19
誕生日プレゼントを貰いにいくのだと思うと、ドキドキしてたまらなくなる。あのキュラソウがどんな顔をして渡してくれるのだろうか? おめでとうくらいは言ってくれるに違いない。ラ・コスタはいるだろうか? 天気が良いので家に閉じこもっている可能性もある。
ルニエはなにもかもが楽しみだった。早く着かないだろうかと思う一方で、楽しみを先送りしたいとも思うのだ。すっかり、昨日の女性のことについて尋ねなければいけないことを忘れてしまっていた。
それでもやがてキュラソウの家に到着してしまう。相変わらず庭がなくて小さな家だったし、相変わらずインタフォンを押しても音が出なかった。鍵がかかっていないであろうノブを回し、勝手に上がり込んだ。
玄関で何かの気配を感じたような気がしたルニエだったが、そこには誰も見当たらず、物音すらしなかった。ふと棚の上に置いてある鳥籠をみると、小さなメモが添えられてある。そこには『ルニエへ、僕は出かけています。本でも読んで好きなように寛いでいて下さい。K.』と書かれてあった。キュラソウの字であったし、『K.』というのは彼の名前のイニシャルであろうと思われた。
キュラソウが待っているものだとばかり思っていたルニエは、彼が外出中であったことに多少面喰いはしたが、彼のことなので、期待はしても実際はこんなものなのかもしれなかった。
(ラ・コスタの部屋へ行ってみようかしら)
本でも読んでいて、と書かれてはいたが、この家で本のある場所といえばラ・コスタの部屋しか思い浮かばない。つい先日、本の保管状態を目の当たりにしてしまったばかりで気は重かった。寛いで読書するよりは、片付けでも始めたくなるかもしれない。
上着をリビングのソファにかけてから階段を上る。靴音が階段で響いた。彼の部屋の扉を開けて、ルニエはびっくりする。本が全部、ちゃんと綺麗に本棚に入っていたのだ。足の踏み場さえ危うかった状態が嘘のようで、あれだけの数の本が本棚に納まり切ってしまったことがかなり不思議だった。これでは、これ以上本の片付けをする余地はなかった。
仕方なく本を物色しようとざっと見渡して見るが、どれも背表紙にはタイトルが書かれていない。それに、どれも分厚いのでルニエには読み切れそうになかった。
彼の机の上を見てみる。メモ用紙が錯乱しており、書かれているのは短文もしくは名詞がほとんどで、妖精、色素、月の光、エナジィ、相利共生から死物寄生への転換、などと書かれていた。
(あら? この字は先生の字だわ……)
他には手作りと思われる色見本のようなカード、精密な翅の線画が数枚、色鉛筆や万年筆も散らばっている。机の上の本棚には辞書や事典に混じり、紅色の薄い本があった。ルニエはそれを引き抜いてパラパラとめくってみる。どうやら童話かなにからしく、読めそうな厚さだったのでこの本を借りていくことにした。
リビングのソファで、ルニエはその本を読んだ。
それは、ラ・コスタがキスの言い訳に使った、お姫様のキスで魔法使いのかけた呪いが解けるという、例の物語だった。結末が悲しくて、少し怖い。
「姫は仕合わせだったのかしら……」読み終わったあと、ルニエは目を閉じて考えてみる。瞼の裏には赤い花びらが舞い散る情景が浮かんできた。
余韻に浸るかのようにぼんやりしていたら玄関の扉が開く音がした。俊敏にソファから飛び上がり、廊下をぺたぺた走る。視界に入った玄関はオリンジ色に見えた。それは……オリンジの花束を抱えた彼が立っていたからだ。
「遅くなっちゃった。はい、プレゼント」
オリンジのアルギランセマムの花束をルニエは受け取る。
「ありがとう……、ラ・コスタ」
「オリンジと白のどっちにしようか迷ったんだけどね、やっぱりルニエはオリンジかなと思って、オリンジにしたんだ」彼は廊下を歩きながら上着を脱いで、廊下の途中にあった部屋の中に放り投げた。
(どういうことかしら。先生の代わりにラ・コスタが花を渡しにきてくれたってこと?)
ルニエは首を傾げる。
「あれ……? ねぇ、僕がいない間、誰か来なかった?」微かに眉をしかめてラ・コスタが言った。
「いいえ、誰も来なかったわ」ルニエは不思議に思いながらもそう答える。
「そう……」
納得したのかしなかったのか判らないものの、彼はリビングへと歩いていく。花束を抱えたルニエもあとをついて行った。アルギランセマムの花束は歩くたびにそれぞれの花を揺らしていた。それがネコが尻尾をゆっくりと振っている仕草と同じように、何だか特別に可愛かった。
リビングで彼は、ソファの上に置いたままになっていた本を発見する。驚いた表情の彼は、本とルニエを二回くらい代わる代わる見た。もしかすると見てはいけない本だったのか、とルニエは冷や冷やして、彼になにか言われるのを静かに待った。
「読んだの……? これ」外した眼鏡を机の上に置いて彼は言った。
「ええ」彼の質問がどんな意味を含んでいるのか、ルニエには想定できなかったため、無難に肯定だけしておいた。
「つまらなかったでしょ」ラ・コスタは口元を斜めにして言う。
「そんなことないわ。でも、少し怖い話ね」
「童話はいつも、少し残酷なものさ……」皮肉っぽく彼は言った。
「でも……」ルニエは少し考える。「これを書いた人は、なにかを探している……いえ、誰かに見付けて欲しいのかもしれないわ」
「どういう……、意味?」一瞬だけ動きを止め、ラ・コスタが尋ねる。彼の表情はそれほど答えを聞きたそうにも見えなかった。
「ごめんなさい、少しそう思っただけだから、大した意味はないの」
上手く説明できそうになかったルニエなので、言葉を濁すことにした。ラ・コスタは少し目を伏せ、なにか言いたそうにしばらくモジモジしていたが、そっと近付いてきて花束を避けるようにしてルニエに抱き付いた。彼が被っていたキャップのツバがルニエに当たり、キャップは床に落ちる。
ルニエは驚いてまじまじとラ・コスタを見る。右手に持った花束、自由だった左手で彼の頭を恐る恐る撫でた。
「……どうしたの?」
「心臓の音が……、速くなった」
ぼそりと呟いたラ・コスタの言葉に真っ赤になるルニエだったが、そうさせた張本人がなにを言うのか、と思うのであった。彼が急に抱き付いてきた理由ははっきりとしないものの、なにか仕返しはできないものかとルニエは思案する。
「赤ちゃんは母親の心臓の音を聞くと安心するそうね」
「ああ、お腹の中にいるときと音が似ているからね。水に潜ったときの音も似ている。ザワザワとする優しい騒音」
「ラ・コスタも心臓の音を聞くと安心するの?」
仕返しの皮肉を込めてルニエが尋ねると、彼は否定も肯定もしないで顔を上げ、そっとルニエの首筋にキスをすると耳元で囁いた。
「君は……、本当に僕のお姫様かもしれない」
そして彼は離れてキャップを拾い、ソファの上の本を手に取る。思わせぶりな台詞であったが、どうせバルコニィでのたとえ話の続きに違いない、とルニエは思った。右手に持っていた花束を両手で抱え直すと、ラ・コスタに近付いてその手の本を見る。
「その本、本屋さんで買えるのかしら?」
ラ・コスタが気に入っている本のようなので、もっとじっくり読み返してみたいと思ったルニエは尋ねた。
「買えないよ。もう絶版。これ以外に七冊しかない。絶対に手に入らないよ」
絶版と聞いてルニエはガッカリした。さらに、全部で八冊しかないのであれば、古本屋で購入できる可能性もなさそうであろう。きっと、外国のコインを手に入れることのほうが何万倍も簡単に違いないのだ。
「何故、絶版なの?」
「そりゃあ、売れそうにないからじゃない? 話がストレイトすぎるのかな。人間はね、解っていても直接それを表現されること嫌う傾向がある」彼はそっと表紙の文字を撫でた。
彼の言ったことは果たして一般論なのか、それとも自分自身のことなのか、考えながらルニエはその少し悲しそうな横顔を見つめる。心なしか、いつもより元気がなさそうに見えた。
「ラ・コスタ……」
「なぁに……?」
「今日はどうして出かけたの? お天気が悪かったのに……」
天気が悪い、とは、もちろん彼に対してという意味である。晴れた日は外出しないと言っていたのに、紛れもなく外から帰ってきたのだ。彼がわざわざ花束を取りにいかなくてはならない状況が、生じたとでもいうのだろうか?
「だって……、昨日は予定外のことがあって花を買いにいけなかったし、ルニエには今日来てくれるように言ってあったし……。あ、でも、お店には買いにいってもらったから、あんまり外出はしてないよ」
彼は少し必死に言い訳のようなことを言っていた。
(先生もラ・コスタも今日は具合の悪い日なのに……)ラ・コスタはルニエのために外出させてしまった、ということであるだけ、申し訳ないような後悔に襲われるのだった。
「……誰に買ってきてもらったの?」申し訳ないついでにルニエは尋ねてみる。
「誰って……、言ってもルニエが知らない人だよ」彼は困ったようにルニエを見て言った。「お金はちゃんと僕が払ったし、花を指定したのも僕だからね」
適当に買ってきてもらったのではないことを照明するためか、少しだけ口を尖らせて恨めしそうにルニエを見るラ・コスタだった。どう見ても拗ねた子どもにしか見えないその仕草は可愛らしい。
「別に……」ルニエが話し出そうとすると電子音に遮られた。
ラ・コスタはビクリと身を震わせる。発信源は低めの棚に置かれたフォンからだった。しかし、呼び出し音は一度鳴ったのみで、そのあと切れてしまったようであった。彼は溜息を吐くと音を潜めてしまったフォンに近寄り、受話器に手を伸ばした瞬間、再びコール音が鳴り始めた。
「もしもし、キュラソウです」大人の真似をしているのか、少し低めの声で彼は受話器を取る。「ああ、来ているよ。渡した。……本当? ありがとう。え? 彼が来たの? とんだ災難だったね。うん、気を付ける。それじゃあ……」
受話器を置いたラ・コスタはなにもなかったかのように、電話についての話題は振らなかった。それについて不満に思いながらも、割と抑揚をつけた話し方をしていたくせに、無表情だったところが可笑しかったとルニエは思った。
「誰からだったの?」彼が教えてくれなかったのでルニエは尋ねる。
「誰からって……、言っても君は知らないでしょ?」さっきと同様に彼は答えた。
たしかに最もな答えであり、教えてもらったとしても誰だか判らなかったであろう。しかし、性別を判断するには名前を聞くだけでも十分でありそうだ。会話を聞いていた限りでは、電話の相手は花束を買ってきてくれた相手らしい。そんなことを頼むくらいだから、親しい間柄なのだろう。
「……あぁ、もしかして僕との関係が気になるの?」しゅんとしたルニエの表情に気付いたのか、ラ・コスタはクスリと笑った。「女性じゃないよ、電話の相手。気の置ける友人の一人」
「そうなの……」ホッとしたルニエは、ラ・コスタが面白そうにジッと見ていることに気付く。
「そういうのって、何て言うの? 『余計な心配事』? それとも『ヤキモチ』? 『大いなる好奇心』ではなさそうだけど」
「わたしが求めているのは、説明と配慮よ」あまりにも無邪気に聞かれて、少しムッとしたルニエが答えた。
苦し紛れの冗談が余程面白かったのか、ラ・コスタは独りでクスクス笑っている。医者であるキュラソウ向けだと思っていたルニエなので、冗談が通じて多少面喰った。
「僕も使おうかなぁ……。説明したうえの結果です! とか。あ、でもこれはちょっと使いたくないな」さらに笑いながら、彼は『同意』と初めの綴りが同じ単語を呟いている。
ルニエもいろいろと考えるのが馬鹿らしくなって、ついつい笑顔になってしまった。
そこで、不意にラ・コスタを明日の誕生日パーティに招待してはどうか、という案を思い付く。キュラソウには断られてしまったが、ラ・コスタなら断らないかもしれない、とルニエは思ったのだ。
「ねえ、ラ・コスタ。明日の夜、なにか予定があるかしら?」
大きな目をぱちぱちさせながら彼はルニエを見る。「明日の夜? 予定は別にないけど……」
「わたしの誕生日パーティがあるの。突然だけれど、来られるかしら?」
「えっと、この格好で構わないの? 行くのが、君の主治医である必要はないの……?」
以前キュラソウを誘ったときよりも、かなり来てくれることに期待が持てそうな返事であった。ルニエは『この格好で』と言われてラ・コスタの服装を見る。パーカにジーンズにトレイナーズであった。さすがにパーティ向きの格好であるとは言えなかった。
「ええ、大丈夫よ。ただ、服装は今のままでは駄目だわ。礼服とか持ってないの?」
「あるよ。魔法学校の制服ならね」
ラ・コスタが答えると、ルニエは妙に納得して可笑しくなり、笑いを堪えるのに精一杯でしばらく喋ることができなかった。
*インフォームドコンセント:行われようとする行為に対し、十分な説明をもって理解をしたうえで、それに基づく判断を行うこと。
日本では、主に医療行為で使われているようです。




