歳になったら結婚することになっているのかもしれなかった。
誕生日から十五日も経っていたのに、ルニエはあれからラ・コスタと会ってはいなかったし、特別体調を崩すようなこともなかった。次にキュラソウと確実に会うとしたら定期検診であったが、ちょうど今日は満月であったので、ルニエからキュラソウの家を訪ねてみようと思い立った。
(先生に会ったら、歳のことと……あの女性のことを……)
天気は良かったので、少なくともラ・コスタは家にいるだろうと想像できた。
コルドン氏に出かけることを伝え、玄関で日傘を広げる。庭のアカシアの花はもう半分以上が咲いて、全体が黄色がかっていた。ゆっくりとした足取りで、通りから見える家々から広がるアカシアを見ながらレンガの上を歩く。
キュラソウの家に着くと、日傘を畳んで腕にかけ、ノブに反対の手をかける。やはり鍵はかかっておらず、ゆっくりと扉を開けて中を覗き込んだ。
まず、ルニエは鳥籠を見る。中にはオリンジのカナリアがいたが、数が倍――つまり二羽に増えていた。しかも、片方は翼を震わせたため、生きていることが分かった。急いで家の中に滑り込み、扉から手を離して鳥籠の中を覗き込む。中にいたカナリアの片方が翼を広げ、威嚇するようにチチッと鳴いた。
「お前は誰ダ、お前は誰ダ!」そのカナリアは首を傾げ、鳴き声に続けてガラガラ声で叫ぶ。
「まあすごい……話ができるの? わたしはルニエよ、カナリアさん」
「ジャックすごいヨ、素晴らしイ~! ルニエ好キ~、ルニエ好キ~」カナリアは嬉しそうに何度も繰り返した。
ルニエも手を叩いて褒めてあげる。カナリアは足で入口を開けて鳥籠から飛び出し、ルニエの肩に飛び乗ってさえずり、閉まり切っていなかった扉の隙間から外へ飛んでいく。
「あ!」
手を伸ばす。届かない。急いで扉を開けるが、もうカナリアはどこにも見当たらない。
「え?」しかし、そこには驚いた顔をしたキュラソウが立っていた。「ルニエ……?」ルニエがここにいることが信じられないみたいである。「どうして……ここに?」
彼は少し動揺しているみたいだ。動揺しているらしい証拠として、次の台詞に移るまでの間隔が明らかに長い。ルニエを見る彼の視線がぎこちない。
「カナリアが……逃げて……」お構いなしにルニエは彼に走り寄る。
「カナリア? ああ、大丈夫だよ。空腹になれば帰ってくるから……、ね?」
「ごめんなさい……先生」
しょんぼりとするルニエの肩をキュラソウがそっと押した。「さあ、中へ入って、僕に用事があるのだろう?」またいつもの調子に戻り、彼は家の中に入ると後ろ手に扉を閉める。
ルニエは黙って笑う。彼は手にかけていた日傘をじっと見ていた。
「良いな、僕もそんな日傘を買おうかな」
「先生がこんな日傘を差すのですか?」の日傘を改めて見てみる。
「夏場に良さそうだよね」
冗談ではなく本気で羨ましがっているらしい。ルニエは、黒い蝙蝠傘が一本だけ入っている傘立てに日傘を入れた。
「お仕事が忙しいですか?」
リビングに向かいながら尋ねる。キュラソウは白衣だけを羽織っていた。いくら暖かいといっても、少し寒そうに思える。
「いや、診察はこれで終わり」
ソファに彼が座り、そのすぐ横にルニエも座った。
「そうそう先生、お花……ありがとうございました。本当は先生がアルギランセマムを選んでくれたのでしょう?」
「あ……ああ」彼は不思議そうな顔をして頷く。「花が可愛いから。僕は白のアルギランセマムが好きなんだけど、君にあげるなら君に似合うオリンジのほうが良いと思って」
「白も好きですよ、わたし」白のアルギランセマムなら、白衣と同じくらいキュラソウに似合いそうだとルニエは思った。
「そう? じゃあ、次に花を贈る機会があれば白にするよ」
そんな機会に是非恵まれるようにと祈りながら、ルニエは自分がキュラソウに聞きたかった質問を思い出そうとするが、聞きたかった質問ほど拒絶されているかのように、すぐに思い出せなかった。何故か何度も彼の顔を見てしまう。
「そういえば、ラ・コスタは博士号を持っているそうですね」
「ラ・コスタが? そんなはずないよ、寝てばっかりいるのに。博士号を持っているのは僕だし……」
「え……そうなの……ですか」ルニエは驚いて目を瞬かせる。あのときの彼が嘘を吐いているようには見えなかったのに。「どのような研究を?」
「妖精の翅だよ。妖精って知ってる? 妖精の翅形成および特性に関する研究とか」にっこりと笑って彼は答えた。
どうやら自分の研究のことを聞かれるのは嫌ではないらしい。彼の答えた内容が、誕生日パーティの日に、ラ・コスタの口から聞いたものとあまりにも似ていたので、ルニエは笑いをこらえるのが難しかった。
「妖精は本の挿絵で見たことはありますけれど、研究しているとなると、先生は実際にご覧になったことがあるのですよね?」
「そりゃあね。こんな街中では見ることなんてないだろうけど、シリンダ島やフラスコにいけば目にする機会も多いよ」
シリンダもフラスコもリキュアに近い島国であったが、リキュアは国土が比較的広いため、ルニエの住んでいる内陸部からは絶望的なくらい遠かった。
「もしかして、妖精の写真をお持ちですか?」せめて挿絵ではなく実物の写真でも見てみたい、と思ったルニエは尋ねてみる。
「いや……僕、写真は撮らないから。それに、翅はほとんど写らないからね」
「そうなのですか、飛んでいる姿を見てみたかったのですけど……残念です」
それを聞いて、なにか言いたそうにしばらく考えているようであったキュラソウは、首を傾げながら言った。「妖精は必ず飛ぶとは限らないけど……」
「え?」
部分否定だったため、妖精は全て翅が生えていて空を飛ぶもの、と思い込んでいたルニエは衝撃を受ける。いままで見たことのあった挿絵は、どれも背中に翅が生えた髪の長い女の子が飛んでいるものであった。つまり、ルニエの中での妖精とはその挿絵以外のなにものでもなかったのだ。
「あ、やっぱり妖精が全部飛ぶと思っていたんだ……。妖精といってもいろいろな種類があるから、チョウみたいにひらひら飛んでいるのは小妖精。光の妖精と闇の妖精も飛べる。見せかけの翅はあるけど、飛ばないものもいるし、もちろん翅がないものもいる」
「わたしが見た挿絵は、どんな妖精なのですか?」
一瞬、キュラソウは考えるような素振りを見せて答える。「多分、有翅妖精じゃないかな。少女のような容姿でアマシストの髪と眼を持ち、二対の翅がある。大きいタイプと小さいタイプがいて、小妖精はこれくらいのサイズ」彼は両手で、頭くらいの大きさを示して言った。「もしルニエが読んだ文献に『妖精』としか表記されていなかったとすれば、大きいほう、普通妖精だろうね。でも、普通妖精は翅があるけど、重くて地面から数センタミータほど浮かぶのがせいぜいかな。ところで君は、妖精のように外見上歳をとらないのをどう思う?」
放っておけばそのままずっと喋っていそうな勢いで、キュラソウは説明をしてくれた。彼の専門分野であるようなので、説明するのが嬉しいのかもしれない。ところが専門用語が多すぎて、ルニエはなかなか把握できなかった。ようやく自分が一番聞きたかったことを思い出したルニエは、会話の延長線上で尋ねられる質問を思い付いた。
「そういえば……この間、先生にご用ができたと仰った日にすれ違った女性、とっても綺麗な髪の色をしていましたね」
少しわざとらしい質問だったかな、とルニエはキュラソウを見たが、彼は特に表情を変えなかった。
「ああ、あの色は綺麗だけど、アマシストじゃないよ。昔は彼女、アマシストの髪の色だったんだ。もちろん有翅妖精なんかじゃないけどね」
ルニエが聞きたかったのは彼女のことなのに、髪の色、という多少違った返答が帰ってくる。「随分と長いお付き合いなのですか?」
「長さは……長いね。ルニエなんかよりもずっと」にっこりと彼は答える。
そのまま質問を続けても良かったが、一次休戦してルニエは考えた。キュラソウがルニエの聞きたいことを分かっていて答えているのか、気付いていないかについてだ。ときどき鋭い一方で、今回は気付いていないという仮説を立てる。
「先生と……どういうご関係なのでしょうか?」
「ご関係? えっと、家系とかそんなのじゃなく、もしかして、えーと、僕と彼女が付き合っているかどうか聞いているの?」
きょとんとした表情で、彼は聞き返す。さすがにほぼ直球だとヒットしたようであった。
「ええ」真剣にルニエが返事をすると、キュラソウは笑い出した。
「なにを聞くかと思えば……。まさか、僕と彼女が付き合うなんてことあるわけないよ。そんな感情は僕にはないし。それに……、彼女が本当に好きなのは、僕じゃなくてラ・コスタだからね」
「え?」ルニエは驚く。
(そういえば……彼女は『ラ・コスタに会いにきた』と言っていたわ)
最悪の結果を夢にまで見ていただけに、キュラソウの答えはルニエにとって安心できるものだった。自然と顔が緩む。彼とあの女性が付き合っていなかったことが判明しただけなのに、何だか肩が軽くなったような感じであった。
(でも、あの女性は先生を好きで、本当はラ・コスタのことが好きというのは、どういうことかしら?)
疑問が残る。
だが、主治医と満月の少年の間で揺れているルニエは、自分のことを棚に上げてキュラソウにそれ以上のことを尋ねてみる勇気はなかった。
「嬉しそうだね。僕がフリーだと嬉しいの?」
「ええ……」少し控えめにルニエは肯定する。
「何故?」
「それは……」
『多分、あなたのことが好きだから』と、ルニエは続けたかったが、続けることができなかった。満月のあの夜に、ラ・コスタに『好きだ』と言ったのに、この場でまた同じ言葉を口にするのが躊躇われたのだ。
「わたし……」
(言葉にしても、良いのかしら?)ルニエは迷う。
「ああ、これが『大いなる好奇心』ね」キュラソウが興味深げに言った。
「え? ち……違います! これは……」
「これは?」
『大いなる好奇心』の話をしたのは、果たして彼とだっただろうか、とルニエは一瞬考えて止めにした。尋ねられる側のルニエは明らかに不利で、この場を切り抜ける対策を講じなければならなさそうだった。
「そういえば……」
「あれ、話を逸らしたね」キュラソウに指摘されるが、ルニエは気にしない。
「以前、先生は二十三歳だと仰いましたけど、本当はおいくつなのですか? エルから聞きました。五年もまえに診察されていたのですってね。だからあのとき、エルの名前が出て動揺されていたのだわ」ルニエはジョウカを出して、彼の様子を窺った。「よく、歳を誤魔化しているのですか?」
せっかく、エルに嫌なことを思い出させてしまってまでも手に入れた情報だ。彼女が言ってくれたように、ルニエはできるだけ後悔しないよう行動するつもりだった。ジョウカの効き目は予想以上に大きく、キュラソウは困ったように両手を内側と外側と交互に揺らす。
「いや……その、それは説明できないんだけど、困ったな。ときには……ほら、事実を告げるより嘘を吐いたほうが良いときがあるし、目的は手段を正当化するとか言うじゃない? できれば僕は相手も傷付けたくないし」それはまるで、歌を歌っているみたいな言い訳だった。
歳を誤魔化したくらいで相手が傷付くのだろうか? の疑問はさて置き、ルニエは彼の子どもっぽいうろたえぶりが可愛いと思ってしまう。
「子どもみたい……」ルニエは言った。
「だって、僕はピータ=パンだから、決して大人になんてなれないんだ」
ほとんど聞き取れない音量で彼は呟いた。聞いたことのない言葉。ルニエには意味が解らない。
「わたしも傷付けたくないですか?」
「それはもちろん……」
ルニエはキュラソウの目を見た。彼はすぐに、目を逸らせた。
「わたし、こういうのでも傷付きますよ?」
「それは失礼。でも、そうしないと僕が傷付くんだ」笑いながらキュラソウは言った。
その答えの何割かは冗談だと受け取りつつ、ルニエは壁にかけられた時計を見る。以前、ラ・コスタに十五秒遅れていると言われた時計だ。そろそろ昼食の時間が近かいようであった。
「そろそろ、お暇しますね」ルニエは立ち上がった。
「ああ、そうだ」彼はちらっと時計を見る。「あの時計だけど」
「知っています。遅れているのでしょう? 十五秒フラット」笑ってルニエは応じた。
「いや、最近合わせて、遅れているのは一秒くらいになっているから」
真面目に訂正を加えてくれたキュラソウには申し訳なかったが、たとえ十五秒でも一秒でも、その程度の違いならばルニエには関係なかった。そもそも、秒の単位まで正確な時計がどれだけあるのだろう。遅れていることを認識している自体が既にすごいのかもしれない。
「あら、今度わたしの家の時計も診てもらわなくては!」
冗談でルニエが言うと、彼は軽く前髪を掻き揚げていった。「そう? 僕が最後に見たとき、リキュア標準時間に比べて、君の部屋の時計は三十秒、フォンの近くにある時計が四十五秒、食堂の時計が二十七秒、玄関の時計は六十二秒遅れていたよ。食堂の時計は早く合わせたほうが良い」
ルニエは驚いて口を開けたままで、しばらく彼を見つめる。せっかく教えてもらったのに、遅れている時間も全く覚えられなかった。
「……何故、食堂の時計を早く合わせたほうが良いのですか?」ようやく口にしたのは、そんな質問だった。
「ほら、3の3乗じゃない。縁起が悪そうだよね」
さも困ったように眉をひそめるキュラソウを見て、ルニエは必死にその台詞の意味を考えたが、全く検討もつかなかった。他国の言い伝えに、3は不吉な数字だというものがあるのかもしれない。
「フォンの近くの時計は、何秒遅れているのでした?」
「四十五秒だよ」
メモでも貰わない限り、全部覚えるのは無理そうだったので、ルニエはとりあえず一つだけ覚えて帰ることにした。
「では、帰りますね、先生」
キュラソウはルニエを玄関まで送ってくれる。彼が手を振ってくれたので、ルニエも軽い会釈を返す。
朝は良い天気だったのに、空は薄っすらと曇っていた。このまま天気を崩して雨が降る、なんてことにならなければ良いな、とルニエは思った。せっかくの満月が見えなくなってしまう。
ラ・コスタが今日、やって来るかどうか探りを入れたかったルニエだったが、聞くことができないままであった。例の女性とキュラソウの年齢については尋ねられたので、収穫は半々といったところか。
家に帰り着いたルニエは、真っ先にフォンに駆け寄り、電話をかける。かけた先は、現在時刻の問い合わせ。壁にある時計の秒針を睨み付けながら、時間のズレを確認する。
たしかに、四十五秒遅かった。




