遺伝子の継承
遺伝子の継承
山田太郎は、今日もまた溜息をついた。鏡に映るのは、学生時代から変わらない冴えない自分の顔だ。少し猫背気味の姿勢、常に下を向いているような目つき。どう見ても「強者」とは程遠い。
彼はいじめられっ子だった。授業中に教科書を隠され、上履きをゴミ箱に入れられ、無視される。その記憶は、大人になった今でも鮮明に残っている。結婚して子供が生まれたとき、彼は心から願った。「どうか、この子だけは、いじめられませんように」。
生まれた息子は、太郎とは似ても似つかない活発な子だった。公園で転んでも泣かず、知らない子にも臆せず話しかける。その姿を見るたびに、太郎は安堵した。
「俺とは違う。この子はきっと大丈夫だ」
しかし、小学校に入学して数年が経った頃、彼の不安は現実となる。息子が帰宅してくるなり、ランドセルを放り出し、黙り込んでしまったのだ。
「どうした?何かあったのか?」
太郎が尋ねても、息子は何も答えない。代わりに、妻が学校から受け取った連絡帳を見せてくれた。
そこには、息子がクラスメイトから無視されているという、信じがたい記述があった。
太郎は血の気が引くのを感じた。なぜだ?どうして、この子が?
彼は必死に息子を励ました。「大丈夫だ。パパがついてる。絶対に負けるな」。
しかし、言葉は空しく響くばかりだった。
ある夜、太郎は押し入れの奥から古いアルバムを取り出した。そこに写っているのは、若い頃の自分と、その隣で微笑む父の写真だった。父は、見るからに強面で、ヤクザの組長か何かのような雰囲気だ。
太郎の父親は、町では「鬼の親父」として恐れられていた。太郎自身も、その威圧的なオーラのおかげで、父と一緒にいるときは誰も近づいてこなかったのを覚えている。しかし、父の姿がない場所では、いじめの格好の標的だった。
アルバムのページをめくると、母の写真があった。優しい笑顔の、普通の女性だ。しかし、ふと思い出したことがある。太郎が小学生の頃、母が「子供の頃、よくからかわれてたわ」と笑いながら話していたのを。
その時、太郎は一つの仮説にたどり着いた。
父は確かに強者だった。だが、母は違った。そして、自分は、母に似たのかもしれない。
「弱者」の遺伝子が、母から自分へ、そして、自分から息子へ受け継がれてしまったのではないか。
その日から、太郎は息子に自分の経験を語るようになった。いじめられた過去、そこからどうやって立ち直ったか、そして何よりも、いじめに立ち向かう勇気を持つことの大切さを。
息子は最初は戸惑っていたが、次第に真剣に話を聞くようになった。
ある日、息子は言った。「お父さん、僕、もう大丈夫だよ」。
それからというもの、息子の表情は明るくなり、以前のように友達と元気に遊ぶ姿が見られるようになった。
太郎は、遺伝子がいじめられやすさを決定づけるという考えを完全に否定できたわけではない。しかし、遺伝子だけが全てではないことを、息子が証明してくれたように感じていた。
「遺伝子に囚われてはいけない」
太郎は、鏡の中の自分に語りかけた。今日まで下を向いていた目を、ほんの少しだけ上に向ける。