第35話 壊れていく罪
呼吸が詰まり、喉が乾ききってざらつく。
目の前の彼女は、もはや意識の残骸すらないようで、ただこの場に縛られた抜け殻だった。
俺は顔をそらして、八雲を睨みつける。
「……こんなふうに縛りつけて、何が目的だ。」
声は枯れて、怒気で震えていた。
「これが、お前らの言う『更生』か?」
「懺悔を強要して、罪を認めさせる?」
「こんなやり方でか?」
八雲は何も言わなかった。
ただ、魚のように感情の読めない目で俺を見返し、
口元にはわずかなカーブ――肯定にも否定にも見える、無表情な笑みが浮かんでいた。
その態度に、胸の中がさらに苛立ちで満たされていく。
(……この見せかけだけの腐った施設が。)
俺は詩音に歩み寄り、ゆっくりと彼女の顎を持ち上げた。
肌は石のように冷たく、首は力なく垂れて、髪が頬に張りついている。
手を放そうとしたその瞬間――
彼女の瞳が、かすかに動いた。
指先が硬直した。
彼女の眼球がゆっくりとこちらへ動き、俺と目が合った。
その瞬間、背筋を冷たい刃が走ったように感じた。
詩音の口から、くぐもった音が漏れる。
何かを言おうとしている――
俺は眉をひそめ、口を塞ぐ布を取り外した。
詩音は浅く数回呼吸し、かすれた声で囁いた。
「西園寺……来たんだ……」
意外すぎて、思わず固まった。
まるで友達にでも声をかけるような口調。
だがその声は、砂を噛むように乾ききっていた。
「……ああ。」
喉の奥が痛む。
掠れた声で、そう返すのがやっとだった。
ふと八雲を横目で見ると――
あの野郎は壁に寄りかかって、腕を組みながら完全に傍観者の顔をしていた。
目には一片の感情もない。
俺はゆっくりと膝をつき、彼女と視線を合わせるようにしゃがんだ。
「……怒ってないのか?」
詩音は瞬きを一つして、ゆっくりと首を横に振った。
「わかんない。」
「何が?」
「どうして怒らなきゃいけないの?」
その声はかすれているのに、あまりにも当たり前のことを語るような響きがあった。
「こんな目にあって……何も感じないのか?」
詩音は、首を小さく傾けた。
その目は空っぽで、奥行きがなかった。
「普通のことじゃないの?」
――その一言は、顔を殴られたような衝撃だった。
頭の中で、何かが大きく鳴り響いた。
(……普通?)
(これが……普通?)
「いや、普通じゃない。」
気がつけば、声が荒れていた。
かすれて、裂けそうなほどに。
「これは、間違ってる!」
思わず立ち上がり、背筋が軋むように固まった。
(……やっぱり、俺たちとは違う。)
(彼女は、一体なんなんだ?)
(人を殺しても、なぜか汚れていないように見えた。)
空洞のような彼女の瞳を見ていると、胃がきしみ、吐き気がこみ上げてくる。
(怖い……)
(……これが、本当に怖い。)
無意識に一歩、後ずさった。
喉から、乾いた音が漏れる。
「へえ――」
背後から、八雲の声。
のんびりしているくせに、皮肉がにじんでいる。
「自分から会いたいって言ったんだろ?」
「それが、このザマか?」
俺は奥歯を噛みしめ、胸元を押さえた。
心臓が跳ねすぎて、指の感覚がなくなりそうだった。
(黙れ……)
(頼むから、黙ってろ……)
だが八雲は止まらなかった。
眉をわざとらしく上げ、両腕を広げると、まるで講義でも始めるようなポーズを取る。
「さあ、本日の授業です。」
「題して――『認知の不協和』。」
「よく聞けよ、子羊ちゃん。」
俺は顔を上げ、鋭く睨みつけた。
八雲は芝居がかった笑みを浮かべながら、
その声は剃刀のように冷たかった。
「お前は、人の感情を読むのが得意だ。」
「状況をコントロールすることにも慣れてるし、他人もそれに頼ってきた。だから、自信があった。」
彼は顎で、詩音を指した。
「でもな、彼女は違う。」
「お前の想定には当てはまらない。」
「だから――」
その言葉の最後は、あえて囁くように低く吐かれた。
「――気になるんだろ?」
喉から、ギリッとした音が漏れた。
(……心理分析か?AI気取りかよ。気色悪い野郎だ。)
「彼女を理解しようとする。言葉を引き出して、自分を安心させたかった。」
「でも、見れば見るほど――怖くなった。」
「……黙れ。」
その言葉を、押し出すように吐いた。
指が、手のひらを食い破るように握り込まれている。
八雲は眉を上げて、両手を無造作に広げた。
「認めたくないのか?」
呼吸が浅くなる。
鼓動の音が耳を圧迫して、頭が割れそうだ。
俺は思わず顔を背ける。
だがその視線の先――
あの高背の椅子には、まだ詩音がいた。
その目は、半開きのまま。
まるで、何も聞いていない。
(……クソッ。)
(この空間、すべてが腐ってる。)
(そして――俺も。)
俺は冷たい空気を肺に詰め込み、最後に八雲を睨んだ。
「言いたいことがあるなら、まとめて全部言え。」
声は震えていたが、終わりには冷たい強さがにじんでいた。
八雲は目を細め、笑みをさらに歪めた。
そのまま両肩を抱きしめるようにして、陶酔の仕草。
「彼女が初めて感じた“正の感情”は――君が与えたものだ。」
「依存が、芽吹いた。」
「君こそが、“罪”だ。」
息が止まった。
冷たい鉛のような何かが、胸を押し潰す。
(……何?)
頭の中が、ぶつっと切れたような衝撃。
「何言ってんだ……?」
八雲の笑顔は、一瞬で消えた。
演技のような仕草すら消え失せる。
目線を詩音に落とし、声は刃のように冷たくなった。
「君たちの罪は、十五歳を過ぎてから定義される。」
「だが彼女は――生まれた瞬間に、罪を与えられていた。」
瞬きと共に、頭の奥で何かが軋む。
「……なんだって?」
八雲は答えなかった。
その代わり、両手を高く上げ――
「パァン!」
石壁に響く、乾いた拍手。
その音が、空気を切り裂いた。
心臓が、一瞬跳ねた。
「――面会、終了。」
まるで機械の音声のように、冷たく告げられた。
俺は詩音に目をやる。
目は半開きで、表情は変わらない。
そこに、魂があるのかすら分からない。
だが――
ふと、視線が重なった瞬間――
俺は反射的に顔を背けた。
視線が、焼けるように熱くて、怖かった。
(あの時と同じだ……)
(彼女の頭に手を置いた、あの瞬間――)
俺は自分の手を見下ろす。
指は白くなるほど力が入っていて、
掌は冷たく湿って、震えが止まらない。
(ここは――本当にクソみたいな場所だ。)
俺はドアを押し開けた。
冷たい空気がなだれ込み、
消毒液とカビの混じった臭いが目を刺した。
背後から、八雲の冷たい声が響いた。
「……フフ。」
「迷える子羊よ。」
俺はドアの前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。
指が頬をかすめて震えた。
そして、無意識に口元に触れる。
――そこに浮かんでいたのは、ひどく不自然で、歪な笑みだった。
(……クソが。)
(俺も、もう壊れかけてる。)




