妊娠中の妻は「研修」と嘘をつき、年下の部下とホテルに泊まっていた
亮介と誕生日の食事に出かけ、車を停めたところで、隣に見覚えのある黒いメルセデスがあることに気づいた。
美咲の車だった。
妊娠四か月の美咲は、昨日から二日間、名古屋で美容業界の研修に参加するはずだった。予定が急に変更になって、たまたま友人とこのホテルに来ているだけなのだろうか。
偶然かもしれない。そう思い直し、とりあえずレストランを確認することにした。ロビーの受付まで行き、スタッフに声をかける。
「予約名は小野寺美咲です。連絡先は090――――0602です。レストランの予約が入っていないか確認していただけますか」
スタッフは端末を確認し、しばらくして顔を上げた。
「申し訳ございません。小野寺様のお名前では、レストランのご予約は確認できません」
胸の奥が、嫌な音を立てて沈んだ。
こんな高級ホテルに来ているのに、食事ではない。
まさか……。
泊まりに来たのか。
1
地下駐車場では、あの黒いメルセデスが嫌でも目についた。亮介は車の後ろに回り、ナンバーをもう一度確かめると、さっきまで浮かべていた笑みを消した。
「やっぱり美咲さんの車だよな。名古屋に研修だって言ってたのに、なんで横浜にあるんだ?」
昨日の夕方、美咲はキャリーケースを引きながら家を出ていった。少し膨らみ始めた腹に手を添え、「研修は二日だけだから。明日はなるべく早く帰って、誕生日を祝うね」と笑っていた。
今はまだ午前十一時半だ。それなのに彼女の車は、自宅からそう遠くない、みなとみらいのホテルの地下に停まっている。
スマートフォンを取り出して電話をかけたが、呼び出し音が続くだけで出なかった。
亮介がホテルの入口を見た。
「フロントで聞いてみるか?」
「宿泊客のことを、俺たちに教えるわけない。先に中へ入ろう」
証拠もないのにフロントでもめても意味がない。そもそも美咲が本当に泊まっているのか、泊まっているとして一人なのか、それすらまだ分からなかった。
今日はもともと、亮介と昼食を取るために来たのだ。なら、まずはレストランから確かめればいい。
二階へ上がると、入口にいたスタッフが丁寧に頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ご予約はございますか?」
亮介が自分の名前を告げようとするより先に、俺は口を開いた。
「小野寺美咲の名前で予約が入っていないか、確認していただけますか」
スタッフが端末を操作した。
「申し訳ございません。小野寺美咲様のお名前では、ご予約を確認できませんでした」
数秒、画面の方を見つめる。
「予約を忘れたのかもしれません。妻は妊娠中で、今日はこの近くで休んでいるはずなんです。俺の誕生日だから昼食を予約しておくと言っていたんですが、窓際の席はまだ空いていますか?」
「はい。二名様でしょうか?」
「お願いします。それと……もし可能なら、食事代を部屋付けにできますか?」
「お部屋番号がお分かりでしたら承れます」
そこで初めて思い出したように眉を寄せた。
「部屋番号を忘れてしまって。宿泊の有無について答えられないのは分かっています。もし該当するお客様がいらっしゃるなら、『夫の直人が誕生日の食事代について確認したいと言っている』と伝言だけお願いできますか?」
スタッフは少し考えたあと、俺の名前と連絡先を確認した。
「ご宿泊についてこちらからお答えすることはできませんが、伝言をお預かりすることは可能です。少々お待ちください」
スタッフは俺たちから少し離れ、館内電話を操作した。誰に繋いだのかも、本当に美咲が宿泊しているのかも、一切口にはしなかった。
俺はカウンターの前に立ったまま、冷たくなっていく手のひらを握り込んだ。
しばらくすると、スタッフが戻ってくる。
「伝言はお預かりいたしました」
それだけだった。
だが、数分もしないうちに俺のスマートフォンが震えた。
美咲からだ。
電話には出なかった。
すぐにLINEが届く。
「直人、研修が急に横浜開催へ変更になったの。今ホテルで出資者と打ち合わせ中。二人で先に食べてて。すぐ下に行くから」
亮介が画面を見て、低く吐き捨てた。
「ここまで来て、まだそんな嘘つくのかよ」
俺はスマートフォンを伏せ、水を一口飲んだ。
「待とう」
「部屋を探さなくていいのか?」
「いい」
今さらドアを蹴破って現場を押さえることに、大した意味はない。
まずは、美咲がどんな顔で何を話すのか見てみたかった。
2
美咲とは六年付き合い、結婚して八年になる。
結婚するとき、俺は美咲の両親と普通養子縁組をした。いわゆる婿養子として小野寺家に入り、姓も小野寺に変えた。
当時は埼玉県内の食品メーカーで営業をしており、ちょうど係長に昇進したばかりだった。給料が飛び抜けて高かったわけではないが、このまま勤めていれば、それなりに安定した将来が見えていた。
結婚から二年後、義父が脳梗塞で倒れた。命は助かったものの、片麻痺が残った。
小野寺家は横浜の古い商店街で豆腐店を営んでいた。義父が倒れた途端、製造も配達も仕入れも一気に回らなくなり、義母一人では到底支え切れなかった。
あの日、義母は俺の前に座り、珍しく弱気な顔を見せた。
「直人、お父さんがこんな状態でしょう。美咲は店のことなんて何も分からないし……何年かだけでも、戻って手伝ってくれない? 落ち着いてから、その先のことを考えればいいから」
結局、俺は会社を辞めた。
大豆は前日の夜から水に浸しておく。午前三時には作業場に入り、それをすり潰して加熱し、豆乳とおからに分ける。にがりを打って固め、型に入れて圧をかけ、夜が明ける頃には最初の豆腐や油揚げ、厚揚げを近所の料理店や居酒屋、惣菜店へ届けなければならなかった。
昼間は義父のリハビリに付き添い、戻れば帳簿や仕入れを確認し、取引先にも顔を出した。古い家の屋根は雨漏りし、作業場の機械も次々と寿命を迎えた。その修理や更新にも、自分の貯金を少しずつ入れていった。
数年後、駅前一帯で市街地再開発事業が始まった。
小野寺家の土地や店舗も区域に含まれ、権利変換の対象になった。長年持っていた土地と建物の権利は、再開発ビル内の住宅区画や店舗区画へと置き換えられ、移転や休業に伴う補償も入った。
その結果、小野寺家は新しいマンションの住戸を二つと、駅前の店舗区画を得た。
昔ながらの豆腐屋を細々と続けていた家が、一気に資産を持つことになった。
親戚の中には、陰で「再開発成金」と呼ぶ者さえいた。
それ以降、義母は俺に頭を下げて会社を辞めてもらった日のことを口にしなくなった。
親戚が集まるたび、決まってこんなことを言った。
「やっぱり小野寺家の土地が良かったのよ。直人もいい時にうちへ来たわよね」
俺は何も言い返さなかった。
少なくとも、当時の美咲は俺を大切にしてくれていたからだ。
美咲は補償金の一部を元手に、女性向けのエステサロンを開いた。フェイシャルやボディケア、産後ケアを中心にした店だった。
美咲がサロンを経営し、俺は豆腐店を守りながら義父の面倒を見る。周囲から見れば、それなりにうまく役割分担のできた夫婦だったと思う。
四か月前、美咲の妊娠が分かった。
義母は毎日のように食事を用意し、俺も店の仕事の一部を長年勤めている従業員へ任せ、健診への付き添いや家事に時間を割いた。夜中に急に何か食べたいと言われれば、買える店を探して車を出した。
あの頃は本気で思っていた。
ようやく、苦労した分だけ穏やかに暮らせるようになったのだと。
それが崩れ始めたのは、三日前だった。
美咲が銀行の書類をテーブルに置いた。
「二店舗目の準備が進んでるの。物件も設備もスタッフもほぼ決まったんだけど、あと三千万円必要で。明日、銀行に一緒に来てほしい。東口のマンションに抵当権を設定するから、共有者の直人にも書類へ署名してもらわないといけないの」
書類をめくりながら眉を寄せた。
「東口の部屋を担保に入れるのか?」
「融資のためだけよ。二店舗目が軌道に乗れば、すぐ回収できるから」
東口のマンションは、美咲と俺の共有名義だった。再開発前の自宅や店舗を直す費用、設備更新などに俺もかなりの額を出していたため、再開発後の資産整理の際、義父が俺にも共有持分を持たせることを譲らなかったのだ。
その時、義母はかなり不満そうだった。
そのマンションを、美咲は担保に入れようとしている。
「三千万も足りないのか?」
「二号店なんだから、部屋を借りれば終わりってわけじゃないでしょ。内装、施術機器、保証金、予約システム、広告費……全部お金がかかるの」
美咲は隣へ来ると、俺の手を自分の腹へ重ねた。
「私だって、私たちの将来のために頑張ってるの。子どもが生まれたら、ずっと豆腐屋だけで終わるわけにもいかないでしょう? この子には、もっといい環境を用意してあげたい。今回だけ、私を信じて」
正直、気持ちは揺れた。
客に声をかけることすら苦手だった美咲が、自分の店を持ち、ここまで経営を続けてきた。その努力を一番近くで見てきたのも俺だった。
だが、美咲が身体を寄せた瞬間、知らない男物の香水が鼻をかすめた。
ごく薄い。
だが、俺が使っているものではない。
視線を首筋へ移すと、髪の生え際近くに新しい赤い跡があった。爪で引っかいたようにも見える。
「ここ、どうした?」
美咲はそこへ手を当て、一瞬だけ目を止めた。
「妊娠してから肌が敏感になってるの。痒くて自分で掻いただけ」
そう言って、すぐ浴室へ入っていった。
やがて水音が聞こえ始めた。
俺はリビングに座ったまま、テーブルの融資書類を見つめていた。
次のページをめくるまで、かなり時間がかかった。
3
翌日、俺は銀行へ行かなかった。
すぐに美咲から電話がかかってきた。
「今どこ? 銀行の人、ずっと待ってるんだけど」
「病院」
電話の向こうが一瞬静かになった。
「どうして病院にいるの?」
車にもたれ、なるべく普段通りの声で答える。
「前回の健診記録で少し確認したいところがあるって。妊娠週数が最初の見立てと少し違うらしい。家族にも一度説明したいって言われたんだ。午後、一緒に行かないか?」
今度は、はっきり分かるほど長い沈黙が落ちた。
数秒後、美咲が口を開く。
「再診なら別の日でもできるでしょう? 銀行の審査は今日進めないと、また後ろにずれるの。先に担保の手続きを終わらせて。それから病院に行けばいいじゃない」
何も答えず、スマートフォンを握った。
本当に病院から妊娠週数について連絡が来たのなら、まず子どもの状態を気にするのが普通だと思っていた。
だが、美咲が気にしているのは三千万円の融資だった。
その夜、美咲はまた書類を俺の前へ置いた。
「明日なら行けるよね?」
「そんなに急ぐのか?」
「新店の準備って、一日止まるだけでもお金が出ていくの。急ぐに決まってるでしょ」
近づいてきた美咲から、また男物の香水がした。
前より濃い。
耳の後ろには銀色がかった細かなラメが付いていた。俺はウェットティッシュを一枚取り、そこを軽く拭った。
白い紙にはラメと一緒に、整髪料らしい油分が残った。
美咲はそれを見た瞬間、ほとんど間を置かずに口を開いた。
「今日、店のPR動画を撮ったの。蓮が照明を直してたから、その時に付いたんじゃない?」
桐生蓮。
美咲のサロンで店舗マネージャーを務めながら、新規事業も担当している年下の社員だ。二号店の立ち上げにも深く関わっていた。
どの説明にも、一応筋は通っている。
だが、答えがあまりにも早すぎた。
その夜、美咲が眠ってからスマートフォンを確認した。
LINE、Instagram、PayPay、Googleマップ、宿泊予約アプリ、クレジットカードの明細。
どこを見ても妙にきれいだった。
蓮とのLINEも仕事の連絡ばかりで、余計な雑談すらない。金のやり取りもなければ、恋人同士を疑わせる文章もなかった。
本当に何もなければ、きれいなのは当然だ。
だが、すでにいくつもの違和感が出ている。
俺はスマートフォンを探るのをやめ、普段美咲が乗っているメルセデスに目を向けた。
車の所有名義は俺で、メーカーの車両管理アプリも以前から俺のアカウントに紐づいていた。そのため、最後に駐車した位置や車両の基本状態は確認できる。
それから数日は、何も気づいていないふりをした。
一日目は、自宅、病院、サロン。
二日目は、サロンとショッピングモール。
三日目も特に変わった動きはなかった。
五日目。
美咲はキャリーケースを持ち、名古屋で二日間の美容業界研修に参加すると言った。
「明日は誕生日でしょう? なるべく早く帰るから」
「分かった」
家を出て二時間後、車両アプリを開いた。
車は神奈川県を出ていなかった。
最初にサロンへ行き、次に蓮が住んでいるタワーマンションの近くへ停まり、最後はみなとみらいのホテル地下駐車場へ入った。
午後十時を過ぎても、位置は変わらなかった。
俺は豆腐店の奥にある事務スペースで、画面を見たまま動けなかった。
男物の香水。
首の赤い跡。
耳のラメ。
不自然なほど何もないスマートフォン。
三千万円の融資。
そして、名古屋へ行ってすらいないという嘘。
ここまで揃えば、もう自分を納得させる言い訳は残っていなかった。
妊娠四か月の美咲は、浮気をしている。
4
五分ほどして、美咲がレストランへ姿を現した。
かなり急いだらしい。髪はまだ少し湿っていて、ジャケットのボタンを一つ掛け違えている。首筋には、貼ったばかりに見える絆創膏があった。
いつもの香水はほとんど消え、ホテルのアメニティに似たボディソープの香りがした。
美咲は俺の隣へ座ると、何事もなかったように笑おうとした。
「誕生日おめでとう。研修、本当に横浜へ変更になったの。しかも急に何人かの出資者と会うことになって。打ち合わせが終わったら、驚かせようと思ってた」
追及はしなかった。
皿の上で切ってあった肉を、美咲の方へ押した。
「先に食べろよ。妊娠中なんだから、腹を空かせない方がいい」
一瞬きょとんとしたが、美咲はフォークを取った。
俺はナプキンで手を拭く。
「そういえば、何号室にいるんだ? 昨日よく眠れなかったから、食べ終わったら少し横になりたい」
亮介のフォークが皿に落ち、甲高い音を立てた。
美咲の表情も一瞬だけ崩れた。
だが、すぐ元に戻る。
「いいよ。食べ終わったら案内する」
しばらくして、美咲は化粧室へ行くと言って席を立った。ガラス越しに見ると、レストランの外の角でスマートフォンを耳に当てている。
亮介がそちらをちらりと見た。
「証拠でも片づけさせてるんじゃないか?」
「フロントかもしれないし、蓮かもしれない」
「それでも部屋へ行くのか?」
「行く」
三十分後、十二階に上がった。
1208号室。
美咲がカードキーでドアを開けた。
部屋は、直前まで人がいたとは思えないほど整っていた。ベッドリネンは交換されたばかりに見え、ゴミ箱は空。浴室の床には水滴一つ残っていない。
洗面台には一人分のアメニティしかなく、室内には消臭剤の匂いが強く残っていた。
俺は中央に立ち、ゆっくり室内を見回した。
何もない。
むしろ、その何もなさが気になった。
美咲はドアの近くに立ったまま、こちらを見ている。
「見たでしょ。仕事のために来ただけだって言ったじゃない」
首の絆創膏へ視線を向けた。
「俺、何か聞いたか?」
美咲の口元が固まった。
それ以上、室内を探すことはしなかった。
消すつもりだったものは、もう全部消されている。
階下へ戻ると、そのままフロントへ向かった。
「昨夜から今日まで、十二階の該当エリアの防犯カメラ映像を保存しておいていただけますか」
スタッフの表情が少し硬くなる。
「申し訳ございません。宿泊者様の情報や防犯カメラ映像を、第三者の方へお渡しすることはできません」
「今、俺に見せてほしいと言っているわけではありません」
スマートフォンをポケットにしまった。
「婚姻関係と財産をめぐる民事上の問題になる可能性があります。必要であれば、後日弁護士から正式に連絡します。それまで、該当時間帯の映像が通常の保存期間前に消去されないようお願いしたいだけです」
美咲が俺の袖をつかんだ。
「直人、もうやめて。こんなところで騒がないでよ」
ゆっくり腕を抜く。
「じゃあ、蓮を呼べ。二号店の三千万円の融資がどうなってるのか、新会社が誰のためのものなのか、まとめて説明してもらえばいい」
美咲の顔から血の気が引いた。
そこへ、ホテルの責任者らしいスーツ姿の男性がやってきた。
「お客様。私的なお話でしたら、別室をご用意いたします。ロビーですので、よろしければそちらでお話しいただけますでしょうか」
俺は頷いた。
「お願いします」
5
会議室のドアが閉まると、ホテルの責任者がお茶を用意した。
こういう場面では、部屋へ押しかけたり、ホテルに映像を出せと迫ったりする人もいるのだろう。
だが、ホテルに俺の妻の不貞を証明する義務などない。スタッフを敵に回す理由もなかった。
必要なのは、残っている証拠を消させないことだ。
正式な民事手続きへ進めば、どの資料について照会や証拠保全を検討できるのかは弁護士が判断する。
今はただ、美咲に分からせればいい。
部屋をきれいにしたからといって、全部終わったわけではない。
責任者が俺を見た。
「小野寺様、ホテル側にはどのような対応をご希望でしょうか」
「今ここで、宿泊者の情報を教えていただく必要はありません。防犯カメラも見せなくて結構です。通常の保存ルールに従って、映像を残しておいてください。必要になれば弁護士から正式に連絡します」
美咲がこめかみに手を当てた。
「直人、もういいでしょう。家に帰って話せばいいじゃない」
それまで黙っていた亮介が、とうとう口を挟んだ。
「今さら人目が気になるのか? 名古屋に行くって旦那に嘘ついて、妊娠中に別の男とホテルにいる方がよっぽどだろ」
俺は手で制した。
美咲へ視線を戻す。
「蓮を呼べ。二人で説明してくれ」
「どうして蓮を呼ぶ必要があるの?」
「新店と出資者の打ち合わせだったんだろ? あいつは二号店の新規事業担当だ。三千万円の融資にも関わってる。来ても何もおかしくないよな」
美咲は動かなかった。
俺はスマートフォンを机の上へ置いた。
「呼びたくないなら、それでもいい。今日から全部、弁護士を通す」
しばらく俺を見つめたあと、美咲はとうとう電話をかけた。
繋がった瞬間、美咲が話し始めるより先に、蓮の声が漏れてきた。
「美咲さん、もう片づいた? あの豆腐屋、帰った?」
会議室が静まり返った。
美咲の顔から、見る見る血の気が引いていく。
俺は手を伸ばし、スマートフォンを受け取った。
「小野寺です」
電話の向こうが無言になる。
怒鳴る気にはならなかった。
「今、ホテルの会議室にいる。会社と融資の件を説明したいなら戻ってこい。来ないなら、宿泊の記録も資金の流れも、新会社の登記関係も、必要なものは全部弁護士に調べてもらう」
向こうから慌てた呼吸が聞こえた。
「小野寺さん、誤解です。俺と美咲さんは仕事で――」
電話を切った。
亮介はさっきより険しい顔で俺を見ていた。
逆に、俺の頭は妙に冷えていた。
豆腐屋。
俺が毎朝三時に起きて豆を挽き、この家の店を守り、義父の面倒を見てきた年月は、あいつの口から出ればその一言で終わるらしい。
それなら、それでいい。
その豆腐屋が今日、金も嘘も、一つずつ精算してやる。
6
二十分ほどして、義母が義父の車椅子を押して会議室へ入ってきた。
義父は見るからに疲れていた。義母はまず美咲を見たあと、今度は俺に怒りを向ける。
「一体どういうことなの? 美咲は妊娠中なのよ。こんなところへ呼び出して何をしてるの」
義父は俺を責めなかった。
机の上に置かれた融資書類と美咲を何度か見比べる。
「直人。ゆっくりでいい。何があった」
俺は立ち上がり、義父が入りやすいよう場所を空けた。
「まだ一人、来ていません」
義母が眉を寄せる。
「誰?」
美咲を見る。
「腹の子の、本当の父親かもしれない男です」
義母が固まった。
次の瞬間、美咲の頬を叩いた。
「あなた、何をしたの!」
美咲は頬を押さえたまま、青ざめている。
義母は荒い息を整え、今度は俺を見た。
「待って。まだそんなふうに決めつけないで。美咲は仕事で男の人と会うことも多いし、社員だっているでしょう? 何かの勘違いかもしれないじゃない」
言い返す代わりに、融資資料を義母の前へ滑らせた。
「じゃあ、俺と美咲の共有名義になっている東口のマンションへ抵当権を設定して三千万円を借り、その金を美咲と蓮が作った新会社へ入れようとしているのも、勘違いですか?」
義母は黙り込んだ。
慌てて書類をめくる。
「新会社って何よ」
美咲が身を乗り出した。
「二号店の資金調達をしやすくするためよ。蓮は運営に詳しいから、会社の立ち上げも手伝ってもらってるだけ」
美咲を見た。
「会社名は?」
数秒の沈黙。
「株式会社レンミ・ビューティー」
「株主は?」
美咲は答えなかった。
俺が代わりに言う。
「美咲と桐生蓮」
義母が書類を机へ叩きつけた。
今度ばかりは、娘をかばう余裕もなくなったらしい。
「お父さんが何十年も守ってきた店と土地が元になってるのよ! 東口のマンションには直人の持分だってあるでしょう。それを、どうして勝手に外の男の会社に使おうとするの!」
美咲は唇を噛んだ。
「蓮にあげるんじゃない。私の事業よ」
「だったら、どうして家族に隠すの!」
義父は黙ったままだった。
ただ、車椅子の肘掛けを握る手に力が入り、顔色が悪くなっていく。
会議室が少し静かになったところで、俺は口を開いた。
「今日、お二人に来てもらったのは、美咲を説得してもらうためじゃありません」
全員の視線が集まる。
「東口のマンション全体に抵当権を設定することには同意しません。銀行にも、その意思を正式に伝えます。その後は弁護士に相談して、離婚、財産分与、不貞の証拠、必要なら財産保全についても進めます。ほかにも資産を動かしているなら、それも確認します」
義母の顔色が変わった。
「直人、少し落ち着いて話しましょう。まだ離婚まで決める必要はないでしょう?」
「決めています」
美咲へ向き直る。
「もう一台のスマートフォンを出してくれ」
美咲が顔を上げた。
「何のこと?」
「今使ってるスマートフォンはきれいすぎる。蓮と本当に連絡を取ってる端末は別にあるだろ」
7
長い沈黙が続いた。
やがて美咲が俺を睨んだ。
「ずっと私を調べてたってこと? 車の位置も見てたの?」
「車は俺名義だ。メーカーのアプリも前から俺のアカウントに繋がってる」
「妊娠中の妻の行動をずっと監視して、気持ち悪いと思わないの?」
数秒、美咲を見返した。
「俺が名古屋へ行くって嘘をつかせたのか? 俺が蓮とホテルへ入れと言ったのか? それとも、俺たちのマンションを担保にして、二人の会社へ金を入れろと頼んだのか?」
美咲は何も返せなかった。
時間だけが過ぎていく。
蓮は来なかった。
もう待つ意味はないと立ち上がりかけたところで、美咲がもう一度電話をかけた。
今度はスピーカーにしていなかったが、すぐ近くに座っていたので、向こうの声は聞こえた。
「美咲さん、俺、本当に今手が離せないんだよ。夫婦の話に俺が行くのはおかしいだろ」
美咲がスマートフォンを強く握る。
「何があっても一緒にいるって言ったじゃない」
「一緒にいるって言っただけで、離婚の話し合いまで付き合うとは言ってない」
通話が切れた。
美咲はしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。
その時になって、ようやく分かったのだろう。
蓮が来ないのは、俺が怖いからではない。
責任を負いたくないだけだ。
かなり時間が経ってから、美咲が俺を見た。
「話し合おう。これ以上大きくしないでくれるなら、ほかのことは全部相談するから」
義母もすぐ続いた。
「そうよ。あなたたち、長い間一緒にいたんでしょう。子どもだってもうすぐ生まれるんだから。まずは事実を整理して、それから考えればいいじゃない」
俺は頷いた。
「話し合いならできます」
何人かが明らかに安堵した。
続ける。
「まず、蓮へ渡した金を全部出してくれ。もう一台のスマートフォンと、俺の知らない口座も」
美咲の顔色がまた変わる。
義母もすぐに気づいた。
「本当に別のスマホがあるの?」
美咲は黙り続けた。
義父が車椅子の肘掛けを強く叩いた。
それでようやく、美咲がうつむく。
「車のラゲッジルーム……床下の収納スペース」
亮介が車のキーを持って出ていき、義母もついていった。
会議室には俺たち数人だけが残った。
誰も話さない。
数分後、ドアが開いた。
亮介が黒いスマートフォンと茶封筒を持って戻ってくる。
「これだ」
封筒の中には、ネット銀行関係の書類、新会社の定款案や株主関係の資料、会社設立に使った印鑑登録証明書のコピーなどが入っていた。
スマートフォンを美咲の前へ置く。
「ロックを開けて」
美咲は動かなかった。
義父が目を閉じた。
「開けなさい」
美咲はとうとう暗証番号を入力した。
ホーム画面には、LINE、ネット銀行のアプリ、写真アプリだけが並んでいた。
8
LINEの連絡先は、ほとんど一人だけだった。
表示名は「蓮」。
ネット銀行のアプリを開くと、俺が知らない口座が出てきた。ログイン用の暗証番号には、蓮の誕生日を使っていた。
美咲は蓮と連絡を取るためだけに端末を買い、車の床下へ隠していたらしい。
銀行アプリの明細とLINEのやり取りを照らし合わせていく。
数万円。
十数万円。
数十万円。
送金した直後のLINEには、こんな文章が並んでいた。
「服代。好きなの買ってね」
「今月の家賃」
「いつもお疲れさま」
さらに下へ進むと、二百万円を超える車の購入費、高層マンションの家賃、新店の内装や設備に使った金まで出てきた。
別の日には三十万円を振り込み、その直後に、
「お母さんへの挨拶代。これで何か買ってあげて」
と送っている。
義母は隣で立ち尽くし、見る見る顔色を悪くしていった。
さらに履歴を遡ると、音声メッセージが出てきた。
再生する。
最初に蓮の声が流れた。
「母親がさ、いつ帰ってくるんだってずっと聞いてる。美咲に会いたいって」
続いて美咲。
「二号店の融資が下りたら、ゴールデンウィークに一緒に行く。今後のことも、その時にちゃんと話そう」
蓮が聞く。
「子どもはどうする? 直人さん、疑わないの?」
美咲が小さく笑った。
「今のところ、自分の子じゃないかもなんて思ってないよ。うちの父が倒れてから、食事もリハビリも店も、ほとんど直人がやってくれたでしょう。あの人、結局は情に弱いから。母が少し間に入れば、最後は受け入れると思う」
「じゃあ、その子は誰を父親だと思って育つんだ?」
「最初は直人に任せればいい。融資が下りて、東京でも新しい店を軌道に乗せてから、その先を考えればいいよ」
会議室の中で、誰一人として口を開かなかった。
俺はスマートフォンを握ったまま、指先に力が入るのを止められなかった。
今までの疑いに、全部答えが出た。
俺は会社を辞めた。
姓を変えた。
小野寺家の豆腐店を引き継ぎ、義父の介護までしてきた。
その一方で美咲は、俺と共有するマンションを担保に融資を受け、蓮との新会社へ金を入れ、さらに俺へ別の男の子どもを育てさせようとしていた。
突然、義父が激しく咳き込んだ。
呼吸が少し落ち着いたあと、義父は腕を上げ、美咲の頬を叩いた。
片側の身体が思うように動かないため、強い一撃ではなかった。
それでも美咲は、その場に崩れるように膝をついた。
「お父さん……」
義父は娘を見た。
「出ていけ」
少し間を置き、もう一度口を開く。
「お前を、娘だとは思えない」
その日、警察へ通報することはしなかった。
翌日、すぐに弁護士事務所へ行った。
弁護士は、まず問題をいくつかに分けた。
東口のマンションは俺と美咲の共有不動産であり、マンション全体へ美咲の思惑通り抵当権を設定するには、俺の協力が必要になる。まず銀行へ、俺は担保設定に同意しない旨を明確に通知することになった。
同時に、家庭裁判所への離婚調停、不貞慰謝料、財産分与、必要に応じた財産保全について資料を整理する。
美咲から蓮や新会社へ流れた金についても、すべて一括で「夫の金だから返せ」と請求できるわけではない。
旅行や宿泊など二人で使った金。
新会社への立替金。
貸金とみられるもの。
まだ蓮側で管理されている金。
弁護士は一件ずつ性質を分けた。
そのうえで、蓮が美咲の婚姻関係を知りながら不貞関係を続けていた証拠も保存した。
法律のことは分からない。
だから、専門家の言う通りに一つずつ進めた。
三千万円の融資は止まった。
東口のマンションを予定通り担保にできなくなり、新会社の資金計画にも一気に穴が開いた。
弁護士も、請求可能な金銭や不貞行為について民事上の手続きを進め始めた。
美咲は完全に慌てた。
「話し合えるって言ったじゃない」
「もちろん、話し合いはできる」
美咲を見る。
「まず外へ出した金と会社の帳簿を全部整理する。それからだ」
しばらくすると、蓮のもとにも弁護士から通知が届いた。
初めて向こうから電話をしてきた時、俺は豆腐店の奥で、従業員が大豆の袋を運び込むのを見ていた。
「小野寺さん、美咲さんからもらった金は、全部本人が自分から出したものですよ。何でもかんでも俺に請求するのはおかしいでしょう」
「返す必要がある金かどうかは、弁護士と裁判所が判断する」
「本当にここまでやるんですか?」
「ここまでやったのは、そっちだろ」
電話の向こうが黙った。
俺は続けた。
「ホテル、旅行、新会社、送金。持ってる資料は全部出せばいい。多ければ多いほど助かる」
そう言って電話を切った。
蓮が簡単に金を返すとは思っていなかった。
だからこそ、金の一部が二人の共同消費だったと主張するなら、ホテルの予約記録、旅行の履歴、買い物の領収書、そしてLINEのやり取りを自分から出さなければならなくなる。
俺が待っていたのは、まさにそれだった。
9
美咲と再び顔を合わせたのは、七か月後だった。
出産からまだそれほど経っておらず、妊娠前よりずっと痩せて見えた。病院の廊下では、義母が赤ん坊を抱いて美咲の後ろに立っていた。
俺を見ると、義母は赤ん坊を抱き直した。
「子どもは生まれたわ。大人同士のことは、この先いくらでも話し合える。でも、この子には何の罪もないでしょう」
赤ん坊を見る。
「まずDNA鑑定をします」
義母の顔色が変わる。
「そこまでする必要があるの? だって法律上は……」
「法律上の問題があるからこそ、早くはっきりさせます」
子どもが生まれた時点では、美咲との婚姻関係はまだ法的に終了していなかった。
弁護士からも事前に説明を受けていた。
私人間で行ったDNA鑑定で生物学的な親子関係が否定されたからといって、それだけで戸籍上の父子関係まで自動的に消えるわけではない。
該当するなら、家庭裁判所で嫡出否認の手続きを取る必要がある。
美咲がようやく俺を見た。
「そこまでするってことは、最初から私を信じ直す気なんてなかったんだね」
少し笑った。
「今さら、何を信じればいいんだ?」
三日後、DNA鑑定の結果が出た。
俺とその子の間に、生物学上の父子関係は認められなかった。
弁護士を通じ、家庭裁判所で嫡出否認の調停手続きも進めることになった。
結果を見ても、想像していたほど怒りは湧かなかった。
むしろ、ずっと肩に乗っていた最後の重石が、ようやく外れた気がした。
離婚調停では合意に至らず、その後は離婚訴訟へ進んだ。不貞慰謝料や、蓮との間にある金銭問題についても、別途手続きが続いた。
証拠を提出する段階になると、予想通り蓮は大量の資料を出してきた。
ホテルの予約記録。
箱根の温泉旅館。
新幹線の利用履歴。
高級ブランド品の購入記録。
レンタカー。
二人で撮った写真。
そしてLINEのスクリーンショット。
蓮としては、美咲から受け取った金のかなりの部分は二人で一緒に使ったもので、自分だけが取得したわけではないと主張したかったのだろう。
だが、その資料は同時に、二人の関係を余すところなく表に出した。
俺が午前三時から豆を挽いていた頃、二人は箱根の温泉にいた。
俺が義父をリハビリへ連れていった日、美咲は東京で蓮の車を見ていた。
俺が妊娠中の食事を用意していた夜、二人はホテルで、二号店と三千万円の融資、そしてどうやって俺に東口のマンションへの抵当権設定を認めさせるか話していた。
LINEの中で、蓮は俺を「豆腐屋」と呼んでいた。
美咲は俺を「情に弱い」と笑っていた。
子どもが生まれる前ですら、「とりあえず直人に自分の子だと思わせておけば、融資が下りるまで時間を稼げる」と話していた。
最終的に、金銭はそれぞれの性質ごとに判断された。
二人が旅行や宿泊などですでに共同消費した金が、不倫だったという理由だけですべて返還対象になるわけではない。
一方で、貸金や会社への立替金など、法的な返還根拠が認められるものについては、相応の請求が認められた。
そして何より、長期間にわたる不貞行為そのものが慰謝料請求の重要な根拠になった。
美咲が婚外関係を続けながら資金の流れを隠し、俺の知らないところで共有不動産を新規事業の担保に利用しようとしていたことも、離婚と財産分与を進めるうえで重要な事情となった。
ある日の手続きが終わったあと、美咲が裁判所の外で蓮を追いかけた。
俺はもう帰ろうとしていたが、後ろから声が聞こえた。
「子どもはあなたの子でしょ。何もかも知らないふりなんてできないから」
蓮の顔が一瞬で険しくなった。
「まず俺の子だって証明してよ」
美咲が固まる。
「何言ってるの?」
「直人さんのDNA鑑定で分かったのは、直人さんの子じゃないってことだけだろ。だからって、自動的に俺の子になるわけじゃない。結果もないのに押しつけないでくれ」
美咲はその場から動かなかった。
蓮は続けた。
「俺たちの金の話は弁護士を通す。子どものことも、必要なら鑑定してからだ」
それだけ言い残し、背を向けた。
その時、美咲もようやく分かったのだと思う。
あの男は、美咲がすべてを失った時に受け止めるつもりなど、最初からなかった。
10
離婚がすべて終わったあと、東口のマンションについては、俺の共有持分に関する権利を守ることができた。
豆腐店のうち、もともと義父が所有していた資産は義父のものとして扱われた。一方、俺が長年投入してきた設備や、婚姻期間中の収入から形成された財産については、弁護士が整理した資料を基にそれぞれ処理された。
小野寺家のものを全部手に入れたわけではない。
そんなつもりもなかった。
自分が積み上げた分を、自分の手元へ戻しただけだ。
そして、美咲との離婚が成立しても、俺と義父母との養子縁組は別の法律関係だった。
義父は離縁を求めなかった。
俺も、小野寺家から逃げるつもりはなかった。
義父はただ一度、
「店は、これまで通り直人に任せる」
と言った。
それだけで十分だった。
一方、美咲のサロンは持ちこたえられなかった。
二号店の三千万円の融資は完全に頓挫し、新会社も資金をめぐる争いに巻き込まれた。既存のサロンも拡張準備に先行投資しすぎていたため、仕入先への支払いが重くなり、従業員も一人、また一人と辞めていった。
最後には閉店した。
ホテルでの一件以降、義父は美咲へ自分から連絡しなくなった。
義母は最初のうち、こっそり生活費を渡していたらしい。
ところが、美咲がアクセサリーを売った金まで蓮の自動車ローンや昔の支払いに回していると知り、とうとう義母まで手を引いた。
蓮の方も無傷では済まなかった。
返還すべき金をめぐる問題に加え、不貞慰謝料、新会社の債務処理まで抱えることになった。
美咲は、それらすべてが蓮のせいだと思うようになった。
以前はあれほど親密だった二人が、顔を合わせれば金のことで争うようになるまで、それほど時間はかからなかった。
ある日、美咲は赤ん坊を抱いて、蓮の借りているマンションまで押しかけた。
「元は私が出したお金でしょう。今は私までこんなに負担させられてるんだから、せめて車と残ってるお金くらい返してよ」
蓮はソファに座ったまま、不機嫌そうに顔を上げた。
「一緒に使った金まで俺一人のせいにするなよ。ホテルも旅行も美咲だって一緒だっただろ。車だって乗ってた。なんで問題が起きた途端、全部俺が払う話になるんだよ」
「車はあなた名義でしょう! マンションの家賃だって私が出してた!」
「それは美咲が自分でやったことだろ」
美咲は蓮の頬を叩いた。
「私に食べさせてもらって、家賃も車も出してもらって、それでよくそんなことが言えるね」
顔を横に向けた蓮も、とうとう取り繕うのをやめた。
「本気で、俺が愛だけで付き合ってたと思ってる? 再開発で入った資産も、サロンも、融資に使えるマンションも何もなかったら、そもそも知り合っても興味なんて持ってないよ」
口論は、すぐに押し合いになった。
赤ん坊がそばで泣き続け、騒ぎを聞いた隣人が警察へ通報した。駆けつけた警察官は二人を引き離し、それぞれから事情を聴くことになった。
かつて二人はホテルの部屋で、どうやって俺を切り捨てるか相談していた。
最後には、金と責任をめぐって警察の前で互いを責め合っていた。
あれほど口にしていた愛情は、もうどこにもない。
残ったのは、金と恨みと、片づけきれない問題だけだった。
一か月後、美咲が赤ん坊を抱いて豆腐店へやってきた。
朝六時。
店の前には、近所の常連客が何人も並んでいた。奥では出来上がったばかりの豆乳から湯気が上がり、店じゅうに慣れ親しんだ大豆の匂いが漂っている。
美咲は入口の外でしばらく立っていた。
やがて、小さく俺の名前を呼ぶ。
「直人」
俺は客の容器へ豆乳を注いだまま、手を止めなかった。
「何?」
「この子には、父親が必要なの」
客へ豆乳を渡し、代金を受け取る。
「だったら本当の父親を確かめて、必要な手続きをすればいい」
美咲が袖をつかんだ。
「うちのお父さんのこと、あれだけ長い間面倒を見てくれたでしょう。子ども一人くらい……直人なら育てられるじゃない」
その手を静かに外した。
「俺が義父の面倒を見たのは、あの人がそれに値する人だったからだ。俺を家族として扱ってくれたし、俺がこの家のためにやってきたことも認めてくれた」
美咲の腕の中にいる、小さな赤ん坊を見る。
この子に罪はない。
もちろん、何も悪くない。
だが、子どもが無実だからといって、別の何もしていない人間が、誰かの選択の責任を背負わなければならない理由にはならない。
美咲が俺を見つめた。
「直人、昔から子どもが好きだったじゃない」
「子どもは好きだよ」
少し間を置いた。
「でも、君たちが選んだことの責任まで、俺が引き受けるつもりはない」
それだけ言って、作業場へ戻った。
木の扉が背後で閉じると、外の声は急に遠くなった。
鍋の中では、ちょうど豆乳がふつふつと沸き始めている。長い柄の道具を手に取り、表面に浮いた泡をゆっくり取り除いた。
この十数年、何度繰り返したか分からない朝と、同じ動きだった。
昔から、俺は小野寺家の土地のおかげで暮らせていると言う人がいた。
けれど、最後まで来てようやく分かった。
不動産の価値は変わる。
補償金は使えばなくなる。
誰かから与えられた体面など、相手の都合一つで簡単に奪われる。
それでも俺の手に残っているものがある。
午前三時に起きて作り続けた豆腐。
自分の足で回って増やした取引先。
何年もかけて積み重ねた、この店の信用。
これから先、この店をどうしていくかは俺が決める。
俺の人生も、同じだ。




