異物
「息子が、チー牛をいじめてるらしい」
友人にそう告げた。カフェの喧騒にかき消されることなく、その言葉ははっきりと僕の耳に届いた。
「マジかよ」と僕が言うと、彼は得意げに笑った。「褒めてやったんだ。よくやったって」。
僕は絶句した。いじめは、いじめだ。そんなことを褒めるなんて、どうかしている。
「だってよ、あいつはチー牛なんだぜ。将来アニメとかアイドルにハマるような、気持ち悪いガチチー牛。ああいうのは、凶悪犯罪とか起こす前に淘汰しといた方がいいんだよ」
友人は真剣な顔でそう言った。彼の顔には、微塵の悪意も見られなかった。むしろ、当然のことを言っている、とでも言いたげな表情だ。
「俺も昔はそうだった。チー牛をいじめる側。ちゃんと息子にも遺伝してて嬉しいね」
僕には、彼の言葉が理解できなかった。
いじめは、ただの暴力だ。それを正当化する理由なんて、どこにもない。
でも、彼の言葉の奥には、彼自身の学生時代のヒエラルキーが透けて見えた。彼は「強者」であり、「陽キャ」だった。そして、その立場を、息子にも引き継がせようとしている。
夜、家に帰り、ベッドに横になる。
僕は、学生時代、いじめる側でも、いじめられる側でもなかった。
クラスの隅で、静かに本を読んでいる、ごくありふれた生徒。
周りで起きているいじめを見て見ぬふりをしてきた、傍観者だ。
いじめられている「チー牛」に、声をかける勇気もなかった。いじめている「陽キャ」に、意見する度胸もなかった。
僕は、いじめという構図において、誰の味方にもならなかった。
ただ、自分に火の粉が降りかからないように、息を潜めていた。
そんな僕にとって、友人の言葉は、深く突き刺さるナイフのようだった。
次の日、僕は友人に会った。
彼は昨日と同じように笑っていた。
「息子、めちゃくちゃ喜んでたわ。お小遣いも多めにやったんだ」
「やめとけよ」
僕の口から、自然とそんな言葉が漏れた。
友人は、一瞬、きょとんとした顔をした後、不機嫌そうな表情になった。
「お前には、チー牛の気持ち悪さがわからねーだろ。あいつらは、社会の異物なんだよ」
「異物って、お前が勝手に決めたことだろ」
僕の言葉に、彼は何も言えなかった。
「なあ、いじめはダメだ。どんな理由があろうと、それは暴力なんだ。チー牛だろうが、何だろうが、人をいじめていい理由なんて、どこにもない」
友人は、少しの間黙っていたが、やがて不愉快そうに顔を歪めた。
「なんだよ、お前。正論ぶってんじゃねーよ」
そして、彼は何も言わずにその場を立ち去った。
僕の言葉は、彼にとって「正論」という、聞くに値しないものだった。
でも、後悔はしていない。
僕は、あの時の自分とは違う。
傍観者ではなく、はっきりと自分の意見を言えた。
それで友人を失ったとしても、僕は、この選択を後悔しないだろう。
いじめは、ダメだ。
その当たり前のことを、僕はもう一度、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
そして、その声は、僕の心の中に、確かな光を灯した。