第36話 重心の移動
朝の空気は、
少しだけ冷たかった。
季節が変わるほどではない。
けれど、
確かに昨日とは違う。
私は、窓を開けたまま、
しばらく外を眺めていた。
風が、
室内を通り抜けていく。
「……変わったのは、
天気ではありませんね」
独り言は、
静かに消えた。
朝食の席で、
父が書類を一枚、私の前に置いた。
「例の件だ」
地方視察で見た施設についての、
簡単な報告書。
私が書いた下書きに、
父の補足が加えられている。
「形にするなら、
お前が中心になっていい」
その言葉は、
許可でも、期待でもない。
“自然な流れ”として
置かれていた。
私は、
一瞬だけ考えてから答えた。
「分かりました」
それだけ。
午前中は、
書斎で過ごした。
制度として何が必要か。
現実的にできることは何か。
数字を追い、
条件を確認する。
以前の私なら、
こういう作業は
誰かの判断を待っていた。
今は違う。
決めるために、
考えている。
昼過ぎ、
庭に出る。
歩き慣れた小径。
けれど、
足取りは以前と少し違う。
私は、
ここを「戻る場所」として
認識している。
中心ではない。
拠点だ。
「こんにちは」
声をかけられ、
振り返る。
エドワード様だった。
「こんにちは」
距離は、
変わらない。
けれど、
私の立ち位置は、
少しだけ違う。
「お忙しそうですね」
「ええ。
少しだけ」
私は、
作業の内容を簡単に話した。
詳細までは言わない。
相談もしない。
報告に近い。
彼は、
それを聞いて頷いた。
「動き始めたのですね」
評価ではない。
確認だ。
「……はい」
私は、
自分でも少し驚くほど
迷いなく答えた。
「やってみようと
思っています」
彼は、
何も言わなかった。
助言もしない。
期待も示さない。
ただ、
受け取った。
「ここを、
離れる時間も増えるかもしれません」
私がそう言うと、
彼はすぐに答えた。
「承知しています」
「それでも、
庭は残ります」
その言葉は、
とても静かだった。
「戻る場所があるなら、
離れることは
問題ではありません」
私は、
その言葉を噛みしめる。
これは、
引き止めではない。
送り出しだ。
夕方、
一人で机に向かう。
書類に目を通しながら、
私は気づいていた。
私の重心は、
もう“関係”の中だけに
置かれていない。
仕事。
判断。
外の世界。
それらが、
私の人生の重さを
分け合っている。
夜、
灯りを落とす前。
私は、
静かに思う。
私は、
誰かの隣に立つことを
選び続けている。
けれど、
人生の中心に
その人だけを置いてはいない。
それは、
冷たさではなく、
成熟だ。
「……これでいい」
小さく呟いて、
目を閉じた。
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