カタツムリの殻
恵理子は、薄暗い部屋の隅で膝を抱える娘、花音の背中を見ていた。痩せ細った体。食卓に並べた食事に、花音は一口も手をつけていない。あの笑顔が消えてから、もうどれくらい経っただろう。
「10歳の娘は、田舎のガキに壊されたんですよ!」
先日、取材に来た記者にそう吐き捨てた。あの時は、怒りと悲しみが入り混じった感情が止めどなく溢れ出したが、今はそれすら枯れ果てている。
移住前のことだ。花音は小学3年生からクラスで浮き始め、陰口を叩かれ、無視されるようになった。学校に相談しても「様子を見ましょう」の一点張り。都会のギスギスした人間関係に、恵理子自身も疲弊しきっていた。ママ友もいない。頼れる人もいない。ただ一人、ネットで解決策を探す日々。
そんな時、見つけたのが「山村留学」を積極的に受け入れている地方の小学校だった。
豊かな自然、60名ほどの小規模校、卒業までクラス替えがないアットホームな環境。
「ここなら、花音もきっと笑顔を取り戻せる」
そう確信し、恵理子は都会での生活を捨て、花音を連れて移住を決意した。
しかし、その夢はあっけなく打ち砕かれた。
転校初日、担任の先生の「みんなで花音ちゃんを温かく迎えよう」という言葉に、花音は久々の笑顔を見せた。恵理子も、心の底から安堵した。
だが、その翌日から、花音の笑顔は消えた。
「都会から来た派手な子!」「変なヘアピンつけてる!」
都会では当たり前だった花音の服やツヤのあるロングヘア、髪飾りが、田舎の子供たちには「異質」として映ったのだ。
そして、男子児童が机に置いた大きなカタツムリ。
「都会じゃ見たことないだろ?」
嘲笑するような声。
花音は家に帰るなり、泣きながら言った。「ここの子たちは、私を『変だ!』って言うの。私には田舎の空気が分からないって…」。
恵理子は衝撃を受けた。「のどかでトラブルがない」という幻想は、たった一日で打ち砕かれた。それどころか、まるで地域全体が自分たちを排除しようとしているかのような空気に、恵理子自身も息苦しさを感じ始めた。
花音は「都会から来たワケ有りの子」というキャラクターを与えられ、再び不登校に。そして、摂食障害。見る見るうちに花音は痩せ細っていった。
「私が、間違っていたのかもしれない」
後悔の念が、恵理子の心を蝕む。自分の勝手な思い込みで、娘をさらに苦しめてしまったのではないか。
あの時、カタツムリを見て「わー、すごい!」とでも言わせていれば、何か変わったのだろうか。
そんな取るに足らないことまで考えてしまう。
花音は、あのカタツムリのように、殻の中に閉じこもってしまった。
いや、違う。花音の殻は、都会の子供たちにも、田舎の子供たちにも、そして母親である自分にも壊されてしまったのだ。
もう一度、花音に笑顔を取り戻すにはどうすればいいのだろう。
恵理子は、ただただ、娘の背中を見つめ続ける。
緑豊かな山村に響くのは、ひぐらしの声と、母の深い後悔の念だけだった。