第16話 過去は、もう届かない
その知らせは、
午後の静かな時間に届いた。
「王城より、
ご連絡がありました」
マリアの声は、
いつもより慎重だった。
「……用件は?」
問い返した声は、
自分でも驚くほど落ち着いていた。
「殿下が、
一度、お話ししたいと」
その言葉を聞いても、
胸は、ほとんど動かなかった。
驚きも、
苛立ちも、
期待もない。
ただ――
「ああ、そういうこともあるでしょう」
それだけだった。
私は、
すぐには答えなかった。
断る理由を探したわけではない。
応じる理由も、
見つからなかっただけだ。
「……今は、
必要ありません」
そう告げると、
マリアは一瞬だけ迷い、
そして静かに頷いた。
「承知しました。
その旨、お伝えします」
それで終わり。
簡単だった。
夕方、
エドワード様が屋敷を訪れた。
用件は、
父との話し合いだと聞いていた。
私は、
庭にいた。
白百合の小径を、
一人で歩いていたところだった。
「……失礼します」
背後から声がして、
振り返る。
「こんにちは」
「こんにちは」
それだけのやり取り。
「王城からの件ですが」
彼は、
私の様子を確かめるように言った。
「すでに、
お断りしました」
「そうですか」
それ以上、
理由を聞かれなかった。
「その判断は、
あなたのものです」
いつも通りの言葉。
けれど、
今日は、それが特に心に残った。
「……代理で、
返答する必要があれば」
彼は、
言葉を選びながら続ける。
「私が、
線を引きます」
線を引く。
その言葉は、
もう何度も聞いている。
けれど、
今回は、少しだけ違って聞こえた。
「いいえ」
私は首を横に振った。
「今回は、
必要ありません」
彼は、
わずかに目を見開いた。
「私が、
選びましたから」
そう言うと、
彼は静かに頷いた。
「承知しました」
それだけ。
夜、
部屋に戻って、
一人になる。
私は、
あの人の顔を思い出そうとして――
やめた。
思い出す必要が、
もうなかった。
婚約者だった時間。
役割として過ごした日々。
それらは、
確かに私の過去だけれど、
今の私に、
何かを求めてはこない。
届かない。
それでいい。
窓の外を見る。
庭は静かだった。
あの頃、
王城の高い塔の中で感じていた
張りつめた空気は、
ここにはない。
私は、
ようやく分かった。
婚約破棄は、
私を奪った出来事ではない。
私を、
解放した出来事だったのだと。
扉が、
軽く叩かれた。
「お嬢様。
まだ、お起きでしたか」
マリアだった。
「ええ」
「先ほど、
王城のお使いの方が、
お戻りになる前に、一言だけ」
「……何か?」
マリアは、
言葉を、そのまま運んできた。
「"殿下は、
お返事を急がれない、と"」
私は、
すぐには何も言わなかった。
「……そう」
「はい。
それだけ、と」
「分かりました。
おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
扉が閉まる。
急がれない。
その言葉を、
私は最近、どこかで聞いた気がした。
誰の言葉だったかは、
思い出さなかった。
窓の外の庭は、
さっきと同じように、静かだった。




