第9話 それでも、少しだけ
朝、目を覚ましたとき、
私は自分でも意外なほど、穏やかな気分だった。
昨日の会話を、
何度も思い返したわけではない。
けれど、
胸の奥に残っている温度が、
消えずにあった。
――言葉にしない約束。
それが、
こんなにも安心をもたらすとは思わなかった。
午前中は、
屋敷の書庫で過ごした。
古い本を手に取り、
頁をめくる。
内容に集中しているようで、
ときどき、思考が別のところへ流れる。
距離を取ると決めた。
今も、その考えは変わっていない。
誰かと並び立つ未来を、
想像しないと決めた。
それなのに――
「……このままでも、いいのかしら」
独り言は、
問いというより、確認に近かった。
昼食のあと、
母が何気なく言った。
「最近、顔色がいいわね」
「そうでしょうか」
「ええ。
無理をしていない顔」
その言葉に、
私は小さく息を吐いた。
無理をしていない。
それは、
何よりの肯定だった。
「今の暮らし、
気に入っているの?」
母の問いは、
答えを急がせるものではなかった。
「……静かで、
過ごしやすいです」
それは、
本心だった。
母は、それ以上聞かなかった。
午後、
庭を歩く。
整えられた小径。
白百合の香り。
足を止めた場所で、
私はふと考えた。
もし――
この静かな日々が、
少しだけ続いたら。
もし――
その中に、
あの人が「いる」だけだったら。
近づかなくてもいい。
約束がなくてもいい。
ただ、
離れずに。
「……それくらいなら」
思わず、
そんな言葉が、口をついて出た。
望み、と呼ぶには、
あまりにも小さい。
けれど、
確かに存在する。
そのとき、
背後から足音がした。
振り返ると、
エドワード様が、少し離れた場所に立っていた。
「驚かせてしまいましたか」
「いいえ」
本当だった。
彼の存在は、
私を緊張させない。
「少し、父に用がありまして」
「そうですか」
それだけの会話。
彼は、私の隣に来なかった。
けれど、
同じ景色を見ていた。
「今日は、風が穏やかですね」
彼が言う。
「ええ」
沈黙。
それでも、
空気は満ちている。
「……あの」
私が声を出すと、
彼は、すぐにこちらを見た。
「はい」
急かさない視線。
私は、一瞬だけ迷ってから言った。
「今の距離は、
私にとって、
とても楽です」
それ以上は、言わなかった。
けれど、
それだけで、十分だった。
「それなら、よかった」
彼は、静かに答えた。
夜、自室で灯りを落とす。
今日、私は――
初めて、
「このままが続けばいい」と思った。
それは、
未来を望んだわけではない。
ただ、
今日の延長を、
少しだけ。
距離を取る選択は、
まだ変わらない。
けれど、
距離の中に、
誰かがいることを、
拒まなくなっている。
その事実に気づいて、
私は、静かに目を閉じた。
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