第9話 それでも、少しだけ
朝、目を覚ましたとき、
私は自分でも意外なほど、穏やかな気分だった。
昨日の会話を、
何度も思い返したわけではない。
けれど、
胸の奥に残っている温度が、
消えずにあった。
――言葉にしない約束。
それが、
こんなにも安心をもたらすとは思わなかった。
午前中は、
屋敷の書庫で過ごした。
古い本を手に取り、
頁をめくる。
内容に集中しているようで、
ときどき、思考が別のところへ流れる。
距離を取ると決めた。
今も、その考えは変わっていない。
誰かと並び立つ未来を、
想像しないと決めた。
それなのに――
「……このままでも、いいのかしら」
独り言は、
問いというより、確認に近かった。
昼食のあと、
母が何気なく言った。
「最近、顔色がいいわね」
「そうでしょうか」
「ええ」
母は、それだけ言って、
紅茶を注いだ。
理由も、
確認も、
求めてこない。
「……お母様」
「なに?」
「私、
何か変わりましたか」
母は、少し考えてから、
カップを置いた。
「変わったというより」
「……というより?」
「戻ったのよ」
それだけ言って、
母は席を立った。
戻った。
どこへ、とは、
聞けなかった。
午後、
庭を歩く。
整えられた小径。
白百合の香り。
足を止めた場所で、
私はふと考えた。
もし――
この静かな日々が、
少しだけ続いたら。
もし――
その中に、
あの人が「いる」だけだったら。
近づかなくてもいい。
約束がなくてもいい。
ただ、
離れずに。
「……それくらいなら」
思わず、
そんな言葉が、口をついて出た。
望み、と呼ぶには、
あまりにも小さい。
けれど、
確かに存在する。
そのとき、
背後から足音がした。
振り返ると、
エドワード様が、少し離れた場所に立っていた。
「驚かせてしまいましたか」
「いいえ」
本当だった。
彼の存在は、
私を緊張させない。
「少し、父に用がありまして」
「そうですか」
それだけの会話。
彼は、私の隣に来なかった。
けれど、
同じ景色を見ていた。
「今日は、風が穏やかですね」
彼が言う。
「ええ」
沈黙。
それでも、
空気は満ちている。
「……あの」
私が声を出すと、
彼は、すぐにこちらを見た。
「はい」
急かさない視線。
――何を言うつもりだろう。
自分でも、
分かっていなかった。
これまで、
私が口を開くのは、
いつも答えるときだった。
聞かれたから、答える。
それだけだった。
自分から何かを渡したことは、
一度もない。
「……今の距離は」
声が、
思っていたより小さかった。
「私にとって、
とても楽です」
言ってしまってから、
少しだけ、後悔した。
余計なことを、
言ったかもしれない。
彼は、
すぐには答えなかった。
ただ、
白百合のほうを見たまま、
一度、頷いた。
「……はい」
それだけだった。
安堵も、
喜びも、
言葉にはしない。
けれど、
その「はい」は、
私が渡したものを、
確かに受け取った音がした。
夜、自室で灯りを落とす。
今日、私は――
初めて、
「このままが続けばいい」と思った。
それは、
未来を望んだわけではない。
ただ、
今日の延長を、
少しだけ。
距離を取る選択は、
まだ変わらない。
けれど。
「……渡した」
呟いてから、
その言葉の妙さに気づく。
私は、
何を渡したのだろう。
距離が楽だと、
そう言っただけなのに。
なぜ「渡した」と、
思ったのだろう。
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