道場の異変
海岸沿いの道を進みながら、雪乃は目的地である道場のことを説明する。
「道場主は楢崎瞬二と言って、わたしの9つ上の36歳。7年前に焔流の免許皆伝を得た後故郷に戻り、道場を開いたそうなの。実はわたしも訪ねるのは初めてなんだけどね」
「そうなのですか」
「塞にいた頃には色々と教えてもらったり、遊びに連れて行ってもらったりしてたわ。とても気さくで人柄も良くて、……そうね、兄のように慕っていたわ」
「へえ……」
話している間に大通りから住宅街へ移り、そこも抜けて郊外に入ったところで、雪乃が前方の建物を「あれね」と指差す。
「『郊外に大きな道場を構えることができました』と手紙にあったから、多分あそこよ」
「はい。……うん?」
と、その建物に近付くにつれ、晴奈は違和感を覚える。
「どうしたの?」
「妙な臭いがしますが……」
「妙な臭い?」
「酒臭いような、泥のような……何かが腐っているような」
「どこから?」
「風向きからして、道場からです。……あの、師匠。ここで間違いないのですか?」
「……そ、そのはず、なんだけど」
やがて雪乃もその異状に気付いたらしく、ぱた、と足を止めた。
「ゴミだらけ……ね?」
「ええ。本当にここが道場なら、道場主の人間性を疑うところです」
「わたしも……そう思うわ。……もしかしたら、ここじゃないのかも」
そう言って道場の門に架けられた看板を確認し、雪乃が「あっ」とつぶやく。
「島流剣術道場? ……違うみたい」
「安心しました。まさか師匠が兄のように慕う方が、こんなだらしのない者であるわけがないでしょうから」
「え、ええ。わたしもホッとしてるわ、楢崎じゃなくて」
と、門前で話していたところに――「どけ」と背後から声をかけられた。振り向くとそこには、白髪に白ヒゲをたくわえた、いかにも狡そうな顔つきの、中年の短耳が立っていた。
「女が何の用だ。宿でも借りに来たか?」
「……いいえ。知り合いの道場かと思って訪ねたけど、ここじゃなかったみたいね」
答えた雪乃に、その中年男はにやぁ、と下卑た笑みを向けた。
「知り合いだと? 楢崎とか言う男のことか」
「……!」
息を呑んだ雪乃を見て、「やはりか」と男は得意げにうなずく。
「いかにもここは3ヶ月前まで、楢崎なる男が道場主であった。しかしこのわし、島竜王が追い出してやったのだ」
「なん……ですって?」
「偉そうに人に講釈を垂れておったのでな、わしがちょいとこらしめてやったのよ。あの程度の腕前で師範だの道場主だの、片腹痛いと言うものよ」
「バカな、……いいえ、そう、……邪魔したわね」
雪乃は顔面蒼白ながらも、毅然とした態度を見せてはいたが――付き合いの長い晴奈にはこの時、師匠が内心怒りに満ち満ちているのを感じていた。
「行きましょう」
そう言って雪乃は晴奈の手を取り、その場を離れようと促す。晴奈も気が動転しかかっていたため、この場は大人しく引き下がった。
ともかく街に戻って宿を取り、晴奈と雪乃は先程の状況を話し合った。
「道場破りですって!? ありえない! 剣豪楢崎瞬二が、あんな下衆な男に負けるはずが無いわ!」
「しかし道場にいたのは、あの下品な男一人のようでした。事実であると考える他無いのでは」
「……そんなの認められないわ。瞬二さんの強さはわたしが良く知っている。間違ってもあんな性根の腐った奴に敗れるような、やわな男じゃない。
判断する前に、情報を集めましょう。事の真偽を確かめないと」
「承知しました」
晴奈たちは街で聞き込みを行い、次のことが判明した。
「島は3ヶ月前、この街にふらりとやって来た。着ているものこそ多少は高価そうではあったが、明らかにまともな職に付いている風でもなく、うさん臭い感じだった」
「島は小ずるい男で、ああしてあちこちの道場を襲っては食い潰して、荒らし回っているらしい。本人は名士気取りらしいが、実際は酒癖も手癖も悪い、鼻つまみ者だ」
「この街に剣術道場があるとどこかで聞いていたらしく、島は街に来てすぐそちらに向かった」
「楢崎さんの門下生によればあの島と言う男、楢崎さんと勝負する前に、何かを仕込んだとか、企んだとか。それに楢崎さんが引っかかって、その結果、敗北を認めたと」
「楢崎さんはそのままどこかに走り去って行ったらしい。残された奥さんは今、家で臥せっているそうだ」
「楢崎さんのとこには子供もいたはずだがこの3ヶ月、まったく姿を見せないし、何してるって話も聞かない。島が殺したんじゃないかってうわさが立ってるが、本当かどうかは……」
「あいつが道場を乗っ取ってこの街に居座ってからと言うもの、道場の周りではケンカが絶えないし、ご近所も迷惑してるそうだ」
ひどい評判ばかりが集まり、晴奈は怒りに震えていた。
「何と言う下劣な奴だ!」
「本当、剣士の風上にも置けない奴ね」
その後も懸命に聞き込みを続けたものの――結局、二人は楢崎本人を見つけることも、その消息をたどることもできなかった。




