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「そうだ、手品を見せてあげようか?」


「手品ですか?」


 明らかにルニエを気遣った発言だと思われたが、当の本人も単純に興味を引かれてすぐさま笑顔を覗かせる。


「ハンカチーフやスカーフのようなものを貸して欲しいけど」


 ルニエはハンカチーフを取り出して渡した。


「さて、僕はこのハンカチーフの下からなにかを取り出しましょう。なにが宜しいですか、素敵なお嬢様?」多少、普段より陽気な口調で彼は言った。


「先生はわたしにお花を下さると仰ったわ。だから、花束を出して」


「おやおや、花束ですか? 残念なことに、それほどたくさん持ち合わせがございません」


 大げさな身振りで、キュラソウはなにも持っていない右手を見せて、軽く握り拳を作るとそこへハンカチーフを被せる。今度は左手も広げてなにも持っていないことを確認させ、ハンカチーフを中央から右手の中に押し込み始めた。半分ほどハンカチーフが押し込まれた時点で彼は右手を振る。ハンカチーフは端だけを掴まれた状態で、中央だけが落ち込んでいた。


「さあルニエ、手を出して」ルニエは言われたとおりに手を出した。「申し訳ありませんが、いまは一つでお許し下さい」


 落ち込んだハンカチーフの中央部がルニエの掌に載せられる。ハンカチーフだけだと思っていたのに、そこにはなにかが入っているようだった。キュラソウが右手を離す。ハンカチーフが開き、中に入っていたものが明らかになった。


 そこにはくすんだ赤いロウザのブロウチがあった。


「え?」ルニエは驚いて、自分の胸元を見る。


 ブロウチはルニエがしていたものと同じであり、ルニエが胸元を見るとそこには今朝したはずのブロウチの姿はなかった。つまり、キュラソウが取り出して見せたブロウチは、ルニエがしていたブロウチだということだ。


「手品は以上です」彼は必要以上ににっこりと微笑む。


「そんな……、いつブロウチを外したの? わたしが『花束』と言ったからロウザのブロウチを出したのだから、指定するよりまえに外しておくことは不可能だわ。いえ、もしかすると、わたしが『花』と指定するように誘導されたのかしら?」


 畳みかけるようなルニエの推理に、キュラソウはただただ笑っているだけであった。質問に対して答えることもない。そもそも、手品のタネを追及してはいけないのが暗黙の了解だ。


「もう、先生! 返事くらい仰って」我慢できなくなったルニエはキュラソウに詰め寄る。


 白衣の腕の部分を掴み寄せられた彼はきょとんとした表情で、側にあるルニエの顔を見た。何だかいじめっ子の気分になったルニエは急いで白衣を放すが、彼は一瞬だけ眉をひそめ、そのまま額に手をやりかけ、目を瞑ったかと思えば頭を垂れる。


「ごめん、少しの間……こうさせていて」


 柔かい彼の髪がルニエの頬や肩に触れた。そして、僅かに重力が加わる。


「……先生?」


 自分がいま、どういう状況なのか、なかなかルニエには理解できなかった。彼の手は彼の横にあったし、別に抱き締められているわけでもない。では何だろう? 急に激しい睡魔に襲われて眠たくなったのか?


 このまま、冗談半分で抱き付いてしまおうかとも思ったが、少し様子がおかしいとルニエは気付く。もたれかかるというよりむしろ、倒れかかるではないのか? 心配になって彼の肩を揺さぶってみるが、大した抵抗もなく受動的な反応しかない。呼吸はちゃんとしていた。脈も正常だった。体温がかなり低いのは彼にとってはきっと、いつものことだ。


 何とかしなければと思うものの、どうして良いのか判らない。このままにしておくわけにもいかないので、とりあえず彼をソファに寝かすことにする。ちょうどソファの上だったから良かったが、床に倒れられでもしていたらルニエは独りで彼を移動させる自信はなかった。


 しかし、いざソファの上を移動させてみると、彼は不自然なくらい軽くてびっくりさせられる。いまのルニエがどこかリミッタでも外れてでもいない限り、独りで引きずれるのではないか、と思えるくらい軽かった。眼鏡を外し、ネックタイを緩めてあげた。


 ラ・コスタは色が白いとルニエは思っていたが、キュラソウもこうして見ると顔色がそれほど良いともいえず、手を握ってずっと彼の瞼や唇を見つめるが、初めからその表情である人形のように動かない。途方に暮れて床に座り込み、ソファにもたれかかるようにして、そのまま彼の手を握り続ける。


 そうしてどれくらいの時間が過ぎただろうか。握り締めていた手から微かな動きが伝わってきた。


「先生……」ルニエは膝で立ち上がり、キュラソウを覗き込んだ。


「どうして泣いているの……?」彼が伸ばした手が、頬の涙に触れる。


「解りません……」ルニエは自分が泣いていることにやっと気付いた。本当にどうして泣いているのだろう、と思う。


「キスして良い?」彼は身体を斜めに起こし、返事を聞かずにルニエを引き寄せるようにして、その首筋にキスをする。「僕がルニエを泣かせてしまったの……? ごめん、心配してくれたんだね。ちゃんと理由は解っているんだ。まえにも言ったように、明日が新月だから調子が悪いんだよ」


 調子が悪い、――それは、貧血のような症状が起こるというのだろうか? ルニエは、彼が倒れるのを目の当たりにし、彼の言うことを本気にしておらず、自分のせいで無理をさせてしまったことを後悔した。


「いまのキスは何のキスですか」


「君の元気を分けてもらったのさ」彼はようやくルニエから手を離した。


 キュラソウの顔を見つめる。眼鏡をかけていないので変な感じだ。彼がちゃんと身体を起こしてソファに座り直したのを確認すると、ルニエは立ち上がって隣に座る。


「先生……」


「そうだ、花をあげる約束をしていたね。午後で良いかな?」


 さっき倒れたばかりだというのに、彼がルニエの誕生日プレゼントのことなんか優しく提案するものだから、思わずまた涙が溢れそうになって首を振った。


「他人の健康状態にはケチをつけるくせに、自分の体調管理ができないお医者様がいるというのは本当だったのね」

 精一杯の嫌味を言ってみる。キュラソウは腕を組んで十秒経ってから、やっと自分のことだと気付いたようだった。

「僕の場合は不可抗力だよ。明日は絶対に持ってこられないから、できれば今日にしてくれないかな?」


 提案を真面目に検討しつつも彼の体調を考えた。突然倒れるほど体調が悪いのに、無理をさせてまで花を貰いたいなどルニエは思わない。


「お花は今度でも構いません。わたしが送りますから、先生はお帰りになって下さい」ルニエは立ち上がり、キュラソウの鞄を手に取る。


 納得いかないような表情で彼はルニエを見たが、無理に鞄を持たせて嫌でも帰る気にさせた。鞄を受け取った彼が棒のように立っている間にルニエはコウトを着て、マフラを巻き、帽子を被った。


 ルニエが思うに、きっとキュラソウは、周りの誰かが止めてあげないと無理をしてしまう性格なのではないだろうか。仕事熱心なのは感心でも、体調を崩してしまえば元も子もない。今までずっとそんな風に過ごしてきていたのか? 誰かが側でそんな彼を助けているのだろうか?


 昨日見た部屋の様子からは期待できそうもない、とルニエは溜息を吐いた。


 自分の部屋を出てまず、父親に散歩へ出かけると告げに行く。正確には散歩ではなかったが、この場合に置いては正確に告げる必要はないと判断した。玄関に行くとキュラソウがトレンチコウトを着込んでいた。色もオフワイトであったし、ぱっと見ると白衣と大して変わらない。


「行こうか」帽子を頭に載せると彼は言った。


 外はラ・コスタが引きこもりを起こしそうな天気で、他愛もない会話を二人で交わしながら、ゆっくりと歩いて彼の家に向かう。いくつか彼が白い雲を指差して、なにかに似ていると言っていたが、どれも聞きなれない単語だったので、残念ながらルニエには判らなかった。


 しかし、キュラソウがルニエの歩調に合わせて歩いてくれていることや、柄にもなくお喋りしてくれていることは解った。部屋ではこちらから話しかけないといけなかったが、急に自宅まで送るなどと言い出したので気を遣ってくれているのだろう。


 家にたどり着くと彼はドアをそのまま開けた。


「そうだ、途中で花を買えば良かったんだ」


 まだ花のことに拘っているキュラソウがルニエには面白い。


「鍵はかけていないのですか?」このまえもかかっていなかった、かなり無用心だ。


「鍵はね、壊れているんだ。壊れていなかったら、君も昨日入ってこられなかったでしょ?」


「ええ」ルニエがここに来たことを彼が知っているのは意外に思った。考えていた以上にラ・コスタと仲が良いらしい。


「なにか飲んでいく?」


 誘われたのは嬉しかったのに、『なにか』の選択範囲が異様に狭いことを知っているルニエはすぐに返事ができない。それに、彼は体調が悪いのだ。ルニエが迷いつつも彼を見ると、いつも以上に顔色が悪いということもなく、右手でノブを握ったまま、半開きの扉の前で返事を促すように首を傾げた。


 返事をするか頷くかどちらにしようかと迷って、結局両方とも一度に実行しようと決心した矢先、彼は扉ノブを放してルニエの両肩に手を置いた。


「ルニエ、誘っておいて本当に申し訳ないけど、たったいま急用ができたんだ。このまま僕を振り向かないで帰ってくれないかい?」


「え……?」


 突然の断りに驚くルニエ。急用ができたは百歩譲って良いとしても、振り向かないで、とは一体どんな注文だろうか。しかし、キュラソウは真剣で少し困ったような表情をしていた。なにか予定外のことが起こったに違いない。


「花束は明日で良いなら……持っていくのは無理だけど、取りにきてくれるのなら準備しておくよ。このままなにも聞かないで、道を尋ねたような素振りで、そのまま絶対に振り返らずに帰ってくれないだろうか?」


 密かに注文が多いなと思いながらも、渋々ルニエは彼に従うことにする。こんなときになっても花のことを持ち出すとは、よっぽどルニエが花を欲しがっているとでも思われているのだろうか。


「分かりました。では、本当に明日来ますからね。さようなら、先生」


 小声でそう言うと、道を尋ねたような、と注文がついたのでお礼を言っているみたいにお辞儀をしてルニエは道路に出た。振り返らずに、なので振り返ることはできない。道を確認しているかのように少しだけ辺りを見回す。手前から歩いてきた女性とすれ違った。彼女はツバの広い帽子を被っており、顔は見えなかったが、信じられないくらい綺麗な薄い青の髪の毛をしていた。空の色もしくは、水の色のようであった。


 しかもその女性はキュラソウの家のほうに入っていく。思わずルニエは立ち止まりそうになったが、約束なのでできるだけゆっくりとした歩調で前進する。


「ごきげんよう。ラ・コスタに会いにきました」青い髪の女性のものと思われる、澄んだ声がそう言った。ルニエは身震いし、さらに歩調を狭める。「先ほどの方はどなた?」


「ああ、道を聞かれただけだよ。君こそ、急にどうしたの?」


 キュラソウは彼女に言い訳をするために細かい指定をしたらしかった。歩くたびに話し声は遠のいていく。ルニエはそれがとてつもなくもどかしく、悔しかったが、こればかりはどうにもならなかった。


「ええ……急に会いたくなったので」


 それ以上の会話はもう聞こえなくなる。距離が離れすぎたのだ。走って引き返したい衝動を必死にルニエは抑えた。


 あの女性は誰なのか?


 いますぐに確かめたかった。


 だが、これ以上盗み聞きをするわけにもいかず、明日になれば直接聞くことができるのだ、と何度もルニエは自分自身を納得させる。それで実際に納得できたかどうかは別として、キュラソウのなにかを知った気になっていた自分が馬鹿らしくなった。


(ああ……ラ・コスタや先生は、月に似ているわ。月……夜空の月。あんなに近くに見えるのに手を伸ばしても絶対に届かないのよ)


 ラ・コスタが月を欲しがる理由も、いまなら理解できそうだとおもいつつ、無性にルニエは悲しくなって、とぼとぼと家に帰った。女中たちは誕生日会の段取りで、いつもより忙しそうだ。


 幼いころはそうでもなかったが、いまでは自分の誕生日なんてなにが楽しいのだろう、とルニエは思う。一人だけが除け者にされているみたいだ。どんなにパーティが素敵でも、準備中に除け者にされることを差し引けば、ほんの少しマイナスになってしまう気がした。


 自分の部屋に戻るとルニエはマフラの続きを編み始める。このままゆっくりと編み進めていても誕生日の数日後には完成しそうだ。バランタインズデイにプレゼントするつもりで編み始めたマフラだったが、誕生日プレゼントとして贈られるであろう花束のお礼として渡しても良いかもしれない、と思った。


 ラ・コスタがしていた赤いマフラは、もしかするとあの女性からのプレゼントだろうか? と余計なことを考える。どこかの育ちが良いお嬢様のようだったので、編物や刺繍がルニエよりも得意なのかもしれない。ルニエは編物であれば割りと得意なほうだったが、料理は挑戦する機会に恵まれなかったため、できないに等しい。


 本人はやればできるようになると信じて疑わなかったが、ルニエの母親が料理をしているところを見たことがなかったし、このまま……特にそうなるという根拠もなかった。


 ルニエは溜息を吐き、自分を悩ませるようになったキュラソウを少しだけ恨めしく思った。

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