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「先生、昨日の女性は誰ですか?」
ルニエが尋ねるとキュラソウはコーフィを淹れていた手を止め、言いにくそうにしばらくモジモジしていたが、やっと教えてくれた。
「彼女は……その、僕がお付き合いをしている女性……かな?」
最悪のケイスは多少、いや一つくらいは予想していた。しかし、まさかその一つが的中するとは全くの予想外だった。
ルニエは、いままでそんな体験をしたことなどなかったものの、本当に後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃を受ける。自然と涙が溢れてきた。頭はガンガンするし、呼吸もままならないし、涙で目の前がぼやけて視界が虚ろになる。
(どうして……わたしはこんなにショックを受けているのかしら?)
目の前に立っているキュラソウは困った顔をして、じっとルニエを見ている。いきなり泣き出したのだから、彼が困るのも無理はない。テイブルの上には真っ赤なロウザと白いジプソフィラの花束が載っていた。今日に限ってロウザの棘が、全てを拒絶しているように思えた。
「わたしは……」
そこでルニエは自分の声で目が覚める。
なにかを掴もうとして右手が天井へと伸びていた。目尻には涙のあとが残り、さらに目からも溢れ出そうとしている。
やけに息苦しくて、深呼吸をしながら涙を拭う。
なにがそんなに悲しかったのかを、思い出す。
何度も深呼吸をして落ち着いたと判断されてから、ルニエは何故それほどショックだったのかを検証する。ショックの原因が、キュラソウがあの女性と付き合っていると言ったから、だということは否定できそうになかった。次に、泣くほどショックを受ける原因を追究する。
第一段階として、ルニエがキュラソウに好意を持っていることは認めた。彼自身がルニエを特別に想っていたかどうかは定かではなかったが、多少気を許しているという発言はあった。
(でも……)
以上を総合しても、泣くに至るには弱すぎるように思える。
泣いてしまうくらいだから、もっと決定的ななにかがないといけない気がした。意外性だろうか? 最悪のケイスを考えつつも、どこかでキュラソウに付き合っている相手はいるはずもない、と思い込んでいたルニエだったから、予想外の展開に大きなショックを受けてしまったのかもしれない。
そうだとすれば、今回既に夢にまでして予習したのだから、実際に彼女がキュラソウの恋人だったとしても、今度こそもう泣くことはないと考えられる。予め本気で最悪の事態を予測してショックを薄める、なんてことをするのをルニエは慣れていない。
目の縁がまだ薄っすらと濡れている。ルニエは睫毛が涙で、少し重いような気がした。
ベッドから見える時計の短針はまだ右半分に留まっていた。夢で目が覚めるなんてことは最近のルニエには珍しく、すぐにそのまえのときがいつだったか思い出せないくらいだった。
起きたときに夢を覚えていることは、ルニエにとって少ない。夢を見たことだけは覚えているのだけれど、どんな夢だったのかは霞がかったようにぼんやりとして、はっきり思い出せることが少ないのだ。その数少ない夢の中でも、印象深かったバルコニィでのラ・コスタは、まだ登場していなかった。起きている間の印象的なことを夢で見やすいと聞いたことがあったが、まさか今日のキュラソウに先を越されるとは。
再び眠りに落ちるべく、ルニエは目を瞑った。
瞼の裏には朝の静寂と漠然とした不安が張り付いていた。
瞼はずっしりと重くて目も開けられないのに、意識だけははっきりしているようだった。もう少し眠ろうとルニエが思えば思うだけ、眠れなくなりそうだ。軟らかい砂の上を歩いているように、前に進もうとしても重さで沈んでしまうので上手く身動きが取れない。
だから無理に眠ろうとするのは止めにして、そのまま目を閉じて自然と眠くなるのを待つことにした。『眠る』のではなく『休む』ことをメインに切り替える。深呼吸をしてできるだけリラックスするようにルニエは心がけた。あれこれ考えるとリラックスどころではないので、なにも考えないことを目標にする。
気持ちを落ち着けると、不安がばらばらと音を立てて落ちた。実際にルニエが聞いた音は、もちろん不安が落ちる音であるはずもなく、窓を急に振り出した雨が叩く音であった。
しかし、この雨音はルニエを眠りの縁へと誘うのに一役買い、易々と寝かしつけてしまったのだった。
ルニエが次に目を覚ましたとき、雨はもう止んでいた。
眠気に後ろ髪を引かれることなく起き上がると、ゆっくりと伸びをして窓へと近付く。開いた隙間から流れ込んできた風は、雨に洗い流されていつもより軽く澄んでいた。ルニエは窓越しに濡れている町並みを見て、雨水が流れる音を聞いて、やっと雨が降ったという事実を思い出す。
太陽が顔を覗かせれば水溜りに朝日が反射し、きらきらと幻想的な世界が広がることだろう。空にはもう雨を降らした黒雲は残っておらず、薄っすらと仄暗い雲が空の淵に集まるようにして、これから昇ってくるであろう太陽を隠す準備に精を出しているかのようだ。
窓を閉めるとルニエは支度をするべく顔を洗った。雨上がりの泥跳ねを考え、膝丈で汚れても目立ちそうにない色のスカートを選んだ。
丁寧に髪の毛をとかし、今日はどんな髪型にしようか、とルニエは考える。その生まれつき緩いウェイヴのかかっている髪をしばらく弄び、昨日会った女性の髪が綺麗なストレイトだったことを思い出す。
そんなことをつい思い出してしまった自分を悔しく思いながら、白いレイスのリボンをそっと結んだ。
朝食を終えて、コルドン氏に出かけるつもりだということを告げると、彼はこれで気兼ねなく誕生日の準備ができると思ったのか、嬉しそうに「ゆっくりしてくるように」と言った。
どこへ出かけるのか、誰と会うのか、ルニエはなにも言わなかったが、コルドン氏はなにも追及してこない。きっと目の前のことに気が行ってしまっているのだろう。何にしてもルニエにはそのほうがありがたかった。
まだ出かけるには早いと思いつつも、気を利かせて早めに出ていくことにする。
とはいっても、あまり早く訪ねればキュラソウも迷惑だろう、とルニエは思ったので、しばらく散歩をしてから向かうことにする。このまえ、ラ・コスタと出くわした本屋の前を通り過ぎた。まだ、お昼も近くなかったので、客は疎らそうだった。
花屋の前を通り過ぎる。ここでキュラソウは花を買うのだろうか? そう考えるとルニエは、どの花がプレゼントされるのか気になってきて、しばらく色とりどりに零れるばかりに咲いた花々を見つめる。一番多い色は赤で、次は黄色だった。一番多い花はロウザだった。
赤いロウザは恋人への贈り物として売れ筋なのであろう。立ち止まると甘い香りが届いてくる。ルニエは花言葉など興味がなかったが、赤いロウザが情熱的な愛を意味するものだということくらいは知っていた。キュラソウがそんな赤いロウザをプレゼントしてくれる可能性は考えられなかったものの、何色のどんな花が選択されるのかは興味をそそられる対象であった。
(赤でなくても、ピンクくらいなら可能性がありそうだわ……)
花屋の前に立ち止まり、そんなことを真剣に考えている自分が恥ずかしくなって、ルニエは店員に話しかけられるまえに立ち去ることにする。鼻先には僅かにロウザの香りが纏わりついていた。
再びルニエはぶらぶらと町並みを眺めながら歩き出す。どこも景色を構成する一部として目に入ったが、それが景色の一部以上の存在になることはなかった。どこまでも続きそうなレンガの道。植えられた街路樹や花々。肌寒いのにどこか清々しい風が漂う。空は部分的にどこまでも青かった。その青さはルニエの眼の色よりも薄い。それなのについ、青さから自分の眼を連想してしまうルニエだった。




