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 ルニエは半分ほど編み終わったマフラを広げる。もう半分を編んで、最後にフリンジを両端につければ完成だ。ところが、引き出しの中を捜しても毛糸がほかに見つからない。


(もっとあったと思ったのに)


 せっかくのやる気を引き裂かれたくなかったので、ルニエは毛糸を買いにいくことにした。ついでにラ・コスタにあげる分の毛糸も買ってくることにする。コウトを着てマフラを首に巻き、毛糸の色番号をチェックしてハンドバッグを手に取った。


 忘れず父に行き先を告げると、歩いて手芸店へと向かう。途中でぶらぶらとウィンドウショッピングなども楽しみながら、ルニエはのんびりと足を進める。生憎のお天気で空は曇ってはいたが、雨が降りそうではなかった。


 角の本屋が目に入り、特に買いたい本があったわけではないが何となく中に入る。本独特の匂いに包まれて店内を歩いた。この雰囲気がルニエは好きだ。たくさん並んでいる本を見ているだけでも満足した気分になれる。


 一番奥の本棚で男の子が一生懸命に背伸びをして、指先よりも少し高いところにある本を取ろうとしているのがルニエの目に入った。近付いてその本を取って渡してあげる。


「ありがと……」彼は深くキャップを被った顔を斜めに上げた。


「あ……」


 キャップから僅かにはみ出したシルヴァアッシュの髪。つばの下から覗く大きな薄茶色の眼。白い左頬に痣のようなものが見えた。彼は赤いハイカットトレイナーズを履いて、だぼだぼの黒いジャムパを着て、赤いマフラをぐるぐる巻きにしている。


 ルニエが言葉を続けられないでいると、彼はまた本棚に向き直って本を物色し始めた。明るい場所で、しかも昼間に見るのはこれが初めてだったが、彼は間違いなくラ・コスタだ。


 注目すべきことは、彼が私服だったことであろう。夜の夜中でさえ制服を着ていたくせに、昼の日中は着ていないとはおかしい。まさか授業をサボっているのがバレないために、ということもあるまいとルニエは思ったが、昼間に会うのは初めてなので、彼にはルニエのことが判らないのではないか、ということが専らの心配事だった。


「ラ・コスタ! こんにちは。その本、全部あなたが読むの?」ルニエは恐る恐る声をかけ、彼の腕に抱かれている三冊の分厚い本を見る。タイトルは見えなかったので何の本であるのかは判らない。


「やあ、僕以外に誰が読むのさ」


「今日は私服なのね。学校はお休みなの?」彼が素っ気ないのはいつものことだ、と自分を納得させ、ルニエは質問を続けた。


「学校は……、とっくに卒業したから。僕、博士号持っているんだ」


「博士号?」驚いてとりあえずルニエは復唱する。


 ルニエは気付いた。博士号を持っているとすれば、彼はルニエの想像通り、かなり頭が切れるのだろう。彼が大人びた喋り方や仕草をすることがあるのは、身体の成長が単に追いついていないからなのかもしれない。


「すごいわね。ところで、このまえの手話をもう一度やって見せてくれないかしら」


「良いよ」彼は左手に本を移し、右手を動かした。


(もし……あなたが……与える……僕に、例の……?)


 動作を終えると、ラ・コスタは再び本棚に目を向ける。比較的ゆっくりした動きだったし、予め分かっていた部分もあるし、幸いにもルニエが必死で覚えた比較的初級の単語や、空に関係しそうな語彙の中に含まれていたものが使われていたので、何とか個々を対応させることができた。


 ただ……


「このまえと少し違うのね」


 前回と違って彼は空を指さず、といっても本屋の中なので空はないが、代わりに星を表すジェスチャをする。あのとき空で指差していたのは『星』だったということなのだろうか。


 たしかに星は出ていた。


「仕方ないよ、いまは昼間だし。たとえ夜だとしても彼女はほとんどなくなっちゃったから。僕は丸いのが良いのになぁ」本を抱え直し、ラ・コスタは残念そうに溜息を吐いて言った。


「もしかして、例の星というのは……、月のことなの?」棚に並ぶ本の背表紙を目で追う彼の返事を聞いたルニエは前髪を掻き揚げる。「でも、月は星ではないわ。だって、月は衛星だもの」


 ラ・コスタが急に顔を上げる。彼の頬は桃色だった。


「あ……そうか。月は星じゃないよね」恥ずかしそうに彼はモジモジして、キャップをさらに深く被る。「ねぇ……、恥ずかしいから誰にも言わないでね? これは、僕とルニエだけの秘密の言葉だよ」


 その一言で、ルニエの中で例の星といえば月と変換されるようになった。


 了解したとルニエは手話で返す。ラ・コスタはマフラを顔の上のほうにまで引き上げると、パタパタとカウンタへ走っていってしまう。ルニエはゆっくりした足取りで彼を追いかけた。彼にとって、月は女性なのだ、と思いながら。


 店員が値段を告げるまえから、ラ・コスタはコインを出してテイブルカウンタの上に置く。その絵柄はこの国のリキュア城ではなく、隣の国のジン城のものであった。貨幣はバッカス大陸共通なので絵柄が何であろうとも使用できるが、よほど勢いのない国を例外にして、自国の城が描かれているコインが一般的に流通しており、ルニエもその絵柄のコインは初めて目にする。


「お買い上げありがとうございました!」


 店員の営業スマイルが炸裂するが、そんなことはお構いなしにラ・コスタは小銭入れをポケットに入れ、反対側のポケットからサングラシスを出してかけ、長いジャムパの袖の中に両手をきっちりしまい込んで本を抱えた。そのままルニエを見向きもしないで彼は店を出るので、慌ててあとを追いかける。


「待って、ラ・コスタ!」ルニエは彼の隣をキープすると勢いよく話しかけた。「さっきのコイン……、ほかにも持っているの? 見せてくれないかしら」


「あげるよ」ポケットから10サーキ硬貨を一枚取り出し、彼はルニエに突き出す。


「まぁ!」


 それをルニエは空にかざして、しげしげと眺めた。たった10サーキでしかないのに、それはリキュアから一歩も出たことのないルニエにとって一種の錯覚を引き起こす。まるで、どこか別の国にいるような。


「そんなのが面白いの? お城の形が違うだけじゃない」


 コインを珍しげに眺めているルニエをラ・コスタは珍しげに眺めて、かなり夢のないことを言う。例えるとすれば、腹がいっぱいになれば料理の味なんて関係ない、だろうか?


「ラ・コスタはリキュア以外の国へ行ったことがあるのね。羨ましいわ。わたしは、この国を一歩も出たことがないから」


「僕の……生まれはリキュアだけど、ここよりも長くジンに住んでいるんだ。あっちは、どっちかというとドライな人が多いよ、君と比べたらね」最後のところで彼はルニエをちらっと見た。


 しかし、その視線も帽子が邪魔でルニエには届かない。ルニエはコインを充分に堪能すると、そっとバッグにしまう。


「わたしは優しいの? それとも可愛いの?」ドライの反対のスウィートに引っかけて、悪戯っぽくルニエは聞き返した。


「それはね……」彼は立ち止まってくすくす笑う。「甘いものが好きっていう意味」


「あら、残念ね」


 ここでガッカリなどしようものなら、それこそまさにラ・コスタの思う壺なのでルニエは迅速に切り替えした。彼は膨れっ面をして再び歩き出す。


「そのサングラシス、昼間はいつもかけているの?」


 夜にかけたら見えなくなるもん、とか、本屋ではかけてなかったでしょ? とか返事が返ってくるかもしれないとルニエは予測しつつ尋ねた。


「外ではね。日焼けするから。今日だって、曇りじゃなきゃ絶対に外出なんてしなかったよ」


 なるほど、今日の装備は日焼け対策だったのか、などとルニエは簡単に納得しない。けれどやっぱり、これほど色白のラ・コスタだから日焼けしたあとが大変かもしれない、とは思った。だがそれにしても、天気の日に外出しないのは徹底し過ぎではないか、とも思った。


(魔法学校を卒業しているのであれば、夜にわたしと会ったときはいつも制服を着ていたのかしら?)


 その疑問をルニエがぶつけてみると、「もし誰かに見つかっても、魔法学校の生徒だったら許してもらえるかもしれないし!」冗談を言っているとは思えないほど真剣な表情で彼は答える。


 魔法学校の生徒に関係なく、深夜の徘徊は不審だろう、とルニエは思ったが口には出さなかった。まさか、バルコニィで月を眺める課題が必ず出て、生徒全員に義務付けられているわけでもあるまい。


「ところで……、ルニエは僕の家までずっとついてくるの?」


「え? そんなつもりは……。近くなの?」


 話をしたくて一緒に歩いていただけで、指摘されなければ無意識にラ・コスタの行くまま、きっと家までついていってしまっていただろうルニエだ。


「ランド通り四のF、つまりこっちなの。またね!」彼はだぶだぶの袖を振る。


 ルニエは立ち止まって角を曲がる彼をぼんやり見送りながら、『またね』の言葉を反芻していた。ハンドバックの紐をぎゅっと握り締め、ようやく手芸店へのろのろと足を向ける。


 全く関係のない方向へずいぶん歩いたため、手芸店にたどり着くまで大分時間がかかった。入れ違いに客が出ていき、店内にはルニエのほかに店員しかいない。毛糸のコーナ真上の蛍光灯が切れている。誰もいなくなったら交換されるのだろうか?


 ダークグレイの毛糸を四玉ルニエは手にする。ラ・コスタに編むための毛糸も買おうとするが、今日の彼が赤いマフラをしていたのを思い出して迷う。


(スウェタは駄目。すぐに成長して着てもらえなくなる。でも……、マフラも……)


 散々ルニエは悩んだ末、結局はそのダークグレイの毛糸しか買えなかった。

 だって、あの赤いマフラはたぶん手編みだったのだから。


 家に帰ったルニエは早速、マフラの続きを編み始める。けれど、しばらくして手を動かすのを止め、そのまま視線を天井に漂わせ、ぼんやりした。また模型を数えてみるが、やはり一つ足りない。その模型のようにルニエの心も、宙ぶらりんでなにか足りないのにそれが何なのかが判らない、もやもやとした状態だ。


「ラ・コスタ……」そっと名前を呟いてみる。


 ルニエの頭の中で関係図が製作された。ルニエはラ・コスタが好きで、ラ・コスタの兄がキュラソウ医師で、ルニエは彼のことも気になっている。ルニエから伸びた線はラ・コスタに『好き』、キュラソウには『好意』と補足された。そして、二人の間には兄弟と書かれる。しかし、二人からルニエに伸びる線が書かれることはなかった。ルニエは彼らが自分のことをどう思っているのか検討もつかなかったし、無理やり補足するとすれば、キュラソウからルニエへ『患者』くらいだろう。


 ルニエは自分がラ・コスタのことを好きであろうことは、もはや間違いないと思っていた。けれど問題なのはキュラソウだ。ただの主治医であったはずなのに、ラ・コスタの兄として意識し始めた結果、いつの間にか彼はルニエの心を予想外の方向へどんどん引っ張っていってしまった。


 それに、笑顔のラ・コスタと微笑んでいるキュラソウ医師が頭の中で重なり、最後には重なってしまうのだ。同じように見始めている自分がいる。ラ・コスタのことが好きなのではないの? ルニエは自問自答の結果として、キュラソウのことが気になっている自分自身を認めた。


 いま、ルニエはキュラソウをただの主治医とは思えていない。だんだんとラ・コスタの位置付けと近付いてきつつある。ルニエがラ・コスタを好きなら、キュラソウのことも同じように好きなのだろうか? そうすると、違う二人を好きになってしまったということになるのだろうか?


 考えれば考えるほど、ルニエは気持ちが二つ存在することに矛盾を感じて目を閉じた。目を閉じると左右にラ・コスタとキュラソウが立ち、椅子に座ったルニエの手をそれぞれで取り、手の甲にキスをする。ルニエは立ち上がれない、立ち上がればどちらかを選ばなければいけないと知っていたから。


「お嬢様、夕食の準備が整いました」


 女中の声でルニエはハッとして目が覚める。転寝うたたねをしていたらしい。全身に汗をかいていて気持ち悪かった。


「ごめんなさい、シャワを浴びてから行くわ」扉の向こうに向かってルニエは答える。すぐに女中の返答があり、靴音が遠ざかっていった。


 バスルームへ飛び込み、ルニエはシャワで素早く汗を流す。このまましばらく温かい液体を浴び続けたいという衝動に駆られるが、そこから抜け出せなくなることを恐れ、恐々とその流れを止めた。バスタウルで全身を包み込み、小鳥のように身を震わせてタイルの上にしばしうずくまる。


(速く……食事に行かなくちゃ……)


 ふらふらとルニエは立ち上がり、まだ温もりを残す雫を丹念に拭き取ると、洋服に袖を通して鏡を覗き込み、ぼやけた自分の顔に溜息を吐いて食堂に急いだ。

「ルニエ! 具合が悪いのか?」食堂に入るなりコルドン氏が尋ねてくる。


 ルニエは黙って首を振り、自分の席に着いた。手を合わせ食事が始まる。静かな部屋の中に食器が触れ合う音だけが響いていた。


 いつもなら他愛もない雑談が始まっていそうなのに、今日に限って始まることもなく、なにかの課題をこなすように黙々と食事が消費されるだけである。ときおりルニエは視線を感じ、その主が妹であることに気付いた。彼女は目を輝かせて微笑んでおり、その笑顔からは容易にあの言葉が思い出された。


「お姉さまはご病気なのよ」妹がポツリと呟く。


 ビクリと身体を震わせたルニエは、視線を彼女に向ける。少し喉を詰まらせたコルドン氏がその意味を尋ねたが、彼女はクスクス笑うばかりだった。


「ごちそうさま!」


 一人だけ先に食事を終わらせてしまった妹は、責任から逃れるように椅子から飛び降りて部屋へと駆けていってしまう。ルニエは嫌な予感がした。ただでさえ病気などに敏感な父のことであるから、余計な心配をするに違いないのだ。


 食堂に二人だけになると、コルドン氏はルニエを見つめる。「本当なのか? また風邪がぶり返したのか?」


「大丈夫です」


 もちろん直ぐに否定したが、やはりコルドン氏は納得していない様子で首を振る。


「いや……、もしお前が誕生日を欠席するなどということになってはいけない。念のために明日、先生に来てもらおう」彼はどうにか安心したいのか、自分に言い聞かせるように言った。

「まあ……先生もお忙しいのに、いきなり呼び寄せては失礼でしょう。本当にもう大丈夫なのよ、お父様。念のためでしたら、わたしがキュラソウ先生のお宅へ伺います」


「しかし、外に出れば病状が悪化するかもしれんしな」


「ですからお父様、わたしは大丈夫です。それに、少し散歩でもするほうが運動になって良いでしょう?」


「うむ、そうか……。気を付けて行くのだぞ」


 しばらく考えていた父親が渋々納得したように頷くのを見て、ルニエは予想外の幸運が舞い込んできたことを感謝、妹に感謝せずにはいられなかった。あのとき彼女が言った病気とは、まえに囁かれた『恋のやまい』を指したものだったのだろうが。


 食事を終え部屋に戻ったルニエは窓の外を眺める。そこには月は見当たらない。闇のヴェイルが覆い隠してしまっているのだ。もし、その姿を見付けたら、ルニエは咄嗟に手を伸ばしていただろう。


 絶対に、届かないと知っていても。

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