18
歩調を調整して歩いていると公園がある。普段はそのまま通り過ぎてしまうことが多い場所なので、今日は時間もあることだし、ゆっくりとした時間を公園で過ごしてみようか、とルニエは思った。
公園にあるものといえば花壇、ベンチ、ブランコ、小さな噴水、砂場くらいだ。遊んでいる子どもは誰もいないが、人気がないわけでもなかった。ブランコには一人の青年が腰をかけており、微かに揺らしながら煙草を噴かせている。公園は禁煙だったため、ルニエはマナー違反の彼を睨み付けた。彼はルニエの視線に気付いたようで、睨み付けたのにもかかわらず微笑んで手を振ってくる。ルニエの眼力が足りなかったか相手が鈍感なのかのどちらかであろう。
ベンチの前まで来たルニエは、朝方の雨の名残でまだ湿っていたため、座るのを躊躇した。このまま座るか、座らないで立ち去るか、座らないが留まるかの三択で悩んでみる。できればスカートをみっともなく濡らすことは避けたかった。
「どうしたの?」
側で聞こえた声に驚くと、ブランコに座っていた青年が直ぐ横に立っているではないか。彼は焦げ茶色の髪と眼をしており、ひょろりと背が高かった。煙草はもう咥えてはいない。それなのに、しっかりと煙草の香りを染み付けているようだった。
「いえ……別に……」何となく答えたくなくて、ルニエは曖昧な返事をした。
「ああ、ベンチが濡れているのか」いきなり理由をずばり的中されたのでルニエはびっくりする。彼はベンチの上をちょいちょいと手で掃くような仕草をした。「乾いたよ。さあ、遠慮なく座って」
たしかに彼は『乾いた』と言った。俄かにルニエは信じられなくて、実際に触って確かめる。彼の言ったとおりにベンチの表面はすっかり乾いており、そのまま座ってももはや衣服が濡れることはなさそうだ。
「ありがとうございます」一応、礼は言っておく。
「まあ、当然のことをしたまでさ。女性には親切にしなきゃね」
せっかく彼が乾かしてくれたようなのでルニエはベンチに座った。なにかの魔法の一種であったのだろうか。ルニエは魔法全般に詳しくない。僅かに温かいベンチに触れながら考える。
ルニエが座った隣に彼が当然のように腰をかけたのは、きっと予想内の展開だったに違いない。もしかすると隣に座るために乾かしてくれたのかもしれないのだ。第一、彼はとても退屈を持て余していたようで、いかにも誰かとお喋りをしたそうな雰囲気であった。
絶対にこっちからは話しかけまい、と大して役に立ちそうにもない決意を浮かべつつ、ルニエはほっと一息を吐いた。これからキュラソウに会いに行き、しかも昨日の女性のことを尋ねなければならないのだから、心を落ち着けることは必須条件だ。隣に座った男性の相手をしている余裕などない。だが、親切を受けた身であるので、話しかけられたなら無視するわけにもいかないだろう。
「ね、君の名前何て言うの?」
「当ててみて下さる?」ルニエは彼を見たが、名前は教えない。
「あれ? まえに俺とどこかで会った?」
彼は諦めずに次の作戦に出たようだ。相手は会ったことがないことを分かっていながらもそう言ったのだ、とルニエは思っていたのに、実際にそう言われると、もしかしたら会ったことがあるのかもしれないと彼を見た。
端正な顔立ちで女性にもてそうである。こんな人物であれば一度会ったら忘れそうになさそうだった。けれど、ルニエは彼が言うように、どこかで彼に会ったことがあるような気がした。思い込みがなす幻想なのか、実際に会ったことがあるのか、はたまた誰かに似ているのか判断もつきそうにない。
「いいえ……お会いしたことはないですわ。ですが、どこかでお会いしたことがある気がするのは何故でしょう?」
ルニエは思い切って名前を聞いてみようかとも考える。
「既視感みたいなものかな? 俺たちは前世で恋人だったのかも」意識的にか無意識的になのか不明の、にっこりとした笑みを彼は披露する。多くの女性を虜にしそうな感じの微笑であった。
まさか口説かれているのではないか? と疑いを抱いているルニエは、どう反撃しようかと慎重に対策を練りつつ言葉を選ぶ。まず、期待を持たせることなく、彼のプライドを傷付けずに断ることが目標である。
「まあ……ご冗談が上手いのね。ところで、あなたは誰かと待ち合わせなさっているの?」
その質問に対し、彼は一瞬泣きそうな顔をした。もしかすると尋ねてはいけない話題だったのか、とルニエはドキッとするが、すぐにそれは余計な心配だったと思うことになる。
「そう、俺は今日、待ち合わせをしていたんだよ。それなのにさ、いきなりキャンセル……。やっと約束を取り付けて、せっかく楽しみにしてたのに酷いよな~。どうせあいつ絡みなんだろうし、あ~! 何かどんどん落ち込んできた。全然相手にされてないみたいだし、俺ってそんなに魅力ないのかな……?」
しょんぼりとした表情で愚痴を言う彼の言葉が、どこまで本当なのだろうか、と内心訝しがりながらもルニエは話を聞く。彼に魅力がないとはどうしても思えそうにもなかったし、これも一つの手段かもしれないので用心をしておくに超したことはなかった。
「あなたは十分に魅力的だわ。でも、異なる価値観を持つ人が全て、あなたを魅力的だと思うとは限らないでしょう?」
諭すようにそっとルニエが告げると、彼は真っ直ぐな眼差しを向けてくる。
「俺は別に、みんなに好かれたいわけじゃない。彼女に好かれたいんだ」突き刺さるように鋭い彼の言葉は、ルニエの心の端を掠めた。
呼吸をすることを忘れてしまうほど強い圧迫を受ける。
もし、この台詞をキュラソウに言われたなら、ルニエは確実に泣いてしまうだろう、と思った。このことで、まえよりも彼のことを見直した。紛らわしい言動に未だ疑いの余地は残るものの、一人の女性を真剣に想っていることは確実だ。その恋が報われるか否かは別として、恋をしている仲間として彼を応援してあげたくなるのだった。
「あなたの名前……聞いても良いかしら?」
「俺の名前? ああ、俺の名前はキ……」言いかけて彼は急に黙り込んだ。「あ、彼は! 電話に出ないと思ったら、さてはこの近くに……」
拗ねたように眉をひそめる彼を見て、ルニエは一体どんな人物がライヴァルなのだろう、と彼の見つめる先を見てみたのだが、時既に遅かったのか視線の先に該当するような人影は見当たらない。
「ごめんな、俺、あいつのあとをつけるから。機会があればまた会おうね」立ち上がった彼はイヌでも撫でるようにルニエの頭を撫でた。
ふわっと離れていく煙草の匂い。清涼感があって、最後に甘さが残る香りだった。甘さが、煙草の香りとしては不似合いで、まるで香水のようだ。
「さようなら」
呟くようにルニエが答えると、彼は無邪気な子どものように手を振って走り去る。考えていたよりも、ずいぶんと外見と中身が違っているようだった。もう会うこともないかもしれなかったが、ルニエは彼の印象を良い方向に訂正を加え、密かに彼の想いが相手に届くことを願った。
彼にルニエは、自分の姿を重ねているのかもしれなかった。彼に良いことがあれば、自分にも良いことがありそうな気がした。彼が頑張れば、自分も頑張れそうな気がした。彼の恋が叶えば、自分の恋も叶いそうな気がした。
いくらルニエがそう思えど、現実に名も知らぬ彼とルニエは別の存在であり、そのような連鎖反応は起こり得ないであろうが、ルニエ自身がそう思い込むことによって心理的な効果が現れることは少なくとも期待できる。
やっと独りっきりになれたというのに、ルニエは少しだけ残り香のような寂しさを感じていた。彼が立ち去らなかったら、もしかすると自分の悩みを打ち明けていたかもしれなかった。似たような悩みを持つ同士、お互いに話し合えたかもしれない。でも、そうすることが解決に繋がるかどうかは判らなかった。慰めあうことによって逃げることになるかもしれない。
つい、ルニエは溜息を吐いてしまう。
昔、溜息を吐くと幸せが逃げる、と言われたことがあった。そのときは悔しくて咄嗟になにかを言い返したが、いまになって何と言い返したのか思い出せない。きっと忘れてしまうくらいだから、特別なことではなかったはずだった。
しっとりと湿りを帯びた風も、足跡型に陥没して端が少し抉れたぬかるみも、人気がない公園の寂しさに拍車をかける。風に流れる雲が空の模様を刻々と変化させ、乾き切らない地面に様々な影を落とした。ルニエは、ゆっくりと形を崩しながら流れる雲を視界の限り追いかけては、また次の雲を追いかけた。
ルニエは子どもの声で我に返る。
雲の流れは止まることなく、ルニエを飽きさせることなく移ろっていたので、どれくらいの時間が過ぎたのかを実感させにくくしたようだった。
元気の良さそうな男の子がルニエの側をすり抜けて砂場へと走っていく。そのあとを懸命に追いかけて、もう一人の男の子が駆けていった。彼らは砂場の真ん中に向かい合わせで座り込み、これからなにを作るかどうか話し合っていた。
彼らにも悩みがあるのだろうか、とルニエは考えた。目の前の遊びに没頭する一方で、彼らにも悩みがあるに違いないことをどこかでは解っていた。
悩んでいるのが自分だけでないことをいつも確認したい。解ってはいても他と比較せずにはいられないのだ。
ルニエは立ち上がる。
(先生の家に行かなくては……)
ようやく本来の目的地へと出発する決意を固め、そもそも何故公園へ来たのかすら忘れてしまっていたルニエだ。自分の足がちゃんと地に着いていることを数歩分確かめて、そろそろと歩き始めた。




