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婚約は破棄されましたが、私は静かに身を引いただけです  作者: リリア・ノワール
第1部 静かに身を引いた日

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30/142

第30話 それでも続く日常

翌朝、

目を覚ましたとき、

胸の奥は静かだった。


昨日の会話が、

余韻として残っている。

けれど、

重さはない。


考え続ける必要も、

答えを探す必要もない。

ただ、

今日が始まる。

身支度を整え、

庭に出る。


朝の空気は澄んでいて、

少し冷たい。

小径を歩く足取りも、

特別ではない。


それが、

今は心地よかった。


「おはようございます」


聞き慣れた声。

振り返ると、

エドワード様が立っていた。


「おはようございます」


昨日と同じ距離。

昨日と同じ調子。

何かが変わったような気もするし、

何も変わっていない気もする。


その曖昧さが、

今の私たちにはちょうどいい。


「今日は、

 特にご予定は?」


「ええ。

 ありません」


「それなら」


彼は、

少しだけ間を置いた。


「庭を、

 一周だけ」


誘いというより、

提案。


「……はい」


私は、

そう答えた。

並んで歩く。

話題は、

とりとめもない。


天気のこと。

最近咲いた花のこと。

本当にどうでもいいこと。

それでも、

沈黙は不安にならない。


昨日、

言葉にしなかった不安は、

今日もそこにある。

けれど、

暴れない。


歩きながら、

私はふと思った。

私たちは、

前に進んでいるのだろうか。

答えは、

分からない。


けれど、

後ろに戻ってもいない。


「……それで、

 いいのかもしれませんね」


小さな声は、

風に溶けた。

庭を一周し、

自然に足を止める。


「今日は、

 静かですね」


私が言うと、

彼は頷いた。


「ええ」


「でも」


私は、

少しだけ考えてから続けた。


「このくらいが、

 ちょうどいいです」


彼は、

一瞬だけ目を細めた。


「私も、

 そう思います」


それだけ。

昼前、

それぞれの用事に戻る。

別れ際も、

特別な言葉はない。


「では」


「ええ」


それで足りた。


午後、

書庫で本を読みながら、

私は今日を振り返っていた。


昨日、

大切なことがあった。

けれど、

今日が特別になったわけではない。


むしろ――

何も起きなかった。

それが、

とても大きなことに思えた。


続いているということは。

何かを積み上げることではなく、

壊さずに、同じ場所に立ち続けることなのかもしれない。


私は、

まだ決めていない。

けれど、

ここにいる。


夕方、

マリアが書庫に来た。


「お嬢様。

 旦那様から、伝言でございます」


「父から?」


「はい。

 明日の朝食は、

 お嬢様とご一緒に、と」


「……珍しいですね」


父と朝食を共にすること自体は、

珍しくない。


けれど、

わざわざ伝言で「一緒に」と言ってくるのは、

初めてだった。


「はい。

 何か、お話があるそうで」


「そう」


私は、

本を閉じた。


「分かりました」


マリアは、

一礼して下がった。

父が、

朝食の席で私に話をする。

婚約のことなら、

先日済んでいる。


では何を。

それが、

どういう種類の話なのか、

私はまだ知らない。


知らないまま、

今日が、静かに終わっていく。

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