表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/34

09

 次の日、といってもルニエは何時に寝たのかをはっきり覚えていないので、その眠りから覚めた日の意味だが、ようやくコルドン氏から風邪が十分に回復したと認められ、久しぶりに家庭教師が訪れることになった。彼女は基本的な全ての教科をルニエに教えなければならない。何故なら、ルニエは学校に通ってないからだ。


 昔はもちろん普通に通っていた。だが、ある運の悪い日、例の青い眼を同じクラスの男の子に見られてしまい、彼の友人からなるグループに化け物扱いされ始めた。それでも我慢してどうにか通っていたものの、毎日毎日積算していくグラースの欠片はずっしりと重く底に沈み、動くたびにどうしようもないくらい心を傷付けるようになった。


 あるとき、ついに一大決心をして、父親に学校へ行きたくないと訴えてみる。彼はその訴えに飛び上がるほど驚いたが、理由を聞くと「そうか……」と一言だけ呟き、次の日からルニエはこの簡単な解放を手に入れる。


 その代わり、自由にはおまけが付いていたのだ。


 やかんのような金髪を波打たせた青い眼の女性がある日の朝食後、突然ルニエの部屋に現れた。彼女は自己紹介するよりも先にルニエを抱き締めて微笑んだ。


「私は貴女の家庭教師になるエル・テソロ、今日から宜しくルニエ!」


 どうして彼女が家庭教師に選ばれたか、その理由は父に聞かなくともルニエには解ってしまった。きっと、彼女の眼の色が青かったからだろう。そうと分かって、ガッカリするよりほかなかった。父はルニエの気持ちを理解してくれたと思っていたのに。彼はこんなことで、青い眼に対するコムプレクスを薄めようとしているのだろうか?


 そんな面で少しは反感を持ったが、エル・テソロはとても良い家庭教師だった。歳は二十台半ばくらいで、いつも左手の薬指には銀の指輪をはめていた。自分のことは気軽に『エル』とファーストネイムで呼ばせたし、堅苦しい距離など一切なく、家庭教師というよりは近所のお姉さんみたいだった。


 学校に行くようにと彼女から説得されることもなく、行きたくない理由だけを真剣に聴いてくれた。ただ誰かに話を聴いてもらうことで、こんなにも心が楽になれるとは思いもしなかったのだ。そういう職業があると知り、ルニエは興味を持っている。


 彼女と出会えたこと一つだけとっても、一風変わった青い眼で生まれた損害はそれほど多くないのかもしれない。


 久しぶりにやって来たエルに、ルニエはそれとなく好きな人ができたことを相談した。彼女は頷きながら話を聴いていたが、最後に「脈はありそうなの?」とルニエの耳元で囁く。


「まだ、判らないわ」自分でもよく判らなかったので、とりあえずルニエはそう答えるしかなかった。


 でも、まだ……、まだ判らないのだ。ルニエ自身も、会ったばかりの人をいきなり好きになるものなのか分からなかったし、好きだと明言してよいものか。もしかしたら、彼が今後ルニエに好意を持つ可能性もないとはいけない。


「そう……。でも、この人だと思ったら絶対に諦めないのよ」


 黙ってルニエは頷く。まだ本当に好きなのか確信を持ててはいないが、彼に会いたい、と思う気持ちは本当だ。いまのところ、はぐらかされてはいるものの、彼に近付くことを諦める気などさらさらなかった。自分の印象度を上げることには、少しは成功しているのではないかとルニエは思っていたが、実際のところどうなのだろう。


 決意を決めると、エルを見てもう一度ルニエは力強く頷いた。


 勉強の時間が終わり、エルは昼食を一緒にとってから帰っていった。ルニエは部屋で本を読んでいたが、区切りの良いところで切り上げ、外へ散歩に出かけた。庭にあるアカシアの木は見事に枝を広げ、可愛らしく銀色がかって密集した小葉とまだ硬い蕾をした果房が垂れ下がっている。


「もうすぐバランタインズデイ」葉っぱを指で突っついた。


 来月にあるバランタインズデイでは、女性にアカシアを贈るのが通例。だから、アカシアの蕾を見ると、ルニエはその日が近いことを思い出すのだ。


 コルドン氏が朝食のときに、今日は念のためにキュラソウを呼んである、と言っていた。ルニエは昨晩のことがラ・コスタを介して彼に伝わり、誤解が解けていれば良いのに、と思いながら部屋に戻る。


 廊下の角を曲がると、ルニエの部屋の斜め前でキュラソウと向かい合わせで立った女中の背中が見える。二人でなにかを話し合っているみたいだ。ルニエは立ち止まり、その様子を何気なく見ていたが、彼がすまなそうになにかを告げた途端、女中が目の端を押さえたのを見て、どうしようもなく嫌な気分になった。


 思い切って、ルニエは二人に向かって歩き出す。彼らが立っているのはルニエの部屋の前なのだから、なにも不自然ではない。


「……なさい……だけじゃない、辛いのは」


 話し声が近付いてくる。キュラソウの優しい声。彼が優しいのは、ルニエだけにではない。女中が無言で何度も頷いた。


「こんにちは、先生。まだ余裕があると思っていましたけど、もうそんな時間ですか?」


 キュラソウが振り向くとすぐにルニエは話しかけた。彼は左腕の時計をちらっと見て、「あと一分なら余裕がある」と微笑んだ。


 女中は頭を下げてすぐに立ち去ったので、残されたキュラソウをルニエは部屋に招き入れる。さっきなにを話していたのか聞くタイミングを窺ったが、どうやらこれはヤキモチらしいと気付いて止めにした。彼はいつものようにテイブルの上に鞄を置いてソファの片端に座る。どうやら隅っこが好きらしいのだ。


「調子はどう? どこかに、違和感がある?」


「元気ですよ……わたし。父はまだ心配しているようですけれど、風邪もすっかり治ってしまいましたし」


 心持いつもより近くにルニエは腰をかけた。


 彼はルニエの首筋や額に触れ、いくつかの質問をする。メディカルチャートになにか書き込んでいるようだったが、きっと『異常なし』に違いないとルニエは思った。


「たしかに、もう良いようだね」


 何気なくキュラソウの襟元をみると、昨日ついたコーフィの染みは消えてなくなっている。彼が洗濯をしているのだろうか。


「ところで、先生。二十八日にわたしの誕生日パーティを開くので、先生もいらっしゃいませんか?」


 もうコルドン氏から話を聞いている可能性もあったが、ルニエの誕生日だからルニエから誘うべきだろうと思った。去年はまだ主治医になって日が浅いから、と断られたらしい。


「二十八日か……、悪いな」彼は口元を斜めにしていった。


「悪い? 都合がですか?」


 断られるという場面をあまり想定していなかったルニエは、驚いた口調で思わず聞き返す。


「いや、僕の体調が……だよ」


「あら……、先生は数日先の体調までお分かりになるの?」断る言い訳に違いないと思ったので、少し皮肉を言ってしまった。


「君の定期健診、もし新月の日だった場合は、必ず日にちをずらしてもらっていることを知らないのかい? 二十七日が新月だから、その前後の日も少なくとも体調が悪いに決まっている。その日が満月なら行けるんだけどね。昼間の診察くらいなら大丈夫だろうけど、元々人が多いのは苦手だし、今回も遠慮させてもらうよ」


 二十八日は火曜日だったが、その前日の月曜日が新月かどうかだなんて、もちろんルニエが知るわけもない。また、キュラソウが新月の日に必ず仕事を休むという事実も知らなかった。第一、新月=体調が悪いという図式がどう考えても成り立たなかったのだ。だがもし、ルニエの誕生日が満月だったならば、今度は違う悩みが生まれていたに違いなかった。


「納得できかねますが、仕方ありませんね」


 一度立ち上がるとスカートの裾を整え、座り直して肩に流れかかっていた髪の毛を後ろに追いやる。そして、キュラソウに視線を戻すと、彼はソファに片手を置いて微笑みながらじっとルニエの動作を見ていた。


「僕は納得している」笑いながらキュラソウは言った。


「先生!」ルニエは子どものように頬を膨らませる。「そうだわ。……ねえ、代わりにラ・コスタがやっていたジェスチャの意味を教えていただこうかしら」


「ああ、これ?」ラ・コスタがやって見せたときとは、全く比べものにならないくらいの速さで手が動く。「ヒントくらいあげても良いけど、意味は自分で考えるように」彼は素っ気なく答えると足を組んだ。


 続いて語られるだろうヒントを聞き逃すまいとルニエは耳をそばだて、動き出すはずの薄い唇を見つめる。やがて唇はゆっくりと動き始めたが、キュラソウの落ち着いた声は聞こえてこなかった。もちろん彼が声を出そうとしなかったからだ。


 無言の唇は、なにか短いフレイズを何度も繰り返しているようだった。しばらくして彼は右手の親指と人差し指で輪っかを作り、軽く微笑んで首を傾げた。


 それがなにを意味するのか、ルニエはようやく理解して自分もOKサインを返す。


「解った?」同じ唇の動きだった。


「ええ。手話……ですね! どうして気付かなかったのかしら」


「正解だ。さてと、どこも悪くないようだし、今日の診察はこんなもので宜しいですか、お姫様?」


「ええ」残念そうに答えると、彼はにっこりと微笑んで鞄を手に取った。どう見ても帰れるのが嬉しそうだ。


 しかし、そんなことでへこたれるルニエではない。幸いにも手話を勉強するという課題ができたのだ。早く理解できるようにまでなって、ラ・コスタの示した言葉を知りたかった。


「じゃあ、またね」


「はい、ありがとうございました」


 玄関まで彼を送って行こうと思っていたが、部屋の扉を開けたところで、さっきの女中を見付けたのでそちらに気が行ってしまい、そこでルニエはお別れを言った。キュラソウが見えなくなると、急いで女中に駆け寄る。彼女は恐ろしくびっくりしていた。


「ねぇ……あなた、さっき先生となにを話していたの?」できるだけ優しく話しかけたつもりだったが、もしかすると目が笑ってなかったかもしれない。


「えっ? あ、も、申し訳ありません。私の……、お、弟が熱病の後遺症で聴力をほとんど失ってしまったらしく、それで勝手ながら先生にご相談をさせていただいたのです……」


 ほっと溜息を吐き、今度こそ優しく微笑む。「わたし、手話を勉強しようと思っているの、あなたにも教えてあげるわ」


 女中は顔をパッと輝かせて目を瞬いていたが、手で顔を隠すように頭を下げると涙でも隠すかのように走っていってしまった。


 ルニエは首を傾げると、そのまま廊下を歩いていく。エルに電話をかけるつもりだった。ルニエよりきっとそういうことが詳しそうな彼女に、手話の本を手に入れてきてもらおうと考えたのだ。電話をかけるとすぐに彼女が出て、手話は自分がそこそこできるから教えてあげようか、と提案してくれた。ルニエは喜んでその提案をお願いする。エルが教えてくれるのなら心強い。


 かなりご機嫌の状態でルニエは受話器を戻すと、コルドン氏に見つからないようにこっそりとスキップをして部屋に戻った。扉を閉めて、ベッドの横にある戸棚の引き出しを開け、中からダークグレイの毛糸を引っ張り出す。なにかを編もうと思って買ってきた毛糸だったが、これでマフラでも編んで彼にあげようと思った。来月はバランタインズデイ。日ごろの感謝として女性へアカシアが贈られるだけでなく、女性からも贈り物をあげることは珍しくない。


(ラ・コスタと先生、どちらにあげようかしら?)しばらく悩んだ。二人分を編むにしては毛糸が少なすぎる。(この毛糸で編んだものを先生にあげて、ラ・コスタはまた別の色で編み始めれば良いわ)


 バランタインズデイにラ・コスタと逢えるとは限らないし、日ごろからお世話になっているキュラソウにあげたほうが良さそうだ。それに、このダークグレイの毛糸は、全体的に落ち着いたキュラソウによく似合いそうだったし、ラ・コスタはもっと青か赤の色合いが入ったものが似合うかもしれない。彼にしてもモノトウンであるはずの制服姿しか見たことがないのだが。


 独りでくすくす笑いながらルニエは編み棒を取り出した。誰かあげる相手がいると編物も楽しくなるものだ。悪戯で赤い糸でも編みこんであげようかともルニエは考えもするが、また独りでくすくすと笑って思い止まる。


 かなりの上機嫌だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ