嵐の余波
海で、息をする。五話です!今回は海賊のボスといきなり戦います!
女の声が、低く、重く、俺の耳を切り裂いた。
「……なんだ? お前は……」
水中の声は空気のそれとは違う。波打つように届くのではなく、周囲の水圧そのものが変わる感じだ。言葉が胸に当たって、俺の肋をぎゅっと押しつぶす。まるで海自体が俺を見下ろしているような錯覚に囚われた。
その声が発せられた方向を見ると、岩肌が剥き出しになった海底の断崖が背景になっていた。そこに女が立っている――いや、立っているように見えるだけだ。重厚に見える装備のせいで、普通の人間なら動くのを躊躇うような姿勢で、彼女はまるでそこが自分の庭先であるかのように構えている。
濃い赤毛が水流にたなびき、鋭い瞳が俺を射抜く。肩に担いだ大剣は異様な存在感を放ち、刃が水を引き裂くたびに鈍い振動が全身に伝わる。後ろには、さっきまでレヴィアタンと揉まれていた海賊たちが寄り集まっている。彼らの顔には、ほっとした気持ちと興奮が混ざっていた。誰かが甲高く叫ぶ。
「姉貴!!」
その呼び名だけで役割が分かる。あの声の主がこの集団の中心であり、彼らにとっての“守り”であり“規律”であることが透けて見える。俺は息を呑んだ。けれど、ここで後ずさるわけにはいかない。
腕の筋肉が久しぶりに緊張するのを感じる。左手で剣の柄を確かめ、震えを押し殺して前へ出た。胸の奥で小さく鼓動が鳴る。叫びたい気分と、怖さと、焦りがぐちゃ混ぜになる。だが一つだけ確かなのは、ここで立ち止まることは村の誰かの命を諦めることに繋がるということだ。
「俺は、TWCの潮斗だ」
声を出すと、腹の底から冷たい何かが吹き上がる。声は震えたかもしれない。だけど、言葉を出し切ることで心の中の動揺が少しだけ整理されるのを感じた。呼吸を整え、視線を真っ直ぐにブリギットに向ける。
「お前らが奪った物を、取り返しに来た」
言い切ったあと、頭の中で小さな虫が囁く。「無茶だ」と。けれど、もう戻れない。胸の内の正義感だの誇りだの、そんな軽いものがここにある。たとえそれが不完全だとしても、動くしかなかった。
女が、口を大きく開けて笑った。笑いが水中を震わせ、まるで潮の底が爆ぜるような衝動が俺の周囲に広がる。笑い声は言葉じゃない暴力だった。海賊たちもそれに続き、あちこちで豪快な嗤い声が上がる。嘲りの渦だ。だが、その嘲りは単純な侮蔑より、どこか人を茶化す優しさに近い。怖さと滑稽さが同居する不思議な空気。
「ハハハ! 面白ぇ奴だな! まるで漫画の主人公みてぇだ!」
ブリギットの笑いは止まらない。笑いの合間に大剣を前に倒し、刃先を海底に突き刺すと、その動作だけで鈍い振動が広がった。水はその振動を伝え、筋肉の奥まで届く。こいつはただ強いだけの人間じゃない、という直感が背筋を冷たくした。
「そっちが堂々と名乗ったんなら、こっちも礼儀だ」
彼女は胸を張って名乗る。声は堂々として、海中での響きも太い。
「うちの名はブリギット。アイザーン・ヴァースト海賊団のリーダーだ」
その名が海の中で降り積もる。アイザーン・ヴァースト――何処かで見聞きした断片が脳裏をかすめるが、今それを確かめる余裕はない。
「で? うちらが奪った物を取り返しに来たって? それもガキ単騎でか? 笑わせてくれるね!」
ブリギットは鼻で笑い、刃を抜く。彼女の動きは軽快で無駄がない。大剣なのに、その扱いは流れるようだ。片手で扱っているのにも驚くが、それ以上にその一振りがどれだけ危険か――直感がそれを教える。
「構えな」
短い合図に、空気が張り詰める。海中の音は一気に細くなる。俺は柄を握りしめ、身体に入る緊張を受け止める。水の揺らぎ、遠くで小さな物音がする。すべてが、刃に合わせて整列しているようだった。
「うちを倒せたら、全部返してやる」
その言葉は餌のように響く。全部返す――言葉の魅力は強い。だがすぐに続けた。
「だが、負けたらお前は“正義感だけのただのバカ”だ」
その一撃は、言葉の刃よりも鋭くて、胸に突き刺さる。笑いながらの侮蔑だ。俺は無意識に歯を食いしばる。頭の中で小さな反論が湧く。「正義感だけじゃねぇ……」と言いたい。だが、今は言葉より行動だ。
ブリギットの足が、海底を踏む。そこに発生する波紋が、俺の感覚を揺らす。彼女が踏み込むごとに水が圧縮され、俺の体が軽く押し返される。動き出す前の一瞬、助走のようなものが見えた。俺は覚悟を固め、剣を上げた。
(……女、か)
考えた瞬間、すぐに自分で打ち消す。
(差別するつもりはない。だが……)
体格差は、確実にある。俺の方が軽い。動ける。力勝負になっても――
(負けるはずがない)
その判断が、どれだけ甘かったかを知るのに、時間はかからなかった。ぶつかった瞬間、全てが圧縮された。金属と金属がぶつかる音は、水中では低い爆発音となり、振動が肩から腰、足先まで伝播する。俺はその反動で体ごと数メートル後方に飛ばされ、海底の岩にぶつかって息が抜ける。頭がクラクラして、体が砂と石に擦れる。立ち上がろうとするが、足が言うことを聞かない。ブリギットはもう次の位置にいる。
彼女の一撃は「力」だけではない。重さと速さ、そして“止めどころ”が違う。俺の剣の切っ先は彼女の刃に弾かれ、ぐにゃりと軌道を逸れていく。振り上げたはずの剣が、遠くの砂地に刺さるのが見えた。周りの海賊の歓声が、嘲笑と驚愕を混ぜて上がる。
「……なんだ、その程度か」
ブリギットの声が、冷たく響く。やはり、簡単には済まされない。俺は泥の中から手を引き上げ、血のにじむような感覚を腕に覚える。悔しさが胸いっぱいに広がる。「まだだ」と、震える声で叫んだ。
全てを投げ出すように突進した。タックルだ。剣は置いて、全身で相手にぶつかる。だが、その瞬間、俺は違和感とともに身体が止められるのを感じた。衝突しそうになった相手の膝はまるで岩のように固く、俺の勢いが吸収されて跳ね返される。ブリギットは微動だにせず、俺を受け止めていた。
(なんだこれ?壁?)
思わずそんな言葉が頭をよぎる。硬い、というより“揺るがない”。俺はその場でふらつき、遠くへ吹き飛ばされる。剣を奪われたまま、足元がふらついて再び立とうとする。肩と背中に衝撃が残り、息が喉に引っかかる。
「まだ……まだだ……!」
必死に立ち上がり、息を整える。だが、冷静さを取り戻した瞬間に、ブリギットの目がこちらを見据えているのに気づく。そこにあったのは冷たい好奇心と、ある種の軽蔑だ。
「理由が足りねぇ」
その一言が、突き刺さった。胸に、重い鉛を投げ込まれたように苦しい。俺は息を詰めて、思いを言葉にする。
「俺は……勝たなきゃ……あの荷物を取り返して、村の人たちを……」
言い終わると、胸の奥が燃えるように熱くなる。だけど、ブリギットは鼻で笑った。
「……だから、なんだ?」
声に、冷たさがある。「都会の子」扱いだ。俺の心は針で刺された。無条件に反発が湧く。しかし、その反発の裏で、彼女の言うことの一端が、頭に引っかかる。彼女は続ける。
「外は弱肉強食だ。奪われるなら、奪うしかねぇ。そうやって、ここで生きてんだ」
その言葉は、リンネットが俺に教えてくれた話と重なる。資源の偏在、法の届かないアトランティスの外、生存をかけた奪い合い。ブリギットは侮蔑ではなく事実を言っている。俺は、自分が短絡的だったことを咎められるように胸が縮む。
「今のお前には戦う理由がガキみてぇに単純だ。複雑な背景を知りな。正義感だけのただのバカ!」
ブリギットは最後の一言を放ち、小型船の群れに合図を送ると、仲間たちは素早く動き出した。水流を切り裂き、彼らは去っていく。女は振り返りもせず、ただ海の中へと滑るように泳ぎ去った。その背中が、小さく遠くなる。悔しさと自己嫌悪と失望が一気に襲う。
残されたのは、俺と、取り返せなかった箱と、そして砕けた自尊心だけだった。砂地に座り込んで手の平を泥で汚し、俺はただその場に立ち尽くす。海の音がいつもより静かに聞こえる。ブリギットの足跡が消えた水流の先に、何か大きな壁があることを知る。それは力の壁でもあり、知識の壁でもある。
背後から伝わってきたのは、急速に近づく車の振動だった。二台の車が列になってこちらへ迫る。先頭の車には坂本一等兵とダニエル三等兵。後ろの車には松田とクロエが座っている。どの車も低いうなりを立てて狭い水路を切り進むように来て、止まると同時に余波で砂が舞った。
坂本は車から飛び降りると、一直線にこちらへ詰め寄ってきた。彼の顔に浮かぶのは単なる怒りではなく、仲間を守る責任の重みと、今の行為が招いた危険性への憂慮だ。
「潮斗! 何を考えてるんだ! 命令は“護衛”だ! 単独追撃なんて許可されてない!」
水中でもその言葉は鋭く胸に刺さった。反射的に頭を下げるしかできない。
「……すみません」
言葉は軽く、水に溶けていった。謝罪で済む問題ではない――その自覚が、ゆっくりと押し寄せる。
松田は視線を逸らし、クロエは唇を噛んでいる。ダニエルは何か言いたげに口を開きかけてすぐに飲み込み、皆それぞれに言葉を失っていた。坂本は短く息を吐き、低く言った。
「医療品は奪われた。だが、お前が無事で戻ったことだけが救いだ。これ以上追うのは無理だ。帰るぞ」
彼の言葉に、誰も反論しなかった。判断は冷静で厳しい。俺たちは再び車に乗りこみ、二台でアトランティスへと戻り始める。エンジンは低く唸り、水の流れが背中にまとわりつく感覚が続いた。
基地到着後の報告は事務的に進んだ。状況説明、被害状況、証拠提出――淡々とした手続きのなかで、俺はただ黙って聞くだけだった。だが、廊下の隅で呼ばれたとき、腰の奥がまた冷たくなった。
「潮斗くん」
リンネットだ。彼女の顔は普段の柔らかさを失っている。怒りというより、母が子に危険を知らせるときの厳しさがある。俺は無言で付いていく。人気の少ない通路の一角、微かな水の流れが壁紙のように揺れている場所だ。
リンネットは静かに、しかし言葉に一本芯を入れて言った。
「相手がもし、容赦の無い海賊だったら。潮斗くん、あなた死んでたよ」
その一言の重さに、俺は息を飲む。彼女は怒鳴るのではなく、母親が危ないことをした我が子を叱るように、じっとこちらを見据えている。叱責には憤りだけでなく、深い悲しみと恐れが含まれていた。
「命令を無視して単独で突っ込む。どれだけ危険か分かってる?」
「……分かってる、つもりでした」声が小さくなる。『つもり』――その言葉の空しさが、胸を締め付ける。
「“つもり”じゃだめなんだよ」リンネットの声に小さな震えが混じる。彼女は続ける。「潮斗くんがここで死んでいたら、誰が悲しむ? 仲間も私も、そして何より潮斗くん自身だって後悔しか残らない」
その言葉が心を抉る。責めるんじゃない――それが厳しさの核だ。俺はただうなだれて謝ることしかできなかった。
「今回はね」リンネットは深く息をつき、声のトーンをわずかに変えた。「私が本部に行って事情を説明してきた」
驚きで顔が強ばる。彼女が行動を起こしたという事実は、救いと同時に恥だった。自分が招いた事態を、先輩が取り繕ってくれるのだ。
「正式な処分は見送られることになったよ」リンネットは淡々と言った。だがその言葉には覚悟がある。「坂本も言ってた。“生きて戻ったこと自体が罰だ”ってね」
救われた。だけど救いは同時に重い。生きて戻れたのは運とリンネットの力添えによるものだ。俺は胸の内で申し訳なさに震えた。
「次は、必ず命令を最優先すること。守れないなら、前線に立たせられないよ」
リンネットは肩に軽く手を置いた。叱咤と同時に、まだ見捨てないという意思の表れだ。俺は力なく頷く。
「生きててよかった。それだけは、忘れないで」彼女の声は柔らかく、それが刺さるように暖かかった。
自分の部屋に戻ると、海中の灯りが窓越しにゆらりと差し込む。車輪の振動が遠ざかっていく余韻だけが、静かに残る。ベッドに倒れ込むと、全身から力が抜けた。戦いの余波として体内に残った痛みが、肌の奥に微かにざわめく。心臓の鼓動が骨に伝わって、じくじくと痛い。
「……くそ」
拳を握りしめる。悔しさと自己嫌悪が渦巻く。守りたかった。助けたかった。だが結果は、何も返ってこない。勢いだけで飛び出した己の浅はかさを、殺したいほど恨む。
目の前に浮かぶのは、ブリギットの背中とあの圧倒的な一撃だ。彼女の言葉――「外は弱肉強食だ」――が何度も反芻される。知識が足りない。理由を知らずに飛び込んだ愚かさ。力も、技術も、背景の理解も足りない。
小さく呟いた。声は海中に溶けていく。
「……強くならなきゃ」
その決意は、薄くとも確かだった。次に会うときは、今とは違う自分でいる。刃を研ぎ、情報を集め、力だけでなく頭も使う。そう自分に誓って、俺は目を閉じた。
海で、息をする。五話はどうでしたか?もし面白いと感じたら感想と評価をいただけると励みになります!
次回はまだ考えていませんが、主人公が成長する所が見られると思います!ヨンデクレルヒトガフエテテウレシイナ




