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婚約は破棄されましたが、私は静かに身を引いただけです  作者: リリア・ノワール


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第3話 私が知らないところで

朝の光は、以前よりやわらかく感じられた。


そう思ったのは、

気持ちが変わったからではない。

ただ、予定が減った分、

朝を急がなくなっただけだ。


婚約者としての立場があった頃は、

一日の始まりから終わりまで、

常に「次」が決まっていた。


今は違う。


私は、自分の部屋で目を覚まし、

窓を開け、

庭の様子を眺める余裕がある。


白百合は、相変わらず静かに咲いていた。


朝食の席で、

父が何気なく言った。


「今日は、侯爵家のエドワード殿が来るそうだ」


「……そうですか」


驚きはしなかった。

ただ、少しだけ意外だった。


「用件は?」


「特に聞いていない。

 庭の改修の話らしいが」


庭、と聞いて、

私は無意識に視線を外へ向けた。


改修が必要なほど、

荒れているわけではない。


「……お仕事でしょうか」


そう言うと、

父は一瞬だけ考えるような間を置いた。


「さあな。

 ただ、あの家は昔から、

 この庭を気に入っている」


それ以上、話は続かなかった。


昼前、

庭に人の気配が増えた。


植木職人が数名。

使用人たちが指示を出し、

何やら準備を進めている。


「何かあるの?」


通りかかったマリアに聞くと、

彼女は少し困ったように笑った。


「……お嬢様には、まだ内緒で、と」


「内緒?」


「はい。

 ただ……大したことではありません」


その言い方が、

大したことではない人のそれではなかった。


私は、それ以上聞かなかった。


距離を取ると決めた以上、

深入りしないほうがいい。


昼過ぎ、

庭の奥でエドワード様と顔を合わせた。


「こんにちは」


「こんにちは」


挨拶は、それだけ。


以前と変わらない距離感。

それが、少しだけ不思議だった。


「何か、工事を?」


私がそう尋ねると、

エドワード様は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。


「……ええ。

 以前から、気になっていた箇所がありまして」


気になっていた箇所。


それが、

私が毎朝歩いている小径だと気づいたのは、

職人たちが作業を始めてからだった。


段差を均し、

歩きやすく整え、

花を傷つけないよう、慎重に。


「ここは、よく使われるのですか」


そう聞かれて、

私は正直に答えた。


「ええ。

 特に目的はありませんが」


「そうですか」


それだけ言って、

彼はそれ以上、何も言わなかった。


けれど、その視線は、

作業の様子ではなく、

私の歩幅を見ているように見えた。


夕方。


庭の小径は、

驚くほど歩きやすくなっていた。


ほんの少しの整備。

けれど、確実に「配慮」があった。


「……これは」


私が呟くと、

マリアがそっと言った。


「足元を気にせず歩けるように、と」


「誰が?」


「……さあ」


そう言いながら、

彼女は視線を逸らした。


私は、それ以上、聞かなかった。


夜、自室で一人になる。


今日一日を振り返って、

ようやく気づく。


私は、

何も頼んでいない。


期待も、要望も、

口にしていない。


それなのに、

私の「日常」は、

少しずつ、過ごしやすくなっている。


段差のない道。

余計な詮索をしない会話。

静かに置かれる距離。


それは、

守られている、というより――

尊重されている、に近かった。


――不思議ですね。


私は、身を引いたはずなのに。


前に出ることも、

何かを示すこともなく、

ただ静かにしているだけなのに。


世界のほうが、

私の歩く速さに合わせてくる。


それが、

ありがたくもあり、

少しだけ、戸惑いもあった。


「……このままで、いいのでしょうか」


答えは出ないまま、

灯りを落とす。


けれど、

不安で眠れない夜ではなかった。


それだけで、

今は十分だと思えた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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