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「ルニエ!」
声をかけられてルニエが振り返ると、エルが手を振っている。彼女は黒いカクテルドレスを着ていた。ラ・コスタは彼女を見て、どこか困ったように眉をひそめて、少し離れたところにあった椅子に座った。
「来てくれたのね」
「もちろんよ。でも、プレゼントはあまり期待しないでね」エルが冗談っぽく言った。
「期待しているわ」笑いながらルニエも答える。
「あら……?」エルはラ・コスタに気付いたようであった。「彼、どこかで……」
「ほら、まえに言っていた先生の……」
「ああ、貴方の好きな人ね。本当……先生に似ているわ」感心したようにエルは言って、ラ・コスタに手を振る。彼は苦笑いしながら仕方なく手を振り返していた。
パーティはいつの間にか始まり、コルドン氏が歓迎の挨拶をしていた。温かい料理が運び込まれ、飲み物が配られる。ルニエはオリンジジュースと紅茶が二層になったものを、エルは白っぽい液体で縁に白っぽい結晶がついたグラースを受け取った。ルニエの飲み物は少し揺らされたためか、層がやや融合して混ざり合っていた。ラ・コスタはどうやらオリンジジュースを貰ったようである。
「そういえば、どうして先生が手話を始めるキッカケになったの?」
またふと思い出し、今日は教えてもらえるかもしれない、と思ってルニエは尋ねた。
「……ごめんなさい、こういう場面で言うようなことじゃないんだけど……」エルはグラースを回し、端の結晶を舐めた。「しょっぱい……」一瞬、彼女は泣きそうな表情をする。どうやらそれは、塩だったようだ。
「もしかして、聞いてはいけなかった……?」
彼女の悲しそうな表情が気になった。彼女は首を振り、溜息を吐く。
「良いわ、今日は特別に教えてあげる。以前、ね、婚約者が事故に遭って意識不明、私は精神的ショックや看病疲れで倒れたことがあったの」エルは寂しそうに微笑み、手に持ったグラースをまたグルグルと回し始める。
ルニエは、彼女が左手の薬指にリングをしていることは知っていたが、その相手のことについて耳にするのは初めてであった。
「倒れた私がお世話になったのがキュラソウ先生。彼の意識が戻ってからも、舌に痺れが残っていて上手く喋れなくて、どうなるのか不安だったの。その不安な気持ちを話したら、もし喋れなくなったとしても筆談もできるし、新しいことを、例えば一緒に手話を覚えたりすれば良い、ってアドヴァイスして下さって……、随分と前向きになれたわ」
ルニエはこのまえ、女中が耳の聞こえなくなったという彼女の弟についてアドヴァイスを受けていたことを思い出す。そういった相談に縁があるのだろう。
「それで、上手くいったのね」
ルニエは当然のようにそんな結末を予想した。
だが、エルは何も答えずに悲しそうに微笑むだけだ。
「あ……ごめんなさい!」心の中でまさかを繰り返しながら、ルニエは小さな声で叫ぶように謝る。彼女が今までこの話をしなかった理由を考えるべきだった。
「私も、全ては上手くいっていると思っていた。話せなくなっても大丈夫、そう言いながら、彼の体調が良いときに、言葉と手話とで話しかけることにしたの。私は一生懸命手話を勉強したわ。彼は嬉しそうに笑っていた。でもそれは、彼が私を安心させるために吐いていた嘘だったかもしれない」エルは短く溜息を吐く。「彼がいなくなってしまったいま、後悔はしていないわ。精一杯やったもの。彼だって、最後に笑っていた。それなのに、駄目ね……。いつまで経っても忘れられないの……」
「エル……、教えてくれて、ありがとう」
切なくなってルニエは言葉に詰まる。コルドン夫人が亡くなったあの日の、言葉にできない切なさが蘇ってきた。上手い慰めの言葉など、どこにも見付からなかった。
(いつまで経っても忘れられない……)ルニエはエルの言葉を繰り返す。(いつまで経っても? 彼女が家庭教師になってから、私情で休むことはなかったけれど、一体いつのことなのかしら?)
沸き起こった疑問がルニエの口をついて出る。
「ねぇ、キュラソウ先生と初めて会ったのはいつなの?」
「えっと、五年まえだけど……」その答えにルニエは息を呑んだ。「人生、いつなにが起こるか分からないから、ルニエも後悔しないようにするのよ」付け加えるようにエルは言った。
「それがどうかしたの?」ルニエが押し黙っているので、不思議に思ったエルが尋ねる。
それでもまだ、ルニエは黙ったままだった。頭の中ではいろいろなことがグルグルと回っていた。以前、尋ねたときにキュラソウは自分の歳が二十三だと言っていた。そこから5を引くと十八歳。その歳で医師であるなど、かなり無理がありすぎるのではなかろうか。
「ねえ、ラ・コスタ! 先生がお医者様の免許を取ったのはいつ?」
「あぁ……」半分逃げるような体勢で椅子から立ち去ろうとしていたラ・コスタは、諦めたように溜息を吐く。「準一級が二十三歳のときだよ」
医師免許の準一級から開業医の資格がある。つまり、エルがキュラソウと会ったとき彼が二十三歳だとしても、単純計算で二十八歳だ。矛盾している。
「彼、本当は今いくつなの?」鬼気迫る思いでルニエは尋ねた。
「彼? さあ……」ラ・コスタは不思議そうに首を振る。
その反応をルニエは不可思議に思いつつも、もう一歩ラ・コスタに詰め寄ってやろうと近付きかけたとき、声をかけられた。パーティに招いた客の一人である。そのまま無視するわけにもいかないため、ルニエは丁寧に挨拶をした。
「じゃあ、私はこれで……。また明日ね」
遠慮したエルは席を立つ。明日また改めて彼女に謝っておかなければいけない、とルニエは思った。
それをキッカケにパーティの招待客が、次々とルニエに話しかけてきた。終いには父までもが紹介をしてきた。
「ルニエ、こちらはドマール夫妻、そして彼が……」コルドン氏が上品な夫婦を紹介し、続いて掌を一人の少年に向ける。
「は……初めまして! 僕はシャン・ドマールです。今夜は貴女のような方のパーティにお招きいただき光栄です!」上ずった声で彼は勢いよく頭を下げた。
「初めまして、ルニエ・コルドンです」澄まして軽く膝を折る。純朴そうな少年は、ルニエが微笑むと顔を真っ赤にしていた。
ルニエが辺りを見回すと、ラ・コスタは既に見当たらず、彼が座っていた側にはまだ少し残ったオリンジジュースが入ったグラースがポツンと置かれていた。
「あの、ルニエさんのご趣味は?」
シャン・ドマールの質問でルニエはハッと我に返り、自分が独りっきりでないことを思い出す。
「編物を少し……」
「編物ですか。母も編物がとても好きなのです。気が合うかもしれませんね!」嬉しそうにシャンが言った。
それからしばらく二人は雑談を交わしたが、ルニエは彼が言ったことをあまりよく聞いてはいなかった。そして、ときおりコルドン氏とドマール夫妻が笑いながらこちらを見るのも、特別のことではなく社交の一つだと思っていた。
パーティも終わりを迎え、招待客を送り出し、会場の片付けをルニエが手伝っていると、コルドン氏がにこにこしながらやって来る。
「ルニエ、今日は良いパーティだったな。ところで、シャン君と話してみてどうだったかね?」
咄嗟に『シャン君』とは誰か思い出せなかったルニエだが、コルドン氏が紹介した少年のことだと気付く。
「ええ、優しそうな方でしたわ」
「そうか……それは良かった。どうだ、彼はもうすぐ十八歳になるそうだ。お前と縁談があるのだが、良い話だとは思わんかね?」後半を少し慎重にコルドン氏は言った。
縁談と聞いてルニエは目を丸くした。そんなことを言われるとは思いもよらなかったからだ。いま、思い出してみると、何故コルドン氏がわざわざ彼らを紹介したのか、すんなりと理解できる。
シャンが母親と趣味が合いそうだと喜んでいたのも、縁談があることを前提にルニエと話していたからで、ときおり親たちが二人を見て笑っていたのも、お似合いの二人だ、とでも話し合っていたのであろう。
「でもお父様、まだわたし、十六歳です」気が遠くなりそうになりながら、ルニエは答える。
「もう十六歳だ。結婚しても良い年頃だろう」
さも、結婚することが当然であるかのようにコルドン氏は言った。




