幸せな鬼ごっこ
「お前、本当に情けないな」
鏡に映る自分に、僕はそう呟いた。
冴えない表情、猫背。どこからどう見ても、社会の底辺を這いずり回る男。
あれから十数年が経った今も、あの日の記憶が僕を縛り付けていた。
小学生の頃、僕は標的だった。
「おい、タカシ!」
いつも僕を追いかける声。鬼ごっこをしよう、というわけじゃない。彼らは僕が逃げ惑い、怯える姿を見て楽しんでいた。
僕は、ただ、逃げることしかできなかった。彼らの足は僕よりずっと速く、体も大きかった。
「捕まえたら終わりだからな!」
その言葉が、僕の人生の呪文になった。捕まったら、終わり。
大人になった今、僕は誰にも捕まらない人生を送っている。
定職には就かず、日雇いのバイトを転々とし、人間関係は必要最低限。
誰とも深く関わらなければ、誰にも傷つけられない。
まるで、永遠に続く鬼ごっこをしているようだ。
僕は、鬼から逃げ続けることだけは、誰よりも上手くなった。
ある日、駅前の大通りを歩いていると、前から懐かしい顔がやってきた。
シンイチ。僕を追いかけ回していた、あの鬼ごっこのリーダーだ。
彼は、当時と変わらない笑顔をしていた。
「あれ?タカシじゃん!久しぶり!」
シンイチは屈託なく声をかけてきた。隣には、彼によく似た可愛らしい女の子が歩いている。
「娘なんだ。この前、運動会でリレーの選手になったんだぜ!」
シンイチは得意げに笑い、娘の頭を撫でた。
その姿を見て、僕は何も言えなかった。
シンイチは、過去の僕をいじめたことなど、まるで覚えていないようだった。
いや、もしかしたら、僕をいじめたこと自体、彼の人生にとっては取るに足らない、楽しい遊びの一つだったのかもしれない。
「じゃあな!また飲みに行こうぜ!」
彼はそう言い残し、人混みに消えていった。
僕はその場に立ち尽くし、ただ、彼の幸せそうな背中を見つめていた。
彼は、鬼ごっこを終えたのだ。
そして、その勝利を手に、幸せな人生を歩んでいた。
僕は、まだ鬼ごっこの最中だ。
捕まったら終わり。
どこまでも、どこまでも、逃げ続けなければならない。
その日の夜、僕は一人、部屋で酒を飲んだ。
テレビから流れるニュースが、僕の耳には届かない。
頭の中は、あの頃の、そして今の情けない僕でいっぱいだった。
逃げ続けた人生に、意味はあるのだろうか。
幸せな鬼ごっこを終えられなかった僕は、いつまで走り続けなければならないのだろうか。
僕は、ただただ、グラスを傾け続けた。
誰もいないこの部屋で、一人きりの鬼ごっこを、永遠に続けるように。